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自信家太宰も好きだけど自尊心低太宰も好き。もうどっちも好き。
迎賓館の正面玄関は、金箔とクリスタルで飾られた巨大な門が、訪れる者を選別するように威圧的に口を開けていた。中原中也は、漆黒の外套の襟を立て、吐き出す溜息さえも熱に変わるような苛立ちを孕ませながら、その豪奢な絨毯を踏みしめた。周囲の視線は、彼が歩を進めるたびに吸い寄せられ、畏怖と羨望の混じったさざ波が広がっていく。帝都の軍部、政界、そして名だたる異能の血筋を引く者たちが、この若き「重力の主」に一言でも声をかけようと虎視眈々と機会を窺っていた。だが中也は、それら全てを背景の雑音として切り捨てていた。
「中也様、本日はようこそお越しくださいました」 「ああ」 差し出されるシャンパングラスを無造作に受け取り、中也は会場全体を見渡した。煌びやかなシャンデリア、鼻を突く高級な香水の匂い、そして、自らの権力を誇示するためだけに磨き上げられた笑顔。どれもが彼にとっては、食い飽きた出来合いの料理のような退屈さを伴っていた。中原という家名は、彼に絶対的な自由と同時に、絶対的な孤独を与えていた。誰もが彼を「最強の異能者」として、あるいは「便利な兵器」として、もしくは「最も価値のある権力の象徴」として見る。中原中也という一人の男を直視する者は、この広大なホールには一人もいない。
中也がふと、会場の最端、搬入口へと続く暗い影が落ちる柱の陰に視線をやったのは、単なる気まぐれだった。あるいは、彼特有の鋭敏な異能の知覚が、その場所に「何もない」という不自然な空白を感じ取ったからかもしれない。
そこには、一人の給仕の少年が立っていた。
他の給仕たちは、中原中也という帝都の至宝を間近で見られたことに興奮を隠せず、上気した顔で忙しなく立ち働いている。だが、その少年だけは違った。彼は、まるでそこに存在しないかのように気配を殺し、ただの「置物」としてそこにいた。 中也は、無意識に足を止めた。 少年が纏っているのは、給仕用の安っぽい制服ではない。よく見れば、数世代前の型落ちした学生服を、無理やり針と糸で繋ぎ合わせたような、酷く貧相な布切れだった。その袖口からは、凍えきって赤紫に腫れた細い手首が覗いており、指先は銀盆の縁を握る力さえ残っていないかのように、幽霊のように白かった。
何より、その少年の「目」が、中也を惹きつけた。 茶色の瞳は、光を反射することを知らない深い沼のようで、そこには生への執着も、現在の状況への不満も、何一つ宿っていない。ただ、命の灯火が消えかかる瞬間の、静かな灰の色をしていた。
(……なんだ、あいつは)
中也の中に、説明のつかない不快感が芽生えた。 自分に向けられる視線は、憎悪であれ崇拝であれ、常に「熱」を持っていた。だが、あの少年から放たれるのは、全てを凍てつかせるような絶対的な「零」の気配だ。中也の放つ重力の圧力さえも、あの少年の周囲では、無力に霧散しているかのような錯覚に陥る。
「中也様、あちらに太宰家の現当主、正治殿がお見えです。ご挨拶を……」
随行員の言葉に、中也は鼻を鳴らした。
「……太宰? ああ、あの落ち目の家系か」
中也の視線は、少年の背後から現れた太宰正治と、その息子である信治へと移った。彼らは、治を――その少年の名を、中也はこの時点ではまだ知らない――盾にするようにして、厚かましい笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってきた。
「中原様! 本日はお目にかかれて光栄の至り。我が息子、信治を是非ともお見知りおきください。学園でも優秀な成績を収めており、貴方様のご助力になれるかと」
正治は、隣に立つ実の甥である少年の存在など、視界に入っていないかのように振る舞った。それどころか、信治が中也に深々と頭を下げる際、邪魔だと言わんばかりに少年の肩を乱暴に肘で突き飛ばした。
少年は、よろめいた。 銀盆が微かに音を立て、彼の足元の床に数滴の水が零れる。
「……申し訳ありません」
少年の口から漏れた声は、掠れており、感情の起伏が完全に削ぎ落とされていた。彼は即座に跪き、汚れた自分の袖で、零れた水を拭い始めた。その動作には、屈辱に震える様子も、謝罪の誠実さもない。ただ、プログラムされた機械がエラーを修正するかのような、無機質な義務感だけがあった。
「お見苦しいところを、中原様。この子は、我が一族の恥部でしてな。頭も異能も足りぬ出来損ないゆえ、給仕の真似事すら満足にできぬのです」
正治が、嘲笑を隠そうともせずに言い放った。 信治もそれに倣い、床を拭く少年の頭を、わざとらしく靴の先で小突きながら言った。
「おい、治。中原様の前だぞ。そんなに這いつくばって、まるで犬じゃないか。ほら、もっと隅へ行け」
少年――治は、言われるがままに頭を低くし、再び影の落ちる柱の陰へと退いた。 一連の出来事の間、彼は一度も顔を上げず、誰とも目を合わせなかった。ただ、冷たい石の床を無感動に見つめていただけだった。
(……おい、待てよ)
中也の中で、苛立ちが明確な「怒り」へと変質し始めた。 彼は、自分を神のように崇める太宰正治の醜悪な顔と、影に消えていく少年の、あの「死んだ目」を交互に見た。 中也は、戦場でも平時でも、多くの人間を見てきた。裏切り、絶望、狂気。だが、目の前の少年が纏っているのは、そのどれとも違う。「自分という存在がこの世に在ること自体を拒絶している」ような、深い、深い虚無。
中原中也という男は、強者に屈せず、弱者を無意味に虐げる者を嫌う。だが、それ以上に彼を逆撫でしたのは、あのような「至宝」とも呼べるほどの澄んだ孤独を抱えた人間が、あのような下劣な「有象無象」に踏みにじられているという、構図そのものの歪みだった。
「……あいつ、何て言った」
中也が低く呟いた。
「は? 誰のことで……ああ、あの出来損ないの治のことですか? 気になさらないでください。ただの居候、太宰家の穀潰しでございますから。中原様のような高貴な方のお耳を汚す価値もございません」
正治は、中也の不機嫌の正体を見誤り、さらに治を貶めることで、中也の歓心を買おうと躍起になった。
中也は、手元に残っていたシャンパングラスを、音も立てずに手の中で砕いた。
「……そうか」
重力が、一瞬だけ会場の空気を圧縮した。 周囲の貴族たちが、何事かと顔を見合わせ、その威圧感に喉を鳴らす。 中也は、これ以上この男たちと会話を続けることに、耐え難い嫌悪感を覚えた。 だが、今の彼には、あの少年に手を差し伸べる正当な理由がない。恋でもなければ、友情でもない。ただ、本能的な「違和感」と、自らの異能が共鳴するかのような、奇妙な磁場。
(無能だと? 笑わせるな。あのガキの周りだけ、俺の力が妙に凪いでやがる)
中也は、人混みをかき分け、あえて治が立つ柱の近くを通るように歩き出した。 周囲は、中也が移動するたびに騒がしく波打つ。だが、治だけは微動だにしなかった。彼は、自分の横を帝都最強の男が通り過ぎることさえ、他人事のように受け流している。
中也は、治の真横で足を止めた。 数センチの距離。治の着ている継ぎ接ぎだらけの布から、冬の枯れ葉のような、乾いた寂寥の匂いがした。 中也は黙って、治の横顔を見下ろした。 近くで見れば、その肌は不自然なほど青白く、頬はこけている。そして、手首に残る古傷の数々。
治は、中也が隣に立っていることに気づいているはずだった。だが、彼は視線を上げない。まるで、自分という存在が中也の視界に入ることさえ、許されない罪であるかのように、自らの存在を透明化させようとしている。
「……おい」
中也が、周囲には聞こえないほどの低い声で、短く呼びかけた。 治の肩が、目に見えないほど僅かに、ぴくりと跳ねた。 彼は、信じられないものを見るかのように、ゆっくりと、本当にゆっくりと視線を上げた。
初めて、二人の目が合った。
中也の青い瞳は、荒れ狂う冬の海のように激しく、熱を持っていた。 治の茶色の瞳は、全てが凍りついた湖の底のように、静まり返っていた。 数秒の沈黙。 治の瞳の奥で、何かが微かに揺れた。それは驚きでも、喜びでもなかった。ただ、自分の深い深い闇の底に、あり得ないはずの光が差し込んできたことへの、戸惑い。
「……何か、御用でしょうか。中原様」
治の唇が動き、掠れた声が紡ぎ出される。 彼は、中也に話しかけられたことが、何かの間違いであると確信しているようだった。自分のようなゴミが、この太陽のような男に言葉を返していいはずがない。そう、全身が叫んでいる。
「…………いや。何でもねぇ」
中也は、それだけ言うと、治から視線を外した。 彼自身、自分がなぜ声をかけたのか、分からなかったからだ。 同情か? そんな安い感情ではない。 興味か? そんな軽い言葉で片付けたくはない。 ただ、中原中也という強固な自意識の壁に、あの少年の「無」が、小さな、しかし決して消えない穴を開けたのだ。
中也はそのまま、大股で会場の奥へと消えていった。 後に残された治は、再び、ただの「影」に戻った。 だが、彼の指先は、先ほどまで中也の体温が空気を伝って届いていたその場所を、無意識に探るように震えていた。
会場の中央では、再び宴が盛り上がりを見せていた。 正治と信治は、中也が自分たちに興味を示した(と勘違いし)、さらに得意げに貴族たちの間を練り歩いている。
「聞いたか? 中原様が、わざわざ我が家の治に声をかけられたそうだ。やはり、我が家には何か、中原家を引き付ける特別な『徳』があるのだな」
正治の声が、皮肉にも会場に響き渡る。
治は、それを遠い世界の音として聞き流していた。
彼にとって、中原中也は「人間」という形をした、何か別の生き物のように見えた。 眩しすぎて、直視すれば目が潰れてしまうような。 自分のような、暗い蔵の中で死ぬのを待つだけの生き物とは、流れている血の色さえ違うのだろう。
だが、治は知らない。 中也が、会場の最上席に座りながらも、絶えずその視線の端で、自分の姿を追っていることを。 中也は、豪華な料理にも、並み居る美女たちの誘惑にも目もくれず、ただ、柱の陰で静かに消えてしまいそうな、あの少年の「空白」を、無意識に測り続けていた。
(太宰治……。あの目は、あんな場所で腐らせていいもんじゃねぇ)
中也は、手の中のグラスを見つめ、不機嫌そうに舌を打った。 彼の中に生まれたのは、まだ愛でもなければ、慈しみでもない。 ただ、最高級の芸術品がドブの中に捨てられているのを見た時のような、猛烈な「収まりの悪さ」だった。 そして、その収まりの悪さを解消する方法を、中原中也は一つしか知らなかった。 手に入れるか。あるいは、そのドブごと焼き払うか。
晩餐会は、更けていく。 太宰家の醜悪な野心と、中原中也の正体不明の執着。 そして、それら全てを他人事として受け入れる、太宰治の絶対的な諦観。
帝都の冬の風が、迎賓館の窓を叩いた。 運命が動き出すには、まだ少しだけ、夜の時間が足りなかった。 治は、再び冷たくなった手首を、ボロボロの袖で隠す。 中也は、飲み干したグラスをテーブルに叩きつける。 その音が、これからの地獄を、あるいは救済を告げる号砲であることに、まだ誰も気づいていなかった。
治は、ふと思った。
(もし、明日が来なければいいのに)
中也は、同時に思った。
(もし、あいつをここから連れ出したら、どんな顔をするだろうか)
二人の思考は、決して重なることなく、しかし確かに同じ空間を歪ませていた。 迎賓館の輝きは、ただ、残酷なほどに美しかった。 太宰治は、再び無表情になり、闇に溶けた。 中原中也は、再び傲慢な笑みを浮かべ、光の中心に居座った。 だが、その光の輪は、確実に、影の端を侵食し始めていたのである。