今日は、ついている。やっぱり神様は、気が利く良い人なんだわ。なんて少々都合のいいことを思ったあたしは、すぐに霧島との取引なんて断り、プロデューサーさんと会うことにした。霧島ったらあたしに振られるなんて思ってなかったのか、何度も今の仕事を降りるよう言ってきたし、ざまあみろって感じだ。
ようやく誰かがあたしを、あたしの演技を見つけてくれた。
待ち合わせは、今夜二十二時。おまけにマンションまで彩香さんがワゴン車で迎えに来てくれるという手厚い対応付きだ。緊張で速まる心音。あたしは遮光カーテンに閉ざされた車内で自分を落ち着かせるのに必死だった。有名人の送迎ってこんな感じなのかしら、そう思うとなお落ち着かなくなってしまう。そんなこんなでちょうど二十二時になった頃だろうか。「着いたわ、石ノ森さん」そう言われて彩香さんと一緒に車を降りる。
外の景色は、ピンク色のネオンが多い風俗街だった。驚いて辺りをもう一度しっかりと見渡してみるが分かったことは、車が停車した前の建物が二時間四千円のボロいラブホテルだったということだけだ。「え、あ、あの……ここってラブホテルじゃ……」動揺が声に滲み出る。しかし彩香さんは、眼鏡の奥の冷ややかな目をそのままに淡々とした調子で、
「石ノ森さん、これ、鍵。部屋番は、二百七号室。中でプロデューサーが待ってるから」
間違えないように。そう、念押しされる……いや。
そうじゃないだろ。なんだこれ。要するにこれって。
「枕営業しろってことですか……」
「今後の仕事を斡旋して欲しければ。強制はしないけれど売れたいんでしょう?」
強制はしない。けれど断れば売れたくない女優になってしまう。そんな向上心のない人間を必要とする社会は、どこにもないと分かっていて彩香さんは言ってる。
感情が抜け落ちていくようだった。今まで養成所に通い続け、演技や踊りを習ってきたけれど、それは何のためだったのだろう。怒りも沸かない、悔しさも沸かない、悲しみもない。
そうか、絶望ってこういう感覚なのか。メモを取らなきゃ……だけど、もう取る必要もないのかもしれない。だけど今、あたしはどんな顔をしているのだろう。そんなことが役者根性のせいか気になって気が付くとあたしは、そこにいるのにいないような、宙に浮かんで立ち尽くす自分のことを眺めていた……は?
「え……これって」
客観視とかそういうレベルじゃない。これは例えでもなんでもなくあたしは、宙に浮かんでいた。言うなれば幽体離脱というやつなんだろうか。一体全体何が起きているのだろう。現状を整理しようとする矢先、あたしの体は、誰の指示に従っているのか、その手を動かす。
そして――彩香さんから鍵を受け取った。
※
芸術大学を卒業した私は、本当ならば脚本家として生計を建てていくつもりだったが、現実というのはそう甘いものではない。それでも何とか役者の世界にはしがみついていきたい、そんな執念のような何かを捨てきれず、私はマネージャーになった。今は、それが正しかったのか間違っていたのかは、分からない。ただ最初は、金と名声に憑りつかれたあの男を否定したかったが、今となっては私が金と名声、いや、現実に犯されている。
「鍵、渡しましたから。検討を祈るよ、石ノ森さん」
Bプロダクション養成所、ここで私は、複数人の女優の卵の面倒を見ているが、そんな中でも目の前にいる彼女、石ノ森聖菜は純粋な子供だった。演技ができればいつかきっと、真面目に努力すればいつかきっと、そんな風に考える綺麗で愚かな子供だ。
女優を夢見ていたんだろう。その夢を打ち壊したのは私だ。
それでも可哀想だとは思わない。なぜか。石ノ森。君は、綺麗で美しくて役者としての実力もそれなりに備わっている。これからだろう。しかし、だからだ。
この世界では君のような、磨けば光る原石の方がずっと多い。磨かれずとも光る宝石、磨けばより光る原石、業界が探し求めているものはそれなんだ。
だから君は、足掻いても接待女優。枕営業の先にも成功はない。事務所と仕事口を繋ぐ道具に過ぎない。
そんな私の本音など知りようもなく、石ノ森は、受け取った鍵をじっと見つめている。気持ちの整理がつかないのだろうか。「聞いてるの、石ノ森さ――」
不思議に思って、彼女の顔を覗き込む。
するとそこには、吸い込まれるような虚空の広がる瞳があった。ただひたすら続く闇だ。一見呆然としているように思えた彼女は、しかし愕然と、自分の中に生まれた絶望の感情と向き合っていた。そんな風に、覗き見てはいけない部分を見てしまったような気がする。
やがて、石ノ森の目から一筋の涙が静かに流れ落ちた。
なんて、哀れなんだろうか。
私は、彼女の悲しみを知っている。これは、本当の悲しみを知った者の表情だ。自分の無力さを知り、絶望的な現実と衝突し、泣くことも喚くこともできない。心の水面で静かに広がっていく悲哀の波紋……喩えて言葉にするならそれだろう。
本気だったんだ、私が思う以上に石ノ森は。そう思うと、私の中にある麻痺しきっていたはずの良心が罪悪感という痛みを訴えだしてきた。
はやくこの場から立ち去りたい。そう、思った――そのときだった。
「あたし、これ要りません」
微笑みを浮かべて、石ノ森が鍵を手渡してきた。
「え……?」
つい、声が出てしまう。その微笑みは、あまりに穏やかで、無邪気な子供のように輪郭のぼやけた柔らかさで。だからこそ不気味、先ほどの感情とかけ離れ過ぎていた。
そして石ノ森は、身を翻し、何の躊躇いもない足取りで裏通りから大通りの方へと立ち去ろうとする。「待て……待って石ノ森さん!」無意識に体が彼女を呼び止めて、私は言う。
「演技だったの……今の」
今の? 聞いておきながらおかしなことを言っているのだと自覚する。私が今見たものは、本当の悲しみだった。引き込まれるような感情だった。現実以外の何物でもないはず。
しかし、そう思いたい自分を目の前の彼女が否定する。
またしても、絶望とも微笑みとも違う、私の知らない彼女の表情だった。
「まあ、一応。役者なんで」
それは、ふてぶてしいにへら顔だった。