コメント
0件
何度もこの部屋を訪れている光太は、間取りもほぼ熟知している。寝室と一言説明すれば、あとは勝手に漁って必要な物を持ってくるだろう。が、朝陽はすぐに重大なことに気づいて、寝室へと向かう光太を引き止めた。
「あ? 何だよ、いきなり大声上げて」
「すんませんっ、でも、ちょっと今、寝室は駄目です!」
「何で? まさか、いかがわしいDVDや本が積んであるのか?」
「そんなんじゃなくって、今、寝室は大掃除の途中でグッチャグチャなんです。足元に画鋲とか落ちてる可能性があって……だから光太さんは、ここで待っていて下さい!」
自分が持ってきますと、咄嗟に思い浮かんだ理由をぶつけてみる。そして恐る恐る反応を窺うと、足に画鋲が刺さるのは嫌だと、光太が歩みを止めた。
「……分かった。んじゃ、頼むわ」
「了解ー。光太さんは鍋食べててください」
光太の背を押し、ダイニングへと戻す。それから朝陽は寝室へと向かい、扉を開けた。
電気のついていない室内は、窓から入る淡い月明かりに照らされている。しかし、室内の床は朝陽が言うように物が散乱しているわけでも、画鋲が落ちているわけでもなかった。ただただベッドの横に、両手で抱えるほどの大きさの段ボール箱がひっそりと置かれている。それだけ。
ゆっくり部屋の奥へと進んで、上から箱を覗きこむ。
この中に入っているものは全て、あの日、隼士の部屋から持ち帰った二人の思い出ばかりだ。揃いのカップや歯ブラシは、隼士からのプレゼント。これが食器棚や脱衣所にあると、同棲しているような気分になれるからと言って買ってきてくれた。
写真は二人だけで旅行に行った時のもの。誰もいない冬の海の砂浜で携帯のカメラを二人に向けていたら、シャッターを押す瞬間にキスされた。
そして――――朝陽はフフッと苦笑を浮かべながら、一冊の本を手に取る。
裸の女性が表紙に載る、扇情的な冊子。これは隼士との関係に不安を抱いた朝陽が、本当は女性の方がいいのではないかと確認するために贈ったものだった。しかし勢い勇んで渡したものの、結果は『抱くなら朝陽の方がいい』とあっさり言われ、さらに愛を信じなかった罰として本と同じ内容のお仕置きをされるというものになった。
ただ、それでも朝陽からのプレゼントということで、隼士は残してくれていた。
そういえば、隼士が事故で入院した時、慌てさせたのもこの本だったと、思い出して笑う。そんな物も含めて、箱の中にはたくさんの思い出が詰まっている。どれも見ているだけで涙が出そうなものばかりだ。
きっと聡い光太がこれを見たら、一発で二人の過去に勘付いてしまうだろう。だから、この部屋に彼を入れることができなかった。
今夜、光太が帰ったら、荷物を見えないところに移さなければ。そう考えながら、朝陽は徐に一番上に乗っていた濃紺の箱を手に取った。そっと上蓋を開けると、月明かりを受けてキラリと銀色が光る。
「…………ごめんな、隼士」
プロポーズと共に受け取った指輪を真綿に触れるよう優しく撫で、謝る。
本当に自分は勝手な人間だ。必死に恋人の痕跡を探す隼士に、嘘を吐き続けるなんて最低以外の何物でもない。
だが、ここで自分が恋人だったと名乗り出て元の関係に収まったとしても、きっとまた同じ不安に苛まれる。何かしらの理由をつけては、隼士から離れようとするに違いない。
とどのつまり、何があっても自分に自信が持てないのだ。
こんな弱い人間と将来を共にするより、隼士はちゃんとした女性と結婚して幸せに暮らした方がいいに決まってる。朝陽は現実の辛さから目を背けるように、リングケースを元の場所に戻すと、光太のための上着を持ってダイニングへと戻った。
「光太さん、お待たせっす」
「お、ちょうどいいところで戻ってきた。オイ朝陽、電話ー」
ダイニングに着いた途端、携帯電話を片手にした光太にこっちへ来いと手招きされる。
「誰からです?」
「隼士だよ。お前の携帯にかけても出ないから、俺んところにかけたんだと」
「そうだったんですか、すんませんっ」
そういえば、携帯は鞄の中に入れたままだった。慌てて光太に近寄ると、朝陽は持っていた上着を渡して、代わりに電話を受け取った。
「もしもし? 隼士、どうした?」
食事をしている真横で電話は失礼かと、朝陽は話しながら光太に断って廊下へと出る。
『いや、別に大した用はないんだが、今夜は二人で鍋と聞いたから羨ましくなってな。そちらは楽しんでるか?』
「うん、今日は牡蠣鍋作った。今、光太さんが凄い勢いで食べてるよ」
『それは羨ましいな。俺も食べたかった』
「仕事だから仕方ねぇだろ。まぁ、でも落ちこむなって。今日の夕方、隼士の部屋に寄って酢豚とかき玉スープ作っておいたから、もし飯食べてないならそれ食べろよ」
勿論、酢豚は酸っぱさが苦手な隼士用に酸味を抑えたものを作ったと伝えると、電話の向こうの声が途端に明るくなった。
『本当かっ? それはありがたいっ!』
「仕事頑張ってる隼士クンのために、特別サービスだよ」
冗談を交ぜながら、隼士を労う。
だが、実はそうは言いつつも本心は、一人寂しくコンビニのお握りを食べる姿を想像したら可哀想になったというもので、朝陽は最後まで「これはあくまで仕事が忙しい親友に対する情だ」と自分に言い聞かせながら料理を作った。
『本当に嬉しい。早々に合鍵を渡したのは正解だったな』
言われて合鍵の存在を思い出す。
元から持っていた合鍵は今も寝室の思い出ボックスに入ったままだが、それとは別の合鍵を先日、隼士から渡された。曰く、「俺が仕事で遅くなった時、外で待たせるわけにいかないから」だそうだが、結局隼士公認の合鍵を再び持ってしまった状況に、朝陽は苦笑いするしかできなかった。
『でも……』
「ん、どうした? 急に暗い声出して」
『思いがけなく朝陽のご飯を食べられるのは嬉しいが、隣に朝陽がいないのは少し寂しい』
「なっ、何言ってんだよ、いきなり!」
出し抜けに爆弾を落とされ、息が喉に詰まりかける。
『俺の中で朝陽と朝陽のご飯は二つでセットなんだ。朝陽の話を聞きながら食べると、楽しくて普段よりも美味しく感じるからな』
そんなことを言われたら、自分だって同じだと言ってしまいそうになるではないか。朝陽の料理は、隼士のためにあるもの。だから朝陽も美味しそうに食べてくれる隼士の顔を見られないのは寂しい。その気持ちを必死に抑えているというのに、どうしてこの男はその我慢をいとも簡単に崩すようなことを言ってくれるのだ。
「ったく、ガキみたいに甘えん坊だな。まぁ明日、もし残業にならなかったら帰宅時間に合わせてご飯作りに行ってやるよ。それならいいだろ?」
ただ、そんな言葉に容易く絆されて、甘やかせてしまう自分も単純極まりないが。
『そうしてくれると嬉しい。俺も早く仕事を終えられるよう、頑張るから』
「ん、応援してるわ」
『それじゃあ、電話切るな。今日は冷えるから温かくして寝るんだぞ』
「はーい」
おやすみ、と言い合ってから通話終了のボタンを押す。
それから、朝陽はふぅっと長い息を吐いた。
通話中、唐突に落とされた甘い言葉のせいで、なかなか心臓の高鳴りが治まらない。
しかし――――十年恋人をやっていたからこそ気づかなかったが、隼士は常からあんな勘違いしそうな言葉を囁いているのか。
何だか、もやもやする。
隼士という男は、道端ですれ違い様に格好いいと注目されるほど男前だ。そんな男に「一緒にいると楽しい」なんて言われたら、どんな女性でも心を奪われるはず。恐らく恋人探しを諦めたと知られれば、即座に新しい恋人への立候補者が殺到するだろう。
新しい恋人。
「っ……」
想像した瞬間、胃の辺りが重く痛んだ。脳裏に浮かぶ、隼士と仲睦まじく笑い合う名も知らない女性の姿を、醜い感情があっという間に黒く塗り潰していく。更に、追いかけるようにして「もしも隼士の恋人になるなら、最低限自分よりも料理が上手くなくてはダメ」とか「隼士の偏食を全て受け入れ、否定する人間はダメ」などという条件が頭の中に次々と浮かんできた。
まるで、大切な息子をお嫁さんに取られることを怖がる母親のようだ。
けれど、こうでも考えていないと御門違いの嫉妬に全身を焼き尽くされてしまいそうになる。
まさか、自分の中にこんな賤しい妬心が生まれるとは。朝陽は新たに発見してしまった自身の醜悪に、吐き気を覚えた。