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「私が存在し続けるまで、この子は消えることはないでしょう」「どうして、そんな言い方をするの……?」
キリンさんは目を伏せ、祈るように私の手ごと蝶を包む。
「キリンさん?」
キリンさんは、私の声など聞こえていないようだった。
祈りが済んだのか、私の手を解放すると、
この話は終わりと言わんばかりに、背を向ける。
「え?どこに行くの!」
置いていかれる私に、キリンさんは気にしなくていいと言うように、
「少しだけ待っていて下さい。すぐに済みますから」
勝手に自己解決したのか、来た道を戻ろうと進んでいく。
「ちょっと、待ってよ!」
私は、遠ざかっていく背中を捕まえる。
「待ってよ!どこに行くの?一人で行かないでよ!」
大きな背中が遠くへ行かない様に、後ろから抱きしめる。
一人になるのが怖いんじゃない。
ここで引き止めないと、キリンさんを失ってしまいそうで怖かったから。
「大丈夫ですよ」
背中越しに響いてくるのは、優しい声。
それは、私を安心させようとする気持ちと同時に、私からの追求を避けるようだった。
「その蝶は私の、全てです」
キリンさんは振り返り、頭を優しく撫でる。
そんなの知らないよ……。
「それがいる限り、私がいなくなったとしても、また貴方に会うことが出来ます。だから、安心してください」
キリンさんは、花が綻ぶような笑みだった。
その笑顔は全てを包み込んでしまうものだった。
でも、それはあの時と同じ、誤魔化しでしかなかった。
違うよね、キリンさん。
だって、キリンさんが存在しているまで、この白い蝶さんもいるって。
さっき言ってたよね?
蝶々さんは関係ないんだよ……。
私がキリンさんと喧嘩をしたあの時、キリンさんは理由を言わなかった。
ましてやキリンさんは、教えられないことを許して欲しい、 と懇願してきたのだ。
それは今も同じ。
私が納得出来るような言葉じゃなくて、それらしい事を言って許してもらおうとしてる。
蝶がキリンさんの代わりとか、また会えるとか。
けれど、キリンさんの言葉には、私でも分かるくらい、別れが滲んでいた。
「何言ってるの!」
キリンさんは、私の強く張った声に驚いていた。「それっぽいこと言って、また私を誤魔化そうとしてるんでしょ!危ない事には変わらないじゃん!」
私が居なくなったとしても、とか、白い蝶がいる限りとか。
キリンさんが消えちゃう事を前提に話していることが、許せないのだ。
私は頭に乗っていた手を逃がさないように、捕まえる。
本当に怒っていた。
「撫でたって変わらないよ!そんな事で、納得出来るわけないから!」
いつもそうだった。
「私は、キリンさんが行っちゃう事が嫌なんだって!キリンさんが良くても、私は良くないって言ってるの!」
言い終える頃には、キリンさんは下を向いてしまっていた。
悲しげな横顔に、心が痛んだ。
けれど、私だって信じたい。
誤魔化そうとしている訳じゃないと思いたい。
悲しい顔をする理由も、いつかは教えてくれるのだと信じてる。
だからこそ、今ここでキリンさんが死んだらいけない。
ちゃんと私が、納得できる理由を話してくれるのを待ちたいから。
「なんだか変わりましたね」
キリンさんが、独り言のように呟いた。
「えっ?」
「いえ、申し訳ありません。私とした事が。貴方の不安を取り除ければと思ったのですが」
キリンさんは、私の視線に合わせ、膝を折る。
いつもなら、しゃがみこまないといけなかったのに、今の私の背ではそれで十分だった。
「彼とは私事で、対峙しなければならないのです。それはとても、自己的で、貴方を納得させられるようなことではないのです」
キリンさんは、悲しい顔をする。
けれど、それは一瞬にして、真剣な表情に塗り替えられた。
「それでも、私は行かねばなりません。貴方を守りたい。それが一番大事だから」
キリンさんは、私の手を潰さないように握り返した。
それでいて、力強く、芯のある強さだった。
それは明確な意志を感じた。
反らせないほどの真っ直ぐな目と、キリンさんの本当の気持ちに、私は言葉が出てこなかった。
「初めからこんな事が言えれば、良かったのかもしれませんね」
後悔が滲むように呟かれた言葉には、キリンさんの本心が見えた気がした。
「大丈夫ですよ。貴方がその蝶といる限り、私も貴方もお互いを守る事が出来ます」
白い蝶は、私の手の中で無邪気に飛び回る。
その無邪気さが、どこかキリンさんの屈託のない笑顔に思える。
「この子を守っていれば、キリンさんは大丈夫?」
「はい、そういうことです」
キリンさんは、いつも通りの笑顔をくれる。
「ほんとうに本当?」
キリンさんは、迷いなく頷く。
「ええ、本当ですよ」
この子を守ることが、キリンさんを守ることに繋がる。
キリンさんの安全は、私が必ず守る。
決意した私は、引き止めていた腕を離し、
代わりに手の中で、生きる蝶を守るように包み込む。
「分かった!ちゃんと守ってる」
私は、白い蝶を肩に乗せて、キリンさんの手を借りながら、通気口へと入っていく。
「待っていて下さいね」
後ろから掛けられた言葉を胸にしまって、私は未知の中を進んでいく。
キリンさんの靴音が遠ざかっていく。
けれど、私は振り返らなかった。
キリンさんを信じているから。
通気口の中には、ホコリやゴミはなく、ステンレスで出来ただけの温度のない道だった。
中は暗く、狭い。
心配と不安がまた、湧いてきそうだった。
けれど、どこまえも照らす蝶の暖かな光が、それを打ち消してくれた。
ゴールのように、格子が目の前に立ちはだかる。
格子を外すと、全体が白いタイルで覆われている部屋に着く。
書斎の雰囲気とは対照的に、近未来を感じさせる空間だった。
タイルの貼り目を、電子の明かりが駆け抜けていた。
「こんな隠し部屋があったなんて」
小さな部屋だった。
中には、観葉植物が自由に葉を伸ばしていた。
生命力が満ち溢れ、誰の干渉もない場所に、少し心が安らいだ。
「あ、本持ってきちゃった」
夢日記の本をずっと、握りしめていたようだ。
この世界が本当に夢であるのか。その答えがきっと、この本には書いているのだろう。
私は床に座ると、再び本のページをめくっていく。
キリンさんの無事を待ちながら、物語を進めていく。
金色の蝶、話す花、私だけ見てくれる人。
「これらは、全部夢で見ただけだから」
最後に見たページを見つける。
ページの端をつまみ、新しい世界を探すようにめくる。
そこには、茶色く焼けたページが続いていた。
「明晰夢を見れたらいいのに……」
物語が終焉を迎えるように、その言葉が最後だった。
次のページをめくっても、白紙が続いていた。
これ以上、言葉が続いていないことをなぜか私も分かっていた。
だって、これは……。
「私が書いたものだ……」
その瞬間、本は砂のようにその場に崩れていった。
それと対照的に、私の脳内の中は、パズルがはめ込まれるように全てが噛み合っていた。
自覚だった。
「明晰夢」
キリンさんは言った。
夢だと自覚すること。
思い描いたように進行していく夢のこと。
この夢日記は、現実の私が明晰夢を見るために書いたものだ。
ここでの思い出が、今までの積み重ねてきたものが、波に攫われるように消えていく。
「あぁ、ここは夢なんだ」
私はここが夢の世界であることを理解した。
発した言葉が空気を揺るがし、私が異端者であることを自覚させるように。
世界が震えた気がした。
ふと、一人の顔が脳内をかすめる。
私はポケットに入っていたカードを取り出す。
胸下まで伸びた髪。
見覚えのある顔。
この女性が、現実の私自身だと、ようやく思い出した。
「迎えに来ましたよ」
その声に、世界へ引き戻される。
優しく、私の身体から力を抜くように、彼は現れた。
あっという間に感じた今の間に、彼は傷だらけになっていた。
どこからここへ、入って来たのかも分からない。
今はそんな事はどうでも良かった。
いつも通りに微笑む彼に対して、全てを知ってしまった私。
もう、知らなかった頃には戻れないのだと。
少なからず、この段階で気付いていた。
「書斎に戻りましょうか」
最後に……。
とでも付け加えるような言葉に聞こえたのは、
私がこの世界から別れを告げる覚悟を決めたからだ。
彼は、いつもと変わらない笑顔で、そっと私の手を掴む。
愛を欲している人間を、甘やかすように。
気付いていないフリと言えば、それまでに見える彼の演技。
その笑顔が人工的なものだということに、
私は気付かないふりをした。