「研磨」
何処からともなく自分の名前を呼ぶ、聞きなれた声がした。
その声でおれは我に返って、今まで耳に届いてこなかったボールの音やシューズと床が擦れ合う音が、気が付いたみたいに耳に流れ込んで来る。
声の主は、おれが余所見してるのを注意するんだろう。
「試合中だ、集中しろ」
髪に汗を滴らせながら、おれの注意をボールへと促す。
火照った顔は熱そうで、初夏の暑さを知らせる。
「…うん。ごめん」
おれが今まで見てたその人は、髪を揺らしながらボールを上げる。
おれの視線は、その人から飛び交うボールへと移った。
「研磨、今日いつもより集中力薄かったな」
自分よりも小さいのに、自分よりも背中の大きい世話焼きなリベロが、ボトルからスポーツドリンクを口に流し込む。
「うん…クロにも言われた」
やっぱり皆そう感じてるんだ。少しだけ罪悪感を持った。
「にしても青城、やっぱつえーのな」
烏野もチビちゃんが…とか、まだ話してたけど、おれの耳には入って来なかった。
おれの目は、隣のコートで烏野と練習試合をする、その人に奪われていた。
細くて長いのに、おれより大きくてゴツゴツした手とか、普段見せるチャラチャラした愛嬌のある顔じゃなくて、ボールだけを追う真剣な顔と突き刺さりそうな目とか、全部全部。 おれの目を奪っていく。
「…研磨?」
「なあ研磨って」
それぞれ違う声が両耳に流れ込む。流れ込むというより、無理矢理突っ込まれたに近い。
「研磨、お前最近おかしいぞ」
「またチビちゃんに興味津々か?」
心配するような声と、揶揄うような声。揶揄われるのは好きじゃないけど、今は揶揄ってくれた方がいい。
「…ううん、なんでもない。ごめん」
目線を床まで落として、体育館のツルツルした床に反射した、ぼやけた自分の姿を見る。
「いいけど、試合中は集中しろよ〜??」
「うん」
その日は、それ以上その人を見れなかった。
おれの意思で見なかったんじゃなくて、タイミングとか色々合わなくて、物理的に見れなかった。
…と思ってた。
「けーんまくん」
後ろから聞き慣れない声がして、思わず肩をビクッと跳ねさせた。恐る恐る振り返ると、そこにはニコニコとした彼の姿があった。彼は背が高くて、しっかりした服を着させれば完璧に王子様になりそうな程整った顔をしている。
「1人??」
黒尾くんは?なんて隣に並ぶ彼は、きっとおれの気持ちなんて一生知らないままなんだろう。
「あ…えっと、クロは…あっち、」
緊張して上手く声が出なかったのは、おれが人と話すのが苦手だからじゃない。
おれが指さした方向には、烏野の主将と話している赤いジャージが背中を向けている。
「そっか」
彼とおれの距離はたぶん、ほんの数センチ。
緊張で心臓の音が煩いのは、気付かないことにしておきたい。彼の方がどうしても見れなくて、もってるゲーム機をひたすら見詰める。本当は、彼に話しかけられた時点でもうゲームオーバーになっているけど。
「バレー楽しい?」
彼の視線は今、きっとおれの方を向いてる。
ゲームオーバーの画面がバレてるのかはわからない。
「…うん」
質問の意図はわからないけど、それより今、おれは緊張と動揺でどうにかなりそうだ。
「研磨、もうバス乗るぞ」
いつの間にか荷物を持ってバスの入口に立っていた幼馴染に、ここまで感謝したのは初めてかもしれない。
「じゃ、…じゃあ、おれ、」
最後まで言葉が続かなかったのは、おれのせいじゃなくて勝手に進み出した足のせいだ。
「またね、研磨くん」
後ろで手を振る彼の姿が頭に浮かぶ。おれは自然と、早歩きでバスに乗り込んだ。
バスの窓にコツンと頭をくっ付けながら、ボーッとゲームを操作する。いつもなら1回ですんなりと勝てるレベルにも手こずっていたのに気付いたのは、隣に座る幼馴染に指摘されてからだった。
「研磨にもそういう事あるんだな」
そう言って笑う幼馴染を無視して、ゲームを再開する。ところがその後、おれはすぐ寝たらしく、起きたら学校に着いていた。つけっぱなしで寝ていたからゲーム機の充電には期待してなかったが、幼馴染がセーブして電源を切っておいてくれたらしい。
家に帰ると、カバンを放り投げてベッドに倒れ込む。練習試合とはいえ、日帰りの遠征はハード過ぎる。疲れたおれの頭は、自然とあの人のことを思い出す。ふわりと鼻先をくすぐった彼の香水みたいな匂いは、きっと忘れさせてくれないだろう。
そんな事ばかり考えていたら、1階から夕食を知らせる母親の声が回想を遮った。
次の日、おれは普通に登校した。3年生はそろそろ卒業が近いせいか、卒業式の練習をしているのをよく見かける。でも、幼馴染とは変わらず会えるし、おれは2年生だからあまり興味がなかった。いや、たぶんおれが3年生でも興味はないと思う。
…強がってばっかりだと疲れる。
おれは机に突っ伏した。
興味がない訳が無い。昨日話したあの人も、3年生なのだから。幼馴染な訳でも友達でとない。家も近くないし、もう会えないかもしれない。いや、会えないだろう。
バレーという唯一の共通点のみが、おれとその人を繋げてくれる1本の細い糸だったのに。今にも切れそうな細い糸は、卒業という障害物が邪魔をして、おれが繋ぎ止める隙間はない。無力な自分が心底嫌いだった。
そんな調子で居ても、時間は止まってくれないし、チャンスも落ちてこない。
あの人のことばかり考えて、成績は落ちて、部活も休んでばかりになった。
おれには何も出来ない。
その喪失感がおれをここまで押さえつける。恋心とは、実に面倒くさい感情である。
ある日、そんなおれを心配して幼馴染がおれの部屋を訪れた。
正確には、家にはほとんど毎日来てたけど、おれが部屋の鍵を閉めて入って来れないようにしていた。でも今日は、鍵を閉め忘れていた。毎日開かなかったドアがカチャリと音を立ててすんなり開いたことに驚いた声を漏らしながらも、ベッドに居るおれに近付く幼馴染の足音がする。
「研磨、お前最近どうした?」
放っておいて欲しくて鍵をかけていたのに、そんなことお構い無しにベッドに腰掛ける振動が伝わる。
「…」
放っておいてと頼んだところで、彼はそう簡単に帰ってはくれないだろう。黙り込むおれに、突拍子もない言葉が降りかかる。
「…及川」
心臓になにか鋭いものが当たったような感覚を覚えた。自然と鼓動が速くなる。
「及川が好きなんだな」
ドクドクと言うことを聞かない心臓の音が、呼吸の仕方を忘れさせる。思わず被っていた布団を退かして、彼の顔を見る。相当焦った顔をしていたのだろう。幼馴染はぶはっと吹き出した。
「お前、意外と分かりやすいのな」
そんなにわかりやすいだろうか。一先ず呼吸を整えて、深呼吸をする。
「…なんでそう思うの?」
これは、分かりやすいと言われたことに対してではなく、及川徹が好きと言われたことに対してである。小さい時から一緒にいた彼は、それをわかった上で、あえて“顔に出てる”と、どちらの回答とも受け取れる発言をする。
「もうすぐ卒業式だと思うけど」
そんな事はもう分かってる。頭では。だって数日後にはもう、
でも、会おうと思って会える距離に、あの人はいない。
「会わなくていーんですか?」
会いたい。会いたいに決まってる。でもだからって、
「会いたい」
驚いた。言おうなんて考えてなかったのに、口が勝手に動いたなんて、目の前にいる彼は信じてくれないだろう。少し震えた声に、幼馴染はそう言うと思っていたとでも言いたげに眉をあげる。
「行ってこい」
夜。今はもう20時を回ってる。東京から宮城まで、電車でどれ程かかるだろう。そもそもこんな時間の遠出を、親が許してくれるとは思わない。それ以上の言い訳が出てくる前に、おれは家を飛び出していた。なにも考えられないまま、走って電車に乗る。時間を確認するために開いた携帯には、いつの間にか幼馴染があの人の住所を送っておいてくれていた。
そこからの記憶はあまりないけど、電車から降りてすぐ、ひたすら走ったんだと思う。息は苦しいほど切れて、足が棒みたいだった。
初夏の夜の暑さもあって、汗で髪が額や首に張り付いているのを感じた。
心を決めてインターフォンを押す。こんな時間に迷惑だとか、考えてる余裕なんてなかった。
すぐにドアがガチャリと開き、部屋着の彼が出てきた。
「研磨くん?」
会いたかった、ずっと会いたかった彼が、今目の前にいる。きょとんとした彼は、何も分かっていないだろう。当たり前だけど、ちょっと寂しかった。はぁはぁと息を切らしたおれを見て、どうしたの?と取り敢えず家に入るよう促す彼の声を無視して、おれはいつの間にか彼に抱きついていた。
「わ、…研磨くん?」
困惑するだろう。意味がわからないだろう。ひょっとしたら引かれてるかもしれない。でも、そんな不安さえも薄れるくらいに、会いたかった彼に会えたことに、ただ安堵していた。
彼に抱きついて数秒、最初に聞こえた困惑の声以外、彼はなにも喋らなかった。嫌われても仕方がない、そう思いながら彼から離れようとした時、何故だか背中に人の腕の感触がした。彼がおれを抱きしめてる。勝手に来て、勝手に抱きついたおれを、優しく
それに気付いた瞬間、驚きと同時に視界を涙に歪まされた。
突き放されると思っていたのに、何も言わずに、ただただ優しくおれを抱きしめた。
彼はおれを好きじゃない。そう分かってたのに、酷く優しい彼の体温が無性にせつなくて、彼の腕の中で、彼の服を濡らした。
「おいか、おいかわさ、…っ」
途切れ途切れに話すおれの声を優しく受け止めて、相槌を打ちながらゆっくりでいいよと最後まで聞いてくれた。
「っ、おれ、おいかわさ、の、こと、…すき、」
叶わないとわかっているから、突っかかっていた言葉が意外とするりと出てきた。
泣き続けるおれを、彼は何時間も否定せずにすべて優しく頷いてくれた。
おれの頭を撫でて、泣き止んでもそばに居てくれた。暑かった筈なのに、何だか空気が冷たく感じた。