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芙月みひろ
92
#王子
玄関の鍵を開けると、目の前にいたのは、湯気が立ち上りそうなほどの熱量をまとった、兄だった。
兄のジム兼自宅のある下北沢から駒場東大前まで二駅分。それを、タンクトップの上に20kgの加重ベストを装着してダッシュしてきたらしい。
「お兄ちゃん、来るときくらい連絡してよ」
「ひより、なんだか部屋の温度が高いぞ。有酸素運動でもしていたのか?」
汗だくのまま、獲物を探す獣のような鋭い視線で部屋を物色し始める兄。カーテンの向こう、ベランダにはパンツ一枚の陽一さんが「置物」になっている。
(……これ、同棲反対のパパの差し金? それとも、ただのシスコン・センサーの過剰反応?お兄ちゃんはシスコンがヤバいもんね……)
この部屋に引っ越す際も「隣の部屋を借りて24時間警備する」と言い出し、私が激怒してようやく二駅先に追い払った経緯がある。
「とりあえずこれ食え。筋肉が泣いているぞ」
テーブルに並んだのは、脂肪を完璧に除去した大山鶏のハンバーグと彩り豊かな温野菜。糖質制限が完璧に計算された「筋肉弁当」だ。
「……いただきます」
私は、兄と向かい合って食卓についた。
兄は、白石家の「異端児」だ。かつては私とともに後継者教育を受けていたが、父に反発して渡米。現地のボディビル大会で優勝し、己の筋肉で「別の道」を切り拓き、父に自由な生き方を認めさせたのだった。
一方の私は、兄みたいに優秀じゃない。
自分の人生を変えるチケットを手にできなかった私は、家の義務から逃げることもできず、「そのうち誰かと結婚して、会社を継いでもらうんだろうな」と、陽一さんと出会う前は、灰色の未来をただぼんやりと受け入れていた。
「お兄ちゃんは、怖くなかったの?」
私は、小さな声で問いかけた。
「……パパに、自分の道を行くって話すのは」
兄は、箸を止め、窓の方を見た。
「……怖かったぞ。だがな。自分の人生のハンドルを他人に握らせたまま、アクセルを踏み続ける方が、俺にはよっぽど怖かった。……ひより。お前、顔つきが変わったな。……誰かに、影響されたか?」
私は箸を置き、迷いを断ち切るように深く息を吐いた。
「……お兄ちゃん。私、相談しようと思ってたことがあるの。会社の株も、後継者の権利も、全部手放そうと思ってる」
「…………」
「陽一さんを……これ以上、会社の汚い争いに巻き込みたくない。私は専務の娘じゃなく、ただの『ひより』として幸せになりたいの。……彼のためなら、私、全部捨てられる。……でも、パパが認めてくれるか、不安で」
しばらくの沈黙の後、兄は口を開いた。
「……なんだ。そんなことか」
「えっ……?」
「株なら、俺もだいぶ前に全部手放したぞ」
「……え!? そうなの!?」
「お前はあいつ(陽一)との『幸せ』を守りたいって言ったな。……だがな、親ってのは、子供が思っている以上に単純なんだ」
「でも、お兄ちゃんに続いて私までいなくなったら、パパが独りぼっちになっちゃう」
「『子供の幸せが一番』。結局はそれだけだ。……最後には折れるさ」
私はキッチンで、空になったお弁当箱を洗いつつ、兄の言葉を反芻していた。キッチンペーパーで水気を拭き取り、兄に差し出す。
「……飯も食ったし、俺は仕事(ジム)に行く」
兄は重々しい足音と共に加重ベストを揺らし、去っていった。
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