「ごめんね…死んで。」
夜風が彼女の綺麗な黒髪を揺らす。さっきまで雲によって隠されていた月は仮初の光で彼女を照らしていた。
少女のようなあどけなさを残した彼女は小さく微笑んでいた。街灯から白いスポットライトを浴びて、まるで自分がこの世の主人公のように当たり前に輝いていた。悪びれる様子もなく、右手にはどこにでも売ってありそうな包丁を握っていた。
私は不意に悟った。今日ここで死ぬのだ、と。花はいつか枯れてしまうように、春になったら動物が冬眠から目覚めるように、人間はいつか必ず死ぬように、私が今、この瞬間命を落とすことは自然の摂理のように思えた。
だから潔く死のう。これが運命と言うのなら。彼女に再会したのが必然だと言うのなら、私は彼女に殺されて永遠に眠ってしまおう。
手元の狂気からは想像もつかないような彼女の優しい眼差し。私は気が付かなかったのだ。彼女を自分勝手に理解して、彼女のことをわかった気になっていた。彼女の本当の姿を知ってあげられなかった。
これはただの油断だ。彼女を信じてしまった私の結末。私の罪。
あぁ、どうしてこうなってしまったのだろう。そう、今日は暖かい日だった。
〇
1月14日の今日は成人式だった。母さんと姉さんが「行け。」とあまりにもうるさかったから、せっかく仕事も休めたのに、わざわざ外出した。姉さんが「面白いから」という理由でチョイスした仕事用の紺色のスーツは成人式でかなり浮いていた。周りには華やかな着物で着飾った綺麗な人たち。そこにポツンと地味な紺色の私。まぁ最終的には姉さんの思い通りになったわけだ。きっと姉さんはこれを見たらうんと笑うんだろうなぁ、と他人事のように思った。
私は式が終わった後、騒がしい雰囲気に疲れて木のベンチに座った。目の前では感動し合いながら抱き合っている人たちや思い出話に花を咲かせている人たちがいる。その人たちには友達がいたのだろう。私にも顔を知っている人は何人か見かけたが、声をかける間柄ではなく、かと言って、親しい友達なんていない(私の記憶では)から、こうして姉さんが迎えに来るのを待つだけだ。その時だった。
「こんにちは。今、おひとりですか?」
風鈴のような可愛らしい声だった。その人は赤い着物を着ていて、白い肌に真っ赤な唇が印象的だった。今時珍しい黒髪は上にまとめて、簪を挿していた。
「えぇ、ひとりです。」
言葉で言い表せないほど綺麗な人だったから、少し反応が遅れてしまった。
しかしそんな私に気づくことなく、美しい女の人は嬉しそうに微笑んで、
「ご一緒してもいいですか?」
と言った。
嫌です、と断りたかったけれど、初対面の人に無愛想な態度をとるにはいかず、仕方なく「いいですよ。」と承諾した。
彼女は一層強く微笑んで、一礼してから私の隣に座った。
「今日は晴れて良かったですね。」
「そうですね。」
今日は雲が途切れ途切れに薄く広がるだけで鮮やかな青空が見えていた。冬にしては暖かく、太陽が鬱陶しくなるほど眩しかった。
「私、こういう賑やかな場所が苦手で…。驚きましたよね。突然話しかけてしまって、すみません。」
本当に申し訳なさそうに彼女は言う。
「いいえ。別に気にしていませんよ。」
迷惑だったけど、落ち込んでいる人に追い打ちをかけるような真似は少し良心が痛むので社交辞令だ。
「今は大学生ですか?」
何をどう思ったのか、彼女はそう聞いてきた。
「いいえ。社会人です。」
「銀行員ですか?」
一瞬、思考が停止した。
なんで、この人は私の職業を知っているのだろう。少し彼女が不気味に思えた。
「当たっていますか?そういう感じがしたんです。」
驚く私に、彼女は悪戯が成功した子どものようにクスッと笑った。
なんなんだろう、この人は。
「でも、不思議ですね。二度と会えないと思っていたんですよ、吉坂杏さん。」
私は絶句した。なんで私の名前を…?私はこんな人知らないというのに。
「杏〜?どーこー?」
姉さんの声がして周りを見渡すと人混みに埋もれている姉さんを見つけた。
「姉さんっ!こっちだよ!」
私は急いで姉さんに向かって叫んだ。この恐ろしい状況から早く抜け出したくて。
姉さんは案の定すぐに私に気がついてこっちに近付いてきた。
「あれ?この子は?」
私が見知らぬ女性といるのを見て驚く姉さんの前に彼女は立って、一礼した。
「お久しぶりです。杏ちゃんのお姉さん。」
さっきの大人気な笑みとは打って変わって、人懐っこい笑顔を姉さんに向けた。まるで人格が変わったようだった。
「もしかして…ゆうなちゃん?」
その瞬間思い出した。
雪下夕奈。中学の時の同級生だ。妙に明るく、友達も多い、いつもクラスの中心にいた人物。そんなカースト上位の人がある日私に声をかけてきた。それから一緒に登下校したり、休日は遊んだりするようになった。たぶん、友達と呼べるような人だったと思う。しかし、中学を卒業してから連絡を取らなくなってしまっていて、ついさっきまで忘れていた。それに、中学の時はボブで顔が丸い童顔だったのに、今ではすっきり肉が落ちて大人びた顔立ちになっている。
「全然気が付かなかったよ。…久しぶり、ユウ。」
なんて呼んだらいいかわからなくて、とりあえず中学の時に呼んでいたと思う、あだ名で呼んだ。
「うんっ!杏ちゃんをびっくりさせたくて頑張って初対面のフリをしたの。」
そう言ってユウはピンク色の舌をチロりとだして、悪戯な笑顔を見せた。
そうだった。私は「杏ちゃん」と呼ばれていたんだっけ。まだ私は完全に彼女こことを思い出せていないらしい。
「ねぇ、杏ちゃん。これから遊びに行かない?」
無邪気に笑う彼女を見てもう一つ思い出した。彼女はとことん私を困らせる人だった。
「いいんじゃないかな?行ってきなよ、杏。」
中学生の頃からそうだった。ユウはいつの間にか姉さんを懐柔し、姉さんユウの味方になっていた。姉さんに言われると行かざるをえない。だが、中学生時代にユウと遊びに行った時のことを考えると、乗り気になれない。
「じゃあ、少し杏ちゃんを借りていきますね。お姉さん、また今度ゆっくりお話しましょ!」
「そうね。またね、ユウちゃん。」
うん。私はまだ何も了承していないんだけど。
ユウに引きずられながら、私は前に進む。こういう自由なところ変わってないな。もう大人なんだから子どものような無邪気な性格を直してほしい。私は心からそう思った。
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