テラーノベル
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※こういう感じもあったかもというちょっとした脱線。自分にしては甘々すぎてボツに。
屋上の風は、少しだけ冷たかった。夏の終わり、湿り気を帯びた空気が遥の髪を揺らしていた。
塗装の剥げたフェンスにもたれ、遥は黙って息を吐く。
腕には指の跡が残っていた。
制服の袖で隠れるそれは、まだ熱を持っていて、触れると少し痛む。
腹の奥の鈍痛も、無視できるものではなかったが──今はとにかく、ひとりになりたかった。
けれど、その静けさは長くは続かない。
鉄扉がきぃ、と重たい音を立てて開く。
振り返らなくても、誰かがこちらへ歩いてくる気配がある。
──足音は一人分。
重たくも軽やかでもない、その“ためらいのなさ”だけで、誰かがわかった。
「……ついてくんなよ」
遥は低く言った。
振り返らず、フェンスから目を離さずに。
「別に、追いかけたわけじゃねぇよ。おまえが屋上に行くの、見えただけ」
日下部の声は変わらなかった。
冷めていて、どこか楽しんでいるようでもあった。
「“見た”ら来んのかよ。……暇なんだな」
「暇だよ。転校初日だし」
その返答に、遥は苛立ちとともに、ようやく顔を向けた。
額に汗が滲み、目はわずかに赤い。だが、泣いたわけではない。
張り詰めた意地だけで、まだ立っている──そんな顔だった。
「……何がしたい」
「何も。別に」
「だったら喋んな。近づくな」
日下部は苦笑した。
その笑いは、“距離を詰めることにためらいがない人間”の、無防備な嗜虐だった。
「……言うようになったよな、おまえ。本当に」
「さっきも言っただろ。変わったんだよ、オレ」
「そっか。……あの頃は、名前呼んでも返事すらしなかったのに」
「──過去の話すんなよ」
その一言には、微かな震えがあった。
押し殺された何かが、にじむ。
「悪い。懐かしかっただけ」
「懐かしむようなこと、オレとあったか?」
「さあな。でも──おまえ、まだ家のこと、誰にも言ってないんだろ?」
その瞬間。
遥の表情が固まる。
日下部の声には、詰問の圧も、好奇心の熱もなかった。
ただ、確認するように落とされたその言葉だけが、遥の内部をざらりと撫でていった。
「……言うと思ってんのか」
「いや、思ってない」
「だったら、なんでそんなこと──」
「試したんじゃないよ。ただ、“知ってる”ってこと、言いたくなっただけ」
「やめろ」
遥の声は低かった。
だがその震えは、怒りのそれではなかった。
「知ってても、黙ってろ。……おまえに、それ、言う権利ねぇから」
「そうだな。……たしかに、俺には何の権利もない」
「だったら──」
「でも、俺に“知られてる”ってだけで、そんなに怖いの?」
一瞬、遥の目が見開かれる。
言葉が、喉に詰まった。
「……怖い、わけねぇだろ」
「じゃあなんで、そんなに睨む?」
「……おまえが、からかうからだよ」
風が強く吹いた。
フェンスの金属音が遠くで軋んだ。
日下部はふと、懐からスマホを取り出して、画面を見た。
何かを打ち込んで、すぐに戻す。
「別にバラすつもりなんかないよ。……今のとこは」
遥の身体が一瞬、硬直する。
「“今のとこ”? ……おまえ、ほんとに、バカにしてんのか?」
「してないさ。俺、真面目だから。おまえみたいなやつ、面白くてしかたないんだよ」
「殺すぞ……」
「……できるなら、やってみなよ」
その言葉には、少しだけ熱がこもっていた。
嗜虐ではなく、“何かを試したい”ような、そんな匂い。
遥は、言葉を詰まらせたまま、何も返せなかった。
拳を握ったまま、歯を食いしばって──
でも、その拳は、どこにも届かない。
「……バラされたくなかったらさ」
日下部は、ぽつりと落とす。
「言うこと、聞いとけよ。そうすりゃ、黙っててやる」
遥は、呼吸が止まるほどの沈黙の中で、日下部の顔を見た。
その目は、笑っていた。
けれど、それは“命令者の目”ではなく──
“観察者の目”だった。
支配ではない。
けれど、それは、支配よりも質の悪い“遊び”だった。
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