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アレンは隔離された部屋で、静かな時間を過ごしていた。話し相手は、動物や精霊たちくらいしかいない。精霊たちは時折、優しく囁きかけてくれるが、それもほんの一瞬の慰めにしかならなかった。
そんな日々の中、アレンは本のページをめくる手を慎重に進めていた。
「これで、少しでも力に……」
だが、目の前に広がる文字たちは、彼が求めるものとはかけ離れているように感じられた。魔法の理論や歴史、古代の呪文――どれもこれも難解で、彼の心を安らげるものではなかった。ただひたすらに、遠い過去の物語が並んでいるだけだった。
「これじゃ…ダメだ」
アレンは本を閉じると、立ち上がり、静かな部屋の隅に置かれた古びた木製の剣を手に取った。剣の柄に手を添えると、自然と身体が反応するような感覚を覚える。剣術を学んでいたわけでもなく、ただ無心で振るっていた日々が懐かしく思えた。
「この剣が、何かを変える力になるはず…」
アレンは剣を軽く振り、足元に視線を落とす。そのまま一歩踏み出し、急に身体をひねりながら斬りつけた。風を切る音が耳に響く。だが、無心で振るうその動きには、どこか力強さとともに悲しみが滲んでいた。
「まだ足りない…」
彼は更に剣を振り上げ、また斬りつける。しかし、その動きに力がこもっても、何か物足りなさを感じる。無意識に、アレンは心の中で叫んだ。
(どうすれば、変われるんだろう…)
彼の声には、絶望が滲んでいた。母を失い、父は人が変わった様に冷徹になり、何もかもが空回りしているように感じる日々。何をしても、自分の力ではどうにもならないという思いが胸に積もっていた。
ある日、アレンは父の命令でラナの魔法の訓練相手を務めることになった。
屋敷の広い訓練場に立たされ、真正面に向き合うのは、まだ幼さを残す妹――ラナ。
「お兄様、ごめんなさい……」
震える声が聞こえた。
彼女は父の期待に応えるため、兄を的にして魔法の精度を高めなければならなかった。
だが、アレンはすでに何度もこの役目を与えられている。
「……気にするな」
静かにそう返し、構えを取った。
――水球が放たれる。
直撃する瞬間、アレンは歯を食いしばった。
痛みが走る。
そして、それ以上に心が蝕まれる。
(父は、一度でも僕を見たことがあるだろうか……)
父の冷たい視線は、アレンには決して向けられない。ただ、そこにいるのは訓練のための道具としての「アレン」だった。
「……いつか、僕も……」
ぼそりと零れた言葉は、虚しく空に消えた。
アレンは、ラナの苦しみを理解していた。
兄を慕い、傷つけたくないという気持ちと、父の命令に従わなければならないという現実。その狭間で揺れ続けるラナの心。
「お兄様、本当は…私……」
言葉を飲み込むラナの姿を見て、アレンはそっと微笑んだ。
「大丈夫だよ、ラナ」
本当は大丈夫なんかじゃない。
それでも、妹を安心させるために、アレンは笑うしかなかった。
――妹を守りたい。
その想いは日を重ねるほど強くなる。
一方で、魔法もろくに使えず、父の期待を一身に背負わせてしまったという自分への怒りと悔しさ。
ただ、遠くから見守ることしかできない自分に、アレンはますます孤独を感じていた。
アレンは、屋敷の廊下を歩きながら、ふと昔のことを思い出していた。
〜〜〜〜
ラナはよく僕の部屋に忍び込んできたものだ。
「お兄様!今日ね、新しい魔法を覚えたの!」
無邪気な笑顔でそう言いながら、彼の前で小さな水の魔法を披露してくれた。
「すごいな、ラナ!」
「えへへ、お父様に褒めてもらえるかな?」
当時のラナは、父の期待に応えようとしながらも、まだ普通の少女らしい一面を持っていた。
魔法を成功させれば嬉しそうに笑い、失敗すれば少し涙ぐみ、それでも懸命に努力する――そんな姿を、アレンは何度も見てきた。
〜〜〜〜
あの日々が遠い過去のようだ。
2年後。
アレンは、剣の鍛錬を終えた後、庭に佇むラナの姿を見つけた。
水が激しく渦を巻き、氷の刃が宙を舞う。精密に計算された軌道で的に命中し、砕け散る氷片が光に反射してきらめいた。
「――遅い」
父の低い声が響く。
「水流を操る速度が足りん。敵が回避する隙を与えてどうする」
「……申し訳ありません」
「もう一度だ」
ラナの返事は淡々としていた。
彼女はすぐに魔力を練り直し、今度は鋭い氷の槍をいくつも作り出す。
一瞬の迷いもなく、それを的へと放った。槍は寸分の狂いもなく命中し、氷の破片が静かに散る。
「……まずまずだな」
父の言葉には、ほとんど感情がなかった。
ラナはそれを当然のように受け止め、ただ静かに頷く。
アレンは、その様子を遠くから見つめていた。
(ラナ……)
かつての妹の姿と、今の彼女が重ならない。
今のラナは――まるで感情を押し殺すように、淡々と訓練をこなしている。
そこに、かつてのラナの笑顔はもうなかった。
しばらくすると、訓練を終えたラナが僕のそばを通り過ぎようとした。
「ラナ」
思わず名前を呼んでしまった。
ラナは足を止め、ゆっくりと振り向いた。
アレンは、少しでも昔のような彼女を取り戻せないかと願いながら、優しく微笑んでみせる。
「よく頑張ってるな。すごいよ」
一瞬、ラナの瞳が揺れた気がした。
だが、それもほんの一瞬。
「……そう」
短く返しただけで、彼女はすぐに背を向けた。
アレンはしばらく、ラナが去った後の静けさの中に佇んでいた。遠くに響く足音が次第に小さくなるのを聞きながら、胸の中にわずかな痛みが広がる。
(ラナ……)
彼女の笑顔がもう戻らないことを、アレンは確信していた。
「……僕にできることは、何もないのか」
アレンは自分に問いかけ、目を伏せた。今はただ、手の中に感じる冷たさを確かめるように、剣を握りしめる。
ある日、父に連れられ出かけることになった。
だが、行先はまったく知らされていなかった。
「父上、どこに向かわれるのですか?」
返答はなかった。
父はただ前を向いて馬車を進めるだけだった。アレンは、だいぶ街から離れてきたことに気づき、ふと不安が胸をよぎった。
(どこに行くのだろうか…)
そんなことを考えているうちに、気づけば眠りに落ちていた。
気がつくと、馬車が止まった音で目を覚ました。
目の前に広がっていたのは、真っ暗な森の中だった。
「…出ろ」
父は冷たく言い放ち、その目はアレンを見ていなかった。
「ここでいったい何をするのですか?」
アレンが問いかけても、返事はなかった。ただ、その後に続いた言葉が、まるで雷に打たれたような衝撃をアレンに与えた。
「…お前はもう必要ない。魔獣に襲われて死んだことにする。」
その言葉が耳に届いた瞬間、アレンは言葉を失い、心臓が止まるかと思った。
「……ぇ?」
父の目には、ただ冷徹な無情さが漂うだけだった。そして、剣と魔除けの粉だけを残し、無言で去っていった。
その後、アレンはひとり、暗闇の中に立ち尽くしていた。
ーー突如、背筋を凍るような気配がアレンを襲った。
「……っ」
息を呑んだ瞬間、森の闇から滑るように現れる影。
【シャドウウルフ】ーー鋭い牙を持つ狼型の魔獣が3匹、音もなく包囲するように現れた。獲物を狙う残忍な瞳が、ぎらりと月光に反射する。
「狼……!」
グルルル……低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
しかし、狼の一匹が苦しげに後退し、他の二匹も一瞬動きを止める。
(飛びかかってこない? そうか、魔除けの粉の効果か……!)
手にした魔除けの粉が微かに光を放ち、狼たちの動きを鈍らせている。
「……逃げなきゃ!」
アレンは剣を握りしめ、全力で駆け出した。
しかし、次の瞬間には獲物を逃がすまいと疾風のごとく襲いかかってきた。
(クソッ! 森の外まで持てば──!)
だが、魔法の粉の効果が薄れ、狼たちの唸り声が鋭さを増す。次の瞬間、素早く跳躍した一匹が襲いかかる。
「くっ──!」
反射的に剣を振るうが、狼の動きは予想以上に速い。斬撃が空を裂くより早く、鋭い爪がアレンの肩を掠め、熱い痛みが走った。
「ぐっ……!」
だが、怯むわけにはいかない。アレンは振り向きざまに剣を振り抜く。
シュッーー!
手応えを感じる。しかし、それは狼の毛皮をかすめただけ。狼は体勢を崩しながらも、すぐに体勢を立て直し、低く身を構えた。
(マズい……このままじゃ……!)
焦りが冷たい汗となって背を流れる。その時だったーー
狼たちが突然、ピタリと動きを止めた。
「……?」
それまでの獰猛さが嘘のように、狼たちは耳を伏せ、わずかに後退する。
(何か……来る……?)
ーーゴゴゴゴ……!
大地が震えた。
いや、違う。何か巨大なものが、この森を踏みしめているーー!
視線を上げたアレンの目に飛び込んできたのは、暗闇を引き裂くような巨大な影。
「な、なんだ……!?」
ドンッ!!
地響きと共に、漆黒の森から姿を現したのは、3メートルを超える巨体の熊型魔獣。
【ブラッディベア】。
巨大な鉤爪を持ち、全身に戦いの傷を刻んだ、獰猛なる覇者。
その圧倒的な威圧感に、シャドウウルフすらも恐れをなして逃げていく。
だが、アレンには逃げ場がない。
「……っ!」
ブラッディベアの瞳がアレンを捉えた瞬間、それは獲物を見つけた肉食獣の目だった。
次の瞬間、大熊は地を揺るがす勢いで踏み込み、それと同時に巨大な爪を振り下ろした。
「くっ……!」
アレンは咄嗟に剣を振り上げ、全力で受け止めるが。
ガキィンッ!!
「なっ……!?」
剣はあっけなく砕け散った。
残ったのは無力な己の両腕。そして、振り下ろされる死の一撃。
「……がはっ!!」
次の瞬間、凄まじい衝撃と共にアレンの体は軽木のように、宙を舞い地面を数回転がり止まった。
「……ぐっ……!!」
全身を駆け巡る激痛。 右肩から左脇にかけて大きな傷と滝のように流れる血。呼吸が詰まり、視界が霞む。
それでも意識を失うわけにはいかない。
(……まだ、戦えっ……!)
だが、ブラッディベアは容赦なく次の一撃を繰り出そうと近づいてくる。
巨大な爪が、アレンの視界を覆いーー
ーー世界が、闇に閉ざされた。
そのまま意識を失い、次に目を覚ました時には…
見慣れぬ天井が広がっていた。