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第1話:隣人の秘密と、突然のお願い**
大学の帰り道、夕焼けがビルの隙間を金色に染めていた。
マンションのエントランスに近づくと、見慣れない黒い外車が停まっていて、その前でひとりの女性が苛立った表情で誰かを待っているようだった。
嫌な予感がした。近づきたくない雰囲気。
私は視線を逸らして足早に通り過ぎようとした──そのとき。
「君、ちょっと待って」
低く落ち着いた声が背後から飛んできて、思わず立ち止まった。
振り返ると、そこにいたのは隣に住む、あのクールな男性──黒川 陸。
黒いシャツの襟元を緩め、片手に紙袋を提げている。普段は誰とも関わらないような距離感のある人なのに、今日はどこか焦っているように見えた。
「黒川さん……?」
声をかけると、彼は数歩近づいてきて、小さく息を吐いた。
「頼みがある。……ほんの少しでいい。俺の“恋人のふり”をしてくれないか」
「……え?」
意味が分からず固まってしまう。
けれど、黒川さんの視線は真剣で、冗談を言っている空気ではない。
「今、あそこに立っている女性──元婚約者なんだ。俺とはもう終わっているのに、何かあるたびに押しかけてきて困っている」
さっき見た女性に視線をやる。鋭いヒール、完璧なメイク。確かに少し怖い。
「今日は“話すまで帰らない”って言われてる。
だから……“もう新しい恋人がいる”というところを見せつけたい」
「し、新しい……恋人……?」
「君の名前と部屋番号くらいは知ってる。けど、無理なら断ってくれて構わない。巻き込むのは良くないから」
そう言って視線を落とす黒川さんは、いつものクールさとは違い、少しだけ弱さを滲ませていた。
胸がきゅっと締まる。
助けたい、と思ってしまった。
「……わかりました。少しだけなら、協力します」
答えた瞬間、黒川さんの目がわずかに見開かれた。
「……本当に? ありがとう」
その声があまりにも優しくて、鼓動が跳ねる。
次の瞬間、黒川さんがそっと私の手を取った。
温かい。思っていたよりも大きくて、指先がじんわりと包まれる感覚。
「すぐ終わらせる。俺が言うまで、そばにいてくれるだけでいい」
そう言って歩き出す黒川さんに引かれ、私は元婚約者の方へ向かう。
女性は私を見た瞬間、驚いた表情になった。
「り、陸……その子は?」
黒川さんは、迷いのない声で言った。
「俺の恋人だ。……だから、もう来るのはやめてくれ」
その言葉に女性はしばらく固まったあと、悔しそうに唇をかみ、車に乗って去っていった。
残されたのは、私と黒川さん。
まだ手をつないだままの状態で、互いに沈黙が落ちる。
私がそっと手を抜こうとした時、黒川さんがふっと微笑んだ。
こんな表情、初めて見た。
「本当に助かった。……ありがとう。
もしよかったら、せめてお礼をさせてくれないか?」
心臓に触れるような低い声。
軽い気持ちで引き受けたはずなのに、視線が逃げなくなってしまう。
──この“嘘”が、後でどんな波を起こすのか。
この時、まだ私は知らなかった。