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だが、カタツムリゆえの弱点もあった。
梅雨の合間、奇跡的に二日間ほど雲一つない晴天が続いたときのことだ。
「……晴斗?」
会社から帰ると、部屋の電気が消えていた。
慌てて明かりをつけると、リビングの隅で、晴斗がシェルジャケットを頭から被り、体育座りでガタガタと震えていた。
「どうしたの!? 体調悪いの!?」
「か、乾燥が……お天道様のパワーが強すぎて、私の水分が……干からびる……」
晴斗の顔を見ると、あの国宝級の美肌が、心なしかカサカサに粉を吹きかけていた。目の輝きもなく、声も枯れかけている。
「大変! 待ってて!」
黒川は急いで加湿器を引っ張り出し、スイッチを最大に設定した。さらに、霧吹きに水を入れ、晴斗の周囲にこれでもかと噴射する。
「シューッ! シューッ! これでどう!?」
「あ、あああ……水……恵みの雨……」
水分を浴びた晴斗は、砂漠のオアシスを見つけた旅人のように、うっとりとした表情を浮かべた。次第に肌にハリが戻り、いつものヌメッとした、いや、ツヤッとした美貌を取り戻していく。
「ふぅ……生き返りました。ありがとうございます、黒川さん」
加湿器の蒸気を顔面で浴びながら、晴斗は幸せそうに微笑んだ。
部屋の中はさながら熱帯雨林のようになり、壁紙が剥がれそうだったが、黒川はそんな晴斗の姿を見て、不覚にも「可愛い」と思ってしまった。
ただの便利な家事ロボットではない。自分を頼り、自分の用意した水で息を吹き返す、不器用で愛らしい同居人。
二人の精神的なディスタンスは、確実に、ゼロへと近づいていた。
楽しい時間は、瞬く間に過ぎていく。
カレンダーは六月の終わりを告げようとしていた。
その日の夜、テレビのニュース番組の気象予報士が、晴れやかな声で告げた。
『――以上、太平洋高気圧の勢力が強まるため、明日にはいよいよ長い梅雨が明け、本格的な夏が到来する見込みです! 明日は朝から快晴、最高気温は三十五度を超える猛暑日となるでしょう』
「そっか……もう梅雨明けか。今年の夏は暑くなりそうだね、晴斗」
黒川は何気なく、キッチンで明日の減塩弁当の仕込みをしている晴斗に声をかけた。
しかし、いつもなら「そうですね」と弾んだ声が返ってくるはずのキッチンから、返事がない。
包丁の音が、静かに止まった。
「……晴斗?」
不審に思った黒川が覗き込むと、晴斗はまな板の上を見つめたまま、静かに佇んでいた。その背中が、どこか小さく見える。
「黒川さん」
晴斗はゆっくりと振り返った。その表情は、いつになく真剣で、そして酷く寂しげだった。
「梅雨が明けたら……私は元の姿に戻って、あのアジサイの根元へ帰らなければなりません」
「……え?」
黒川の手から、リモコンが滑り落ちた。フローリングに高い音が響く。
「何を、言ってるの……?」
「私はカタツムリの化身です。元々、この人間の姿を保っていられるのは、大気中に十分な湿気と雨がある『梅雨の季節』だけなのです」
晴斗は、自分の手をじっと見つめた。その指先が、ほんの少しだけ、元のカタツムリの半透明な質感に先祖返りしているように見えた。
「明日、梅雨が明けます。ですから……家事の契約も、ここまでですね」
晴斗は、無理に作ったような、歪な笑顔を浮かべた。
「短い間でしたが、楽しかったです。あなたの荒んだ生活を、少しでも潤すことができたなら、私を塩で殺さずにいてくれた恩は返せたかと思います」
「待ってよ……」
黒川の声が震えた。
「そんなの、聞いてない。じゃあ、明日からはいなくなっちゃうの? この部屋から?」
「はい。元の、ただの大きなカタツムリに戻ります。言葉も喋れなくなります」
「嫌だよ!」
黒川は立ち上がった。
「家事の契約とか、恩返しとか、そんなのどうでもいい! 私は……!」
私は、綺麗になった部屋が好きなわけじゃない。美味しい減塩料理が食べたいだけじゃない。
夜、誰もいない部屋で一人で怯えなくて済むこと。
私のくだらない愚痴を、優しい目で聞いてくれること。
加湿器の前で、嬉しそうに目を細める姿。
「晴斗」という、一人の存在が、私の生活の、いや、人生のすべてになっていたんだ。
「明日になれば、すべて元通りです。あなたは元の、少しだけ寂しがり屋な、でも立派な社会人に戻るだけです」
晴斗はそれ以上、何も言わなかった。ただ、彼が歩いた後の床に、いつもより少しだけ多い、悲しみの粘液がキラキラと光っていた。
その夜、二人は一言も交わさなかった。部屋を包むのは、加湿器の不気味なほどの静かな駆動音だけだった。
翌朝。
黒川が目を覚ますと、カーテンの隙間から、容赦のない、ギラギラとした夏の太陽の光が差し込んでいた。
空は抜けるような青。梅雨明けを確信させる、痛いほどの陽気だった。
「晴斗!」
黒川はベッドから跳ね起き、リビングへ走った。
キッチンには誰もいない。朝食も作られていなかった。
ただ、リビングの中央に、晴斗が立っていた。
「……あ、あ……」
晴斗の体が、陽光を浴びて、歪に揺らいでいた。輪郭がぼやけ、足元から徐々に、あの淡い紫色のシェルジャケットが、アジサイの葉のような緑色へと変色していく。
彼の美しい顔が、徐々に崩れ、半透明の膜のようになっていく。
「黒川……さん……。さようなら……」
声も、掠れた虫の羽音のようになっていく。彼の体は急速に縮み、人間の形を維持できなくなっていた。
「嫌……嫌だよ!」
黒川は、なりふり構わず駆け出した。
虫が嫌い。ナメクジが嫌い。ヌメヌメするものが大嫌い。
そんな、二十四年間の固定観念なんて、彼の消失を前にしては、何の障壁にもならなかった。
「行かないで!」
黒川は、縮みゆく晴斗の、今まさに粘液の塊へと戻りかけている「手」を、両手で強く、強く掴み取った。
「――っ!」
凄まじいヌメヌメ感が、黒川の両手を襲う。昨日までの比ではない。それは、彼の命の灯火が消えかけている証拠であり、防衛本能としての全力の分泌だった。
手が滑る。掴んでいられないほどにズルズルと滑る。
それでも、黒川は指を食い込ませて、彼の体を自分の方へと引き寄せた。
「黒川……さん……? 何をして……汚い、ですよ……私の、粘液が……」
「汚くなんてない! ヌメヌメなんて、もうどうでもいい!」
黒川の目から、大粒の涙が溢れ出た。
涙は、頬を伝い、二人の繋がれた手へとポタポタと落ちていく。その水分が、晴斗の乾きかけた肌に、微かな潤いを与えた。
黒川は、泣き叫びながら、自分の胸のすべてをぶつけた。
「キャベツなら、これから一生分、いくらでも買ってあげる! 毎日千切りにしてあげる! 減塩料理だって、私もうすっかり慣れたよ! 血圧も下がって健康になった! だから、いなくなっちゃ嫌だ、いなくならないで!」
「……っ」
「家事をしてくれるからじゃない! イケメンだからでもない! 私……私、晴斗、あなた自身のことが好きになっちゃったみたいなんだよ! 独り身の私を救ってくれたのは、あなたのその優しさだったんだよ!」
雨の季節に始まった、これは紛れもない「雨(涙)の告白」だった。
黒川の真っ直ぐな想いと、その目から流れる豊富な水分(涙)を真正面から受け止めた晴斗は、大きく目を見開いた。
崩れかけていた彼の輪郭が、奇跡的にピタリと止まる。
晴斗の瞳に、かつての、いや、それ以上の強い輝きが灯った。
繋がれた手から、ヌメヌメとした感覚が、心地よい温かさへと変わっていくような錯覚を黒川は覚えた。
晴斗は、驚きに震えた後、見たこともないほど深く、そして愛おしそうに優しく微笑んだ。
「……あなたのそんな涙を見せられたら。そんな温かい言葉をいただいたら……」
晴斗の体が、一瞬、強く発光した。
「カタツムリとして、乾いて消え去るわけにはいきませんね」
数日後。
街は完全に本格的な夏を迎えていた。セミの声が、うるさいほどに響き渡っている。
黒川のマンションのベランダ。そこには、直射日光が絶対に当たらない、日陰の「特等席」が設けられていた。
そこにあるのは、ガラス製の、最高級に広々とした虫かご。
中には、高級スーパーで買ってきた、みずみずしい有機栽培キャベツの葉が、贅沢に敷き詰められている。
「晴斗ー、今日のご飯、何がいい? 一応、ネットで新しい『絶品・減塩レシピ』見つけたんだけど」
黒川は、スマートフォンを片手に、笑顔で虫かごに話しかけていた。
虫かごの中には、あの拳大の、立派なカタツムリが鎮座している。
カタツムリは、黒川の声に反応するように、長い触手を嬉しそうにピコピコと動かした。
完全に人間の姿を年中保つことは、やはりできなかった。晴斗は今、夏の期間をこの小さな体で過ごしている。
『黒川さんが作ってくれるなら、何でも美味しいですよ。減塩なら、私も一緒に(心の中で)食べられますから』
黒川の脳裏には、確かに、あのイケメンの晴斗が、エプロン姿で微笑む声が聞こえていた。
「よし、じゃあ今夜は減塩肉じゃがね! あ、ちなみに、今日の夜から雨が降るって予報が出てたよ?」
それを聞いたカタツムリの晴斗は、殻から身を乗り出すようにして、嬉しそうに身をよじった。
雨が降れば、またあの極上のイケメンに会える。
そうでなくても、この小さな相棒が、いつも私のそばにいてくれる。
「ふふ、早く雨、降らないかなぁ」
黒川は、青く澄み渡る夏の空を見上げながら、幸せそうに微笑んだ。ベランダのアジサイは花を落としていたが、二人の部屋には、永遠に枯れない潤いが満ちていた。