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苦しみがたくさん集まった。
ただ生きたいだけの多くの苦しみ。
命に値する多くの。
どう生きたい?
魚がいい。魚ならもう、溺れることもない。この苦しみから解放される。
ならそうなろうか。
まずは生まれよう。誰かの血により力が高まった。
そして帰ろう。
我らが都へ。
※
三日経って親が迎えに来なければ、悲田院に預ける。
その条件で、わたしたちは坊の世話を許された。手習い名目だから、いまの間にお世話を学ばないと。
もちろん三日経って現れなければ五日、七日とずるずる条件を引き延ばしていくつもりだ。わたしだって頑張って穢悪を清祓すればそれくらいの甲斐性あると思うし、なんだかんだ晴明さまは優しいから大丈夫と思う。
――で、食べ損ねた朝餉の残りと夕餉を食べ、陽も沈みかけた頃。
少しずつ茜色が入り込んでくる局で、嬉しそうに坊をあやす命恋姉さま。
決して広くないそこにいるのは、わたしと命恋姉さまと赤ん坊だけじゃなく、坤鬼舎の鬼女たちもみんな見守るようにうしろに立っていた。
籠に揺られる赤ん坊がぐずると狼狽え、目を開けるとわあっと歓びの声を上げ、全員が全力で、この愛くるしい珍客を歓迎中である。まさかの陸燈姉さままで。
「命恋姉さまって、赤ん坊のお世話好きなんですね」
わたしは赤ん坊の頬をいじくり回す命恋姉さまに、すぐうしろから声をかけた。坊はじっと渋い顔で命恋姉さまを見つめているけど、生まれてすぐってこんな感じで笑わないのかな。
「アハハ。私もいま知ったとこ」
命恋姉さまはこっちを向いて、人懐っこく目を細めた。
「私なんかが赤ん坊の世話って思うと恐いけどね~。でもこの子を見たらね、他人事じゃないなって、なんか放っておけないの」
「分かります!」
「そうよね。みんな、想いは似たようなもんだろうから」
命恋姉さまは言って、ウシシと笑った。
問うようにうしろを見ると他の姉さまたちも苦笑いで応じていて、だからわたしと同じように、誰もがこの子を受け入れているんだと、いまさら思い知る。
わたしは嬉しくなってしまって、
「愛くるしいねえ」
命恋姉さまの横に並び、赤ん坊を一撫で。
ああ、晴明さまのお子、早く誰か授からないかな。この子がもしこのまま坤鬼舎に居られたら、子供が二人で坤鬼舎も賑やかになりそうだな。……でも、
「……やっぱり阿母がいいよねえ」
わたしは坊に話しかけた。
「迎えに来てくれたら、いいねえ。わたしたちとは、お別れになっちゃうけど……」
「そんなことないと思うわぁ。どうせこの辺の集落の子供だろうし、たまに様子を見に行くくらいはねー」
命恋姉さまは相変わらず明るく微笑み、また赤ん坊のほっぺをいじくり回した。
「ほーら。私が婆っちゃよ」
「えー。命恋姉さまが婆っちゃ?」
「そうよ。婆っちゃでいいのー」
命恋姉さまが明るく弾んだ声で言うと、赤ん坊はまだ不器用な手を必死に動かし、きゅうっと命恋姉さまの指を握った。そして相変わらず無愛想な面相でこちらを見て、たどたどしく口を動かす。
「……きた……」
※
誰もが寝静まった坤鬼舎の夜。
少し湿った夜気に土や木の森の香りが含まれ、安らげるひととき。
なのにわたしは漠然としたなにかを感じ、まだ眠れないでいた。
縁に腰かけ、腕を組む。そして坊の言葉を思った。
『きた』ってなんだろう。
赤ん坊の声なんて呻きに近くて言葉になっていないのが普通と思うけど、さっきのはなにか意味を帯びていた気がしていた。
不安は思い過ごし? そうあって欲しい。
きっとこれまで経験した自分の良くないものが積もって、弾む心地に歯止めをかけているだけだ。しょせんは鬼女なんだから、赤ん坊のいる暮らしを期待しすぎるなっていう、心に備わる安全の弁。きっとそれだけ。
だからそんな栓のないこと、この弱いお頭で考えていても仕方がない。
今日はだいぶ疲れている。そろそろ眠らないと……。
そう考えてよいしょと立ち上がったとき、
「あれ」
わたしの局からは斎庭の一部が見えるんだけど、その向こうにチラッと鋭いツノが見えた気がした。
一瞬だけど、たぶん見間違いじゃない。刺されたら痛そうなあのツノは、たぶん霞姉さまのもの。
どうしたんだろう。今日は晴明さまが彼女の局にお渡りになる番なんだけど。
眠れないのかな? なら話し相手に……。と思ったけど。
――霞姉さま、わたしをあんまり好きじゃないもんね。
ふうと息を吐き、衾をかぶって横になった。そしてあくびをしてまた夜気を胸に満たすと、今度こそ香りに安らぎ、吸い込まれるように眠りの中に落ちて行く。
眠りの中で、霞姉さまのツノに刺される夢を見た。
※
「捕った~!」
翌日。わたしは川の中の鮎を髪で掴み上げ、川辺に座る亜鐘姉さまに見せた。彼女は上品に笑んで、手柄を称えるように手を叩いてくれる。
雨も上がり、久しぶりに空は抜けるような青藍に澄み切った。
晴明さまは今日も坤鬼舎に泊まられるらしい。それならば好物をということで、わたしと亜鐘姉さまで鮎を捕りに来たところ。
「夜火と来たら楽でいいわ。みんなの分捕ってくれるもの」
「任せてください!」
と、亜鐘姉さまに答え、伸ばした髪を川に突っ込んでもう一つ。さすが命恋姉さまから聞いた秘密の漁場だ。
これで鮎は両手と確か指が三本で……。
「……何匹になりました?」
「十二匹も捕れたから上等よ。早く帰って焼きましょうか」
「たまらん~! 塩を振って食べるの好きなんです!」
わたしは握った両手を高々と掲げ、バシャバシャと大股で川から上がる。まくっていた緋袴もちょっと濡れちゃったけど、走っている間に乾くし気にしない。特に濡れた部分だけぎゅっと絞ると、亜鐘姉さまが口元を緩めた。
「シワになるわよ、夜火。晴明さまがいらっしゃるのに」
「こんな風だから、いつまでも艶っぽくなんないんですよね」
ガハハと笑ったら、亜鐘姉さまが柔らかく目を細めた。
「そんなものにならなくていいわ。魚を捕る夜火が素敵なんだから。命恋姉さまも上手だけど、夜火はもっと上手」
「秘訣があるんですよね~」
わたしは得意になって、胸を反らせる。
「鮎ってなかなか縄張り意識が強いんですよ。だから囮の鮎を泳がせて、襲ってきたところを髪で掴んじゃうんです」
「へえ」
亜鐘姉さまは櫃の中の鮎をしげしげと見つめた。櫃は命恋姉さまが操る冷気の呪で氷室のように冷えている。
「綺麗な魚なのに、恐い性格なのね」
「生きるための縄張り意識でしょうねえ」
「なら仕方ないわねえ」
亜鐘姉さまは櫃に鮎を収め、にっこり。
「生きるためだもの」
「そうそう。仲良くすればいいのに」
「鮎にだって苦手な鮎がいるのかも」
「苦手な……」
と、返事をして、ふと保憲さまを思い出した。
あの日以来音沙汰はないけれど、あの感じじゃいつかまたやって来そうだ。わたしのなにを気に入ったかしらないけど、どう断ったらいいだろう。仮にも晴明さまの兄弟子だし……。
それに自分のなにかを認めてもらえたってことは、相手がたとえ保憲さまでも素直に嬉しかったりもする。この気持ちだけは、晴明さまに内緒だけど。
考えを馳せながら、わたしたちは改めて周囲の無人を確認。亜鐘姉さまに目で合図すると、二人して勢いよく地面を蹴った。鬼女二人の速さなら、坤鬼舎まですぐだ。早く坊にも会いたい。
「いま頃なにしてるかな、あの子。晴明さまにいじめられてないかなぁ」
「夜火ったら」
亜鐘姉さま、今度は明るい笑みを頬に宿す。晴明さまの話題は食い付きがいい。ただ走るのも退屈で、わたしは目まぐるしく流れる景色を横目に亜鐘姉さまに続けた。
「そうだ、亜鐘姉さまは聞きました? 晴明さま、本所のあと片付けが嫌で逃げて来たみたいですよ。終わった頃に帰るって言って、今日もこっちに泊まるんです」
「あら。大内裏から御沙汰が来たらどうするつもりかしら」
「物忌札かけて来たって。陰陽師の邸に物忌札なんか下がっていたら、近付くやつなんかいないって言ってました」
「陰陽を悪用する陰陽師なんて」
亜鐘姉さまはクスリと笑う。そして、
「……今夜は、誰の局にお立ち寄りかしらねえ」
独り言のようでいて、質問を含む調子の言葉を呟いた。
「――昨日が霞姉さまの局だったので、今日は命恋姉さまですよ」
「……そう」
亜鐘姉さまの声が湿り、表情が憂鬱に乾いた。
でも心配して声をかけるより早く、次の瞬間には彼女は明るく「残念!」と、ペロッと舌を出し、にわか作りの明るさを振舞う。男が妻や妾を何人も持つ世の中では、辛い気質と思う。半面わたしはそれほど気にしないので得だ。
「だって晴明さま、前は由を付けて、命恋姉さまの順を飛ばしてくれたから。晴明さまも、きっとわたしに会いたいはずなのにね。今回も飛ばして来てくれないかなって、ちょっと思ったの」
「……晴明さまは、あんな人ですけどしきたりは守りますよ」
「ふふ。冗談よ」
「もう」
安堵を示して、わたしは軽く笑った。しかし実のところでは彼女の声がざらついたなにかで耳に引っかかり、なんだかひどく危ういものを感じていた。雨で削られていく砂山のような……。
「でも、次のときのために、わたしもツノの手入れちゃんとしておかなきゃね」
「――晴明さまのお気に入りですもんね。亜鐘姉さまのツノ」
「そうなの。こんなもの嫌で嫌で仕方なかったけど、いまは大好き」
彼女は誇るように自分のツノを撫でた。
「これがあるから、わたしはわたしでいられる気がするわ。晴明さまに頂いた、わたしの誇りなの」
「わたしも、大好きです」
わたしが同調すると、亜鐘姉さまはとても嬉しそうに微笑んだ。
「さ、夜火。急ぎましょう。今日は鮎を召して精を付けてもらわないと」
「はい!」
どうか彼女の想いが通じますように。わたしの居場所に不幸が降りませんように。
どこかにいるかもしれない神様にそう祈ると、
「亜鐘姉さま?」
いきなり立ち止まった彼女の顔が、蒼白に強張っていた。
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