夜は深く、冷たく、しかし生き物の息吹に満ちていた。漆黒の翼を広げ、塔の頂から闇夜に飛び出したカイラスは、抱きかかえたリリスを慎重に守りながら、その漆黒の都市を見下ろした。灰色の街灯はもはや光を放たず、路地は血の色に染まったような陰影で満ちている。人々の痕跡は消え、残されたのは闇の中に漂う魂のさざめきだけだった。
リリスはまだ少年のような声で呟いた。「ここは……どこ?」
彼女の瞳には恐怖が宿っていたが、同時に、抗いがたい渇望もあった。血の契約を交わした瞬間から、彼女の中に眠る深い闇が少しずつ目覚めていた。人間の理性とヴァンパイアの本能がせめぎ合い、熱を帯びる血管の中で、未知の感覚が渦巻いている。
「安心しろ、リリス。ここは――お前と俺の世界だ」
カイラスの声は低く、夜の空気に溶け込むように響いた。漆黒の瞳が彼女の身体を舐めるように見つめ、触れた瞬間に血の震えを感じ取る。リリスの手の中で、わずかに鼓動が速まった。血の契約は、単なる誓いではない。身体だけでなく魂までも絡め取り、逃れられぬ運命へと二人を縛るものだった。
「でも……私、怖いの。変わってしまうかもしれない」
リリスの言葉に、カイラスは微かに笑った。笑みは優しくもあり、冷たくもある。
「変化は避けられない。だが恐れるな、俺がお前を導く。闇に沈むのではなく、闇を味方にするのだ」
塔を離れ、都市を抜けた二人は、黒い霧が立ち込める路地へと降りる。そこでは、夜の闇が物理の法則を無視して渦を巻いていた。闇の中で、かつての仲間や、恐るべき獲物たち――闇に取り憑かれた獣や、血を求めるヴァンパイアの群れが姿を現す。彼らの瞳は赤く光り、牙が微かに光った。カイラスは知っていた。ここは試練の地。血の渦が二人を飲み込もうとしている。
「……彼らは、私たちを――?」
リリスは恐る恐る問い、カイラスの胸に身を寄せる。
「そうだ。だが、俺の血と俺の力があれば、誰もお前に触れさせはしない」
最初の獣が襲いかかる。銀色の牙が夜の空気を裂き、影が跳ねる。カイラスは瞬時に反応し、黒い翼を広げ、鋭い爪で敵を切り裂く。その動きは精密で、美しさと残虐性が同時に漂う。血飛沫が空気を染め、闇の渦がさらに激しく揺れる。リリスは目を見開き、初めて自らの血の力に触れる感覚を覚えた。心の奥底で、恐怖よりも高揚が勝る。血の鼓動が、彼女の身体を満たす。
「……これが……私の力?」
「そうだ、リリス。お前はもう、ただの少女ではない」
カイラスの声に、リリスは小さく頷いた。恐怖を超えた先に、歓喜と渇望が混じり合う感覚がある。それは、愛か、欲望か、あるいは復讐の炎か――まだ彼女には判断がつかない。
次々と現れる獣を退けながら、二人は都市の中心へと進む。血の契約により、リリスの体は少しずつ変化し、冷たくも熱いヴァンパイアの身体に近づく。カイラスはそれを見守りつつ、内心では苛立ちと憤怒を募らせていた。世界は腐敗し、秩序は崩れ、光の使者は彼らを排除しようと追う。しかし、それでも彼は、この少女を手放すわけにはいかない――奪われた愛を取り戻すためには、世界など焼き尽くしても構わない。
「……カイラス、あなたは……誰かを殺すの?」
リリスの問いに、カイラスは暗い笑みを返した。
「殺すかもしれない……だが、それも愛の形だ。愛を守るためには、何もかも壊さなければならない時がある」
夜はさらに深まり、赤黒く染まった街を照らすのは、二人の血の渦だけだった。空には月も星もなく、ただ闇が全てを包み込む。闇と血の香りに包まれ、リリスは初めて自分の内に眠る渇望を理解する。力を得ると同時に、失うものの重さを知る。それは、愛する者を守るために、世界の一部を犠牲にする覚悟でもある。
「……私は、あなたのために――」
リリスは囁く。言葉が風に溶けていく。しかし、その声は確かに、カイラスの胸に届いた。
「そうだ、リリス。お前の全てが俺の血と契約している。だから安心しろ」
闇の中で二人は、静かに血の渦に身を委ねる。試練はまだ続く。世界の秩序は、二人の愛と渇望の前に抗えずにいる。しかし、それでもカイラスは知っている――この渦の先に、必ず彼女の魂を完全に取り戻す時が来ることを。そして、愛が渇望を超えた時、世界の夜もまた、新たな秩序を迎えるだろう。
夜風が静かに巻き上がり、塔や廃墟の影が揺れる。漆黒の翼を広げ、リリスを守るカイラスの瞳は、冷たくも熱い光を宿していた。血の契約によって結ばれた二人は、闇の中で生き、血の渦に身を委ねながらも、互いの存在を確かめ合う。愛と憎悪、渇望と恐怖、全てを抱きしめるように。
やがて、遠くで夜を裂く光が見える。天上界の使者たち――純白の羽を持つ者たちが迫っていた。だが、カイラスは微笑む。
「来るがいい……リリス。お前と俺の血が、全てを迎え撃つ」
漆黒の夜、血の渦、そして二人の契約。すべてが交錯し、夜は深まるばかりだった。
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