テラーノベル
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カップの底に沈んだミルクの輪を、視線でなぞっていた。蓮司の声も、日下部の息づかいも、店内に流れるゆるいジャズも──
どれも、まるで別の世界の音のように聞こえていた。
なのに──不思議と、耳に入ってくるのは、日下部の言葉だけだった。
「──それでも生きてたじゃねぇか」
──生きてた、ってなんだよ。
遥は思った。
生きてたから、なんだ。
どんな顔して、どんな声で、どんな姿で、生きてりゃよかったんだ。
声も出さず、感情も持たず、壊されたことに気づかれないように──
“生きのびた”だけじゃ、足りなかったのか?
遥の中で、何かが静かにねじれた。
日下部の言葉は、きっと悪意じゃなかった。
むしろ、遥を認めようとする“善意”のかたまりだった。
──でも、それが一番、きつい。
「おまえ、生きてた」
その言葉が肯定に聞こえないのは、
遥が「生きてること」を望んでないからじゃない。
ただ、それが“どんなふうに生きてるか”を見られるのが、
何よりも、怖かったから。
蓮司は笑ってる。
あいかわらず、面倒くさがるでもなく、興味を失うでもなく。
日下部の苛立ちも、遥の歪みも──全部、楽しんでる。
けど、それがむしろ、遥には楽だった。
「意味なんかねぇよ」と言ってくれる人間の方が、ずっと信用できた。
「生きててよかった」なんて、今さらどの口で言うんだ。
──それなのに。
なのに、目の前で
日下部が「まだ間に合う」とでも言いたげな顔をしているのが──
胸の奥で、ものすごく鬱陶しかった。
期待されるのも、哀れまれるのも、ぜんぶ面倒だ。
だったら、全部、壊してしまえばいい。
自分が「誰かにとって意味がある存在」なんて、
そんなことに“なりかけている”気配が──怖かった。
日下部が、また何か言おうとした瞬間だった。
横の蓮司が、くすりと笑う。
「ねぇ、遥。こいつ、結構しつこいよね」
その言葉が、トリガーになった。
──ああ、そうか。
しつこいのは、こいつじゃない。
“俺の中の何か”だ。
何かが、ずっと奥の方で「期待しようとしてる」。
「まだ信じられる」と思いそうになってる。
その“芽”を──自分の手で潰したくなった。
遥は、蓮司の腕を、そっと掴んだ。
指先が、微かに震えていたのは自分でも気づいていた。
それでも、顔は作った。
いつもの笑い顔。
“壊れてる”ことを受け入れた顔。
そして言った。
「──俺、こいつと付き合ってるから」
言いながら、胸の奥で何かが音を立てて折れた。
(……ああ、最低)
自分で、自分を汚した感覚。
でも、それが良かった。
“期待させるような顔”をして生きてるより、
“最初から見捨てられる顔”をしてた方が、ずっと楽だった。
横で、蓮司が少しだけ目を見開いて──
次の瞬間、笑った。
喉の奥で、まるで“獲物を見つけた”みたいに。
遥はそれすら、どうでもよかった。
ただ、日下部の顔だけは見られなかった。
きっと、あの顔には──
ほんの少しでも“俺を信じてた”何かが、残ってたかもしれないから。
だから、見なかった。
逃げたんじゃない。
殺したんだ。
期待という名の、最後の“芽”を。
そしてまた、笑った。
いつものように。
誰にもわからないように。
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