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目が覚めたとき、遥は口の中に苦い味が残っていることに気づいた。──夢の中で、何かを吐いた感覚だけが、喉の奥に残っていた。
枕は濡れていた。
汗か涙かもわからなかったが、どうでもよかった。
窓の外は、すでに明るかった。
ただ、その光がまっすぐ肌に落ちるのが、やけに痛かった。
教室に入ると、もう数人の生徒が席についていた。
視線は逸らされる。
だが、その「逸らされ方」が、いつもよりはっきりしていた。
──日下部の席は、空いたままだった。
朝の会が始まっても、名前は呼ばれなかった。
欠席。理由の説明もない。
誰も何も聞かない。
ただ、蓮司が笑った。
「ねぇ、遥。
あいつ、今日も来てねえけど──まさか、おまえのせいじゃないよな?」
ふざけた調子だった。
だが、その場にいた全員が、その“ふざけた言葉”に耳を澄ませていた。
遥は、なにも言えなかった。
「違うよな?」
蓮司は続けた。
「まさか、あいつが“見ちゃった”とか──そんなんで壊れたとか、ないよな?」
「なにを?」と誰かが笑う。
蓮司は、肩をすくめただけだった。
その後、静かに掃除の時間になった。
教卓の上に、誰かが指示を書いたプリントを置いていった。
「日下部の机・椅子の清掃、遥」
小さく手書きされた文字。誰の筆跡かも不明。だが、反論する者はいない。
先生は不在だった。
無言で、掃除を始める。
日下部の机を拭く手に、自分の手の熱がじわじわ伝ってくる。
まるで、自分がこの席を汚した本人みたいだと思った。
──そうだ。
日下部は、あのとき“見た”のかもしれない。
自分が、あんな目に遭わされていたことを。
でも、それよりも──
“助けを呼ばなかった”
“名前を呼ばなかった”
それが、いちばん大きかった。
日下部がいたら、何かが変わっていたかもしれない。
けれど、あのとき自分は──何も言わなかった。
(……おれが、壊したんだろ。日下部のこと)
そう思うことでしか、すべてを収めることができなかった。
「ねぇ、“同情”って罪なんだよ」
女子の一人が、遥のすぐ後ろで言った。
「可哀想なやつに“情”をかけると、みんな不幸になる。
わたし、そういうの、前に失敗したからさ」
「ねぇ、あんたはどう? 自分が一番可哀想だと思ってる?」
遥は振り返らなかった。
ただ、日下部の机の脚元に落ちた埃を見ていた。
「沈むときは、一人で沈めよ」
誰かがそう言った。
蓮司が、机の上に腰を下ろしていた。
ネクタイは緩めたまま。シャツは裾が出ていた。
「でもまあ──」
蓮司は、手をひらひらと動かしながら笑った。
「ちゃんと“がんばってる”のは、えらいと思うよ?
掃除とか、そういうとこ、ほんとに偉いよ、遥って」
「そうやって、黙って、何されても我慢して、全部自分のせいにしてさ。
──最高に“理想の被害者”じゃん?」
遥は、息を止めた。
笑いながら言われたその言葉が、どうしてあんなに冷たく響くのか、自分でもわからなかった。
蓮司は最後に、そっと付け足した。
「でも、日下部は──そういうの、嫌いだったよ」
「“自分で選ばないやつに、優しくする価値はない”ってさ。
前に言ってた。おまえに聞かせたら、面白いかなって思って」
それは、嘘かもしれなかった。
でも、その一言だけで、遥の中にあった“信じたかったもの”が、またひとつ、音を立てて崩れた。
──ごめん、日下部。
もう、どうしたらいいかわからない。
けれど、その言葉を口に出すことはできなかった。
それを言えば、「逃げた」と思われる。
何より、自分が一番それを、許せなかった。