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――らんが俺を呼ぶ回数が、増えた。
それに気づいたのは、いつだっただろう。
「元貴」
少し離れただけで。
「元貴……」
視界から消えただけで。トイレに行くとき。飲み物を取りに行くとき。ほんの数分席を外すだけでも、らんの呼吸は浅くなり、指先が震え出す。
「すぐ戻るよ」
そう言っても、彼女は不安そうに俺の袖を掴む。
「……ほんとに?」
「ほんと」
そのやり取りを、何度繰り返しただろう。俺が戻ると、らんはほっとした顔で力を抜く。まるで、俺がいない間は、世界が止まっていたみたいに。
それでも――
俺は、離れられなかった。
ある日、回診のあと、医師が俺だけを廊下に呼び止めた。
「少し、お話いいですか」
低く、慎重な声。らんの病室から距離を取った位置で、医師は言った。
「元貴さんが支えになっているのは、よく分かります」
前置き。それだけで、胸がざわつく。
「ただ……今の関係性は、少し境界が曖昧になり始めています」
「……曖昧?」
医師は言葉を選びながら続ける。
「らんさんが、不安を処理する力を、すべて元貴さんに預けている状態です」
頭では、理解できた。でも、心が拒否する。
「それって……悪いことですか」
「“今すぐ”悪いとは言いません。ただ」
医師は一呼吸置いた。
「長期的には、回復の妨げになる可能性があります。依存に近づいている」
その言葉が、胸に落ちる。
依存。
俺は、誰かに縋られる覚悟でここにいる。でも、それが彼女を縛ることになるなら――
「少しずつ、元貴さん以外にも安心できる対象を作っていく必要があります」
「……もし、それを今やったら」
思わず、言葉が出た。
「らんは、どうなりますか」
医師は、即答しなかった。それが、答えだった。
「……今は、かなり不安定でしょうね」
その夜。俺は、らんの寝顔を見つめていた。眠っていても、俺の服の裾を掴んでいる指。逃がさないみたいに、しっかりと。
「……依存、か」
小さく呟く。もし、俺が一歩引いたら。もし、「自分で大丈夫だよ」と突き放したら。この子は、また壊れる。
あの叫び声。錯乱した目。抑制帯の音。全部、蘇る。俺は、ゆっくりと彼女の手を包んだ。
「ごめんな……」
何に対しての謝罪か、自分でも分からない。支えたい。でも、縛りたくない。離れたいわけじゃない。でも、離れられない。その矛盾の中で、俺は立ち尽くしていた。
らんが目を覚ます。
「……元貴?」
「いるよ」
即座に返すと、彼女は安心したように微笑った。
「……よかった」
その笑顔を見た瞬間、決心が揺らぐ。
医師の言葉が正しくても。理屈が正しくても。この子が今、俺を必要としている事実だけは、嘘じゃない。
「……なあ、らん」
「なに?」
「俺が……もし、少しだけ離れたら……」
言いかけて、喉が詰まる。らんの表情が、一瞬で強張った。
「……やだ」
即答。
「元貴、いなくなるの?」
震える声。
「……やだよ」
その反応を見て、もう分かった。今は、無理だ。俺は彼女を引き寄せ、強く抱きしめた。
「いなくならない。大丈夫」
「……ほんと?」
「ほんと」
彼女は、やっと落ち着いた呼吸を取り戻す。その背中を撫でながら、俺は思う。
――これは、支えなんだろうか。
それとも、俺が彼女の恐怖を引き受けすぎているだけなのか。
答えは、まだ出ない。ただ一つ確かなのは、ここで手を離せば、らんは壊れる。だから俺は、今日も選ぶ。正しいかどうかじゃない。未来のためかどうかでもない。今、この子を守ることを。その選択が、いつか俺たちを救うのか、それとも、もっと深く絡め取るのか――
分からないまま。