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それからの時間は、静かに、でも確実に形を変えていった。
らんは、もう「不安になったら俺を呼ぶ」んじゃなかった。不安になる前から、俺を探す。
目を覚ました瞬間。物音がした瞬間。夢から現実へ戻る、その境目で。
「……元貴」
名前を呼ばれるたび、俺は即座に返事をする。
「いるよ」
その一言で、彼女の世界が固定されるのが分かる。呼吸が落ち着き、肩の力が抜ける。
それが、嬉しくて。同時に、怖かった。
俺がいなかったら?俺が返事をしなかったら?考えるたび、胃の奥が重くなる。
医師の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
――不安を処理する力を、すべて預けている。
ある日、リハビリの時間。本来なら、俺は同席しない予定だった。
「元貴は……?」
理学療法士が来た瞬間、らんが周囲を見回す。
「今日は、元貴さんは少し遅れますよ」
穏やかな声。それでも、らんの顔色が変わる。
「……やだ」
ベッドの縁を掴み、身体を引く。
「元貴、いないなら……」
言葉が途切れ、目に涙が溜まる。俺は廊下で、その様子を見ていた。
胸が、締め付けられる。行けば、落ち着く。行かなければ、彼女は崩れる。……だから、行ってしまう。
「ごめん、遅れた」
そう声をかけると、らんは一気に力を抜いた。
「……いた……」
それを見た理学療法士が、ほんの一瞬、視線を伏せたのを、俺は見逃さなかった。
夜。医師が、再び俺を呼び止める。
「今日の様子、見ました」
責める調子ではない。だからこそ、きつい。
「元貴さんがいることで、らんさんは安定します。間違いなく」
「……はい」
「でも、いないことで、極端に不安定になる」
言葉が、胸に沈む。
「これはもう、“支え”というより……」
医師は、言い切らなかった。その沈黙が、すべてだった。
「少しずつでいいんです。ほんの数分でも」
「……もし、それで、また錯乱したら?」
医師は、目を逸らさなかった。
「そのリスクは、あります」
俺は、何も言えなかった。部屋に戻ると、らんは俺を見て、ほっとした顔をする。
「……どこ行ってたの?」
「ちょっと、話してただけ」
「……もう、行かない?」
不安を隠しきれない声。
「……すぐ戻るなら」
その言葉に、俺は頷くことしかできない。
らんは、安心したように俺の腕に寄りかかる。その重みが、今はもう、心の重さと直結していた。
夜中、らんが眠ったあと。俺は、ベッド脇の椅子で、頭を抱える。
俺がいるから、彼女は落ち着く。俺がいるから、彼女は眠れる。
でも――
俺がいるから、俺以外が怖くなる。
「……どうしたらいいんだよ」
答えは、どこにもない。
らんが、寝返りを打つ。無意識に、俺の服を探す。俺は、その手をそっと握る。離せない。離したくない。離すべきなのかもしれない。全部、同時に本当だ。医師の言葉も正しい。俺の選択も、間違っていないと思いたい。
ただ一つ、確かなことがある。この子は、俺がいない世界では、まだ生きられない。それを作ってしまったのが、俺だとしても。それでも、今は――
俺は、ここにいる。らんが、世界を思い出すまで。俺以外の「安全」に、触れられるようになるまで。その日が来るのを、願いながら。