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あの日から、胸の奥に小さな火が灯ったような落ち着かない感覚が続いていた。
右足の傷は、驚くほど早く治っている。
あの男──暁が手際よく巻いてくれた清潔な布と
不思議なほど冷たくて心地よかった彼の手の感触だけが、悪夢のような夜が現実だったと教えてくれていた。
◆◇◆◇
数日後の夜
私は再び、浅草の賑わいから少し外れた通りを歩いていた。
任務ではない。
ただ、無意識にあの場所の近くを探してしまっている自分に気づき、自嘲気味に唇を噛む。
(…ちゃんとお礼がしたいだけ、しないと気がまないし……あの人はきっと、只者じゃない)
その時だった。
屋台の明かりが届かない暗がりに、見覚えのある漆黒の着物が揺れた。
「……あ」
声が漏れたのと、彼がこちらを振り向いたのは同時だった。
暁。
彼は数日前と変わらぬ、どこか世捨て人のような
それでいて浮世離れした美しさを纏ってそこに立っていた。
「おや、あの日以来か、こんなところで奇遇だね。あざみさん」
私の名前を、彼は覚えていた。
心臓が不意に跳ねるのを無視して、私は努めて冷静に、鬼狩りらしい硬い声を出した。
「……おかげさまで、あのときは本当にありがとうございました…!どうしてもお礼を言いたくて、探していたんです」
「律儀だね…僕はただの『流れの浪人』さ。困っているお嬢さんを助けるのは、侍の端くれとして当然のことだよ」
暁はふわりと目を細めて笑った。
浪人。
そう自称する彼の腰には、確かに刀が一振り差されている。
けれど、その刀からは殺気が微塵も感じられない。
まるでただの飾り物であるかのように。
「浪人なら、宿はどうしているんですか?…もし、行く当てがないのなら、その……」
私は、自分の指先を弄りながら言葉を絞り出した。
代々続く鬼狩りの家系。
他人に、ましてや男性に自分から声をかけるなんて、教わったことは一度もない。
けれど、どうしても恩返しがしたかった。
「恩返し、させてください!江戸の町なら、私が案内できますから」
「おや、それは心強い。ちょうど、江戸の旨い団子屋でも探そうと思っていたところなんだ」
暁は私の不器用な提案を、茶化すこともなく受け入れた。
それからの一刻ほどは、私にとって魔法のような時間だった。
仲見世の賑わい。立ち並ぶ風鈴の音。
いつもは鬼を捜すために光らせているこの目が、今は彼の隣で、夜店の華やかさを映している。
暁は、珍しそうに江戸の風景を眺めていた。
時折、彼が私の袖を引いて人混みを避けてくれるたび、触れた場所が熱くなる。
「……ところで…君は、どうしてそんなに一生懸命、刀を振るうんだい?」
ふと、立ち止まった暁が私を見つめた。
その瞳は優しく、けれどすべてを見透かしているようで、私は思わず本音を溢しそうになる。
「……それが、私の運命だからです。鬼を斬り、人を守る。それ以外に、私の価値はないから」
「価値、か……。君は、とても強い瞳をしている。でも、少しだけ……寂しい色も見える」
その言葉に、私の心の奥底にある孤独が軋んだ。
母は鬼に殺された。父も私を庇って重傷を負った。
鬼狩りになるしかなかった。強くなるしかなかった。
「……暁さんみたいに、自由に生きられる人にはわからないでしょう」
皮肉ではなく、ただ本心だった。
暁は、傷ついた私の言葉を聞き流すことなく、静かに首を振った。
「自由……か。それは、時に孤独よりも深い闇かもしれないよ。僕にも、ずっと昔から背負っているものがある。決して誰にも理解されない、『業』という名の鎖が」
そのとき、暁の眼がほんの一瞬、鮮烈な紅色に揺らいだように見えた。
空に稲妻が走ったわけでもないのに。
「す、すみません、お礼をしたいだけなのに、失礼なことを言ってしまって」
「いや、僕の言い方が悪かったね…でも、君には君だけの価値があるんじゃないかな」
「…!」
「──さて、今夜はこれくらいにしておこうか。お礼はちゃんと受け取ったよ、ありがとう」
暁は唐突に話を打ち切り、ひらりと手を振ると、
また夜の闇に溶けるように歩き出した。
私は呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。
(彼は一体……何者なんだろう)
胸の中で小さな疑問が膨らんでいくばかりだった。