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エリオットが
ベッドへ横たわったあと、
部屋には
静かな呼吸の音だけが
ゆっくりと流れていた。
さっきまで
苦しげだった胸の上下は、
いまは落ち着いて見える。
けれど
触れれば壊れてしまいそうなほど
その眠りは
か細く儚かった。
イチは
じっとエリオットを見ていた。
理由はわからない。
どうして
この少年が苦しむのを
こんなにも嫌だと思うのか、
自分でも説明できなかった。
考えるより前に
胸が動いていた。
イチは
少しだけ視線を落とした。
彼の額に
熱はないだろうか。
暑い夏の空気のせいなのか、
それとも――
触れて確かめることは
できなかった。
触れれば
何かが壊れてしまいそうで。
けれど
何かしてあげたい
その衝動だけが
まっすぐ胸に浮かんでいた。
イチは
静かに立ち上がり、
家を出た。
扉を閉める音さえ
ほとんど響かない。
外は
夏の夕暮れ。
少し湿った風が
森から流れてくる。
どこへ行けばいいか
わからない。
それでも
足は迷いなく同じ方向へ進む。
水のある場所。
それだけが
ぼんやりと
イチの頭に浮かんでいた。
木々のあいだを歩く。
足音は静か。
先ほどエリオットと
歩いた小径を抜け、
昼に見た
花のそばを通り過ぎる。
その奥で――
聞こえた。
水音。
小さな沢が
森の影を縫うように流れていた。
透きとおる水は
夏の光を反射して、
冷たい色をしている。
イチは
靴を脱ぎ、
裸足のまま
そっと近づく。
水へ手を伸ばすと――
ひやり。
空気とは違う
澄んだ冷たさが
指先から腕へ
駆け上った。
イチはしばらくその感触を
じっと感じ続けた。
彼に
触れられない代わりに。
その水を
そっとすくう。
両手に収まる量は
ほんのわずか。
でも
それでよかった。
届けたい
その想いだけが
水よりも強く
手を満たしていた。
イチは
水をこぼさぬよう
ゆっくり歩き出す。
森の風が
手のひらを冷やし、
道の影が
足を導く。
水は
少しずつ零れていく。
それでも
イチは歩いた。
木の実を拾って
帰るエリオットのように。
家に着く頃には
手の中の水は
ほんの一滴になっていた。
イチは
そっと寝室へ戻り、
エリオットの枕元へ跪く。
手を開くと、
最後のひと雫が
指先をつたって落ちた。
それは
彼の額に触れる
ことはなかった。
ただ
枕元の布を
わずかに濡らしただけ。
けれど
イチは
その濡れた布を見つめ、
確かに
何かをできた
そう
静かに理解した。
その小さな行動が
正しいのかどうか
わからない。
でも
そうしたかった。
その気持ちだけが
彼女の中に
はっきりと残った。