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夕食前にジュノが私の前に現れ、キャスリン様から話があるとのこと。夕食は私が共に運び、付き添うことにした。キャスリン様の使われる皿は全て銀になり警戒は怠らない。居室の机に並べ終わるとキャスリン様からソファに座るよう求められた。何かあったのか。
「カイランに夫の勉強を勧めるのが遅いわよ」
深刻ではないようだ、笑って話されている。
「私の能力不足、申し訳ありません」
「扉の鍵が開いていたわ」
キャスリン様は夫婦の寝室へ繋がる扉を指差す。私は驚き扉を見つめてしまった。どうやって、いつから、カイラン様が開けたのか?
「昨日からダントルがこの部屋に詰めているでしょう?念のため、握りを回したら開いてしまって、私に報告したのよ。怒らないでね、誰も責めては駄目よ。カイランが夫婦喧嘩と宝石屋に言い含めて開けさせたようなの、カイランは一度だけ開けたそうよ」
宝石屋、確かにトニーからの報告でそんな内容があった。その時からなのか。一度だけ?いつなのか。
「私が悪阻で閣下と寝室を共にしなかった時があったでしょう?その時に入ったのですって。よく閣下も夜中に様子を見に来ていたし、私は気づかなかったわ。暗闇で私の心配をしていたそうなの、怖いわよ」
なんと大胆な。あの時は居室に誰かしらメイドが詰めていたはず、鉢合わせをしたら騒ぎになって主の耳にも入っていただろう。カイラン様は思い詰められていたのか。
「つい怖くて、寝室へ入りたいなら断らないわ、と言ってしまったのよ。そうしたら共に眠りたい、とお願いされてね」
それは、なんと思いきったことをお願いされる。
「今寝室にはジュノが共にいるでしょう。それならカイランと二人きりではないし、了承したのよ。閣下は怒るかしらね」
ここでカイラン様を突き放し断ってしまえば、また落ち込み、おかしなことを考えてしまわれるな。旦那様にはなんと言ったらいいのか。
「閣下には私から話すわ。鍵のことは言わなくていいわよね、秘密よ。鍵穴を塞いでしまうわ。これからは確認する、だから合鍵があるなら渡してくれる?もう開けることはないと思うけど少し不安なの。カイランも閉められないのよ」
開けてもらったのはいいが閉められなくなったのか。
「後で持って参りますが、本当に今夜は共に眠りますか?」
ええ、とキャスリン様は答える。
「閣下が出立前に年老いた使用人に気を付けるよう言っていたわ。多分もう私には近づかないでしょうけど、警戒はしておいたほうがいいわ。カイランを襲うことはないでしょう?」
カイラン様を盾にするか。大旦那様の子飼いはカイラン様に何かするよう命じられてはないだろう。
「もう、とは?誰か近づきましたか」
「ええ、庭師のサムに花園で話しかけられたの。老公爵様からの警告かしらね、私が閣下から離れてカイランの元へ戻るのがお望みなの。私が断ればカイランに後妻を与えて、正しい形にしたいようよ。私を消してね。老公爵様は私が閣下を操り、ゾルダークを好きなようにすると心配されているのね。そんな大それたこと考えたこともないわ」
大旦那様ならばそう考えるかもしれない。カイラン様も新たに娶るならば同じ過ちは起こさないだろう。だがそれは主の溺れぶりを見ていない者の思い付きだ。この邸にいる子飼いはそれを見ているだろうに、大旦那様はどこまでお二人の想いが深いか理解していない。きっとサムはキャスリン様の存在の重要性を理解している。だから大旦那様の意向を話したのだろう。
「閣下に私のためにお金を使わないようにと一言言わなくてはならないわ。ソーマから見ても私が閣下を骨抜きにしているように見えるのでしょう?」
頷くしかない。実際そうなのだから。女性のために金など使ったことのない主が真面目な顔で冊子を見ているのは初めてで、微笑ましくて止めることはできなかった。キャスリン様がねだったように見えるか、これからは抑えていただこう。無視をされそうだが。
「サムは今までよく話す相手だったから私に忠告をしてくれたの。けど、まだ子飼いはいるそうなの。だから閣下が戻るまで私を守らなくてはね。もう、ゾルダーク領には着いているはずよね」
キャスリン様は腹を撫でながら俯いてしまった。自分を狙う者が邸にいるのだから無理はない、不安だろう。
「サムを怒っては駄目よ、私を心配してくれているの。いなくなっては寂しいわ」
大旦那様の子飼いは大体見当はついている。古く長く上には敢えて近くない位置の者達だ。不穏な動きをしない限り捕まえることはできない。主は何を言われ、答えているのか。忠告をしたのならサムはキャスリン様に敵意はない。だが大旦那様に傾倒する者ならば動き出す者がいるかもしれない。カイラン様には申し訳ないが、何かあれば主の指示通り私は動く。
「わかりました。私からサムに何も問いません。夜は寝室の扉を開けてください」
カイラン様がおかしなことを始めたらジュノでは止められないだろう。ダントルなら殴ってでも止める。
「そうするわ、サムのことは私から閣下に伝えるわ。お願いがあるの、閣下の夜着かガウンを持ってきてくれる?」
すでに洗濯が済んでいるが別にかまわないだろう。
「かしこまりました」
キャスリンが共に眠ることを許してくれた。二人きりではないのが、かえって安心だ。何をするかわからないからな。眠る準備が終わったら枕と掛け布を持ってくるよう言われた。トニーに話したら驚いていたが、婚姻してから初めてなんだ、心は高揚し楽しみにしている。久しぶりにこんなにいい気持ちになった。
湯に入り、夜着を着こんで夫婦の寝室の扉を叩くとキャスリンの騎士が扉を開けた。僕の後ろからトニーが枕と掛け布を持ってついてくる。騎士が僕を止めないならそのまま寝室へ向かっていいんだろう、トニーから枕と掛け布を受け取り、寝室の扉を叩いてもらう。キャスリンのメイドが夜着姿で扉を開け中へ勧める。キャスリンはすでに寝台に乗り、ハンカチに刺繍をしていた。入ってきた僕を見て、寝台を叩く。
「早かったのね。まだ眠くないのよ、カイランは眠い?」
僕は寝台に腰掛け持ってきた枕と掛け布を置く。
「早く来てしまっただけだよ、キャスリンが眠くなるまで待ってる」
キャスリンは頷き、刺繍に戻る。空色の上質なハンカチだ。父上に渡す物だとわかる。
「鷲かな?随分強そうな置物だね」
キャスリンは針を刺す手は止めず答える。
「黒檀なのよ。今にも羽ばたきそうでしょう?気に入ってしまって。あげないわよ、一点ものなの」
別に欲しくないけど、この部屋には似つかわしくないと思うだけだ。懸命に針を刺すキャスリンを見つめる。もう少しで出来上がるな、上達している。僕はキャスリンが好きだ。気づくのが遅すぎた、婚約してから沢山話せばよかった。きっとすぐに惹かれたろうな。彼女が僕のことをなんとも思っていないことはもうわかっている。テレンスを相手にしているのと変わらないんだろう。だが僕は諦めない。愛人などいらない、キャスリンが欲しいんだ。彼女が許してくれるなら触れたい。
キャスリンが刺繍枠を寝台脇にある棚に置いた。僕に向け微笑みながら話す。
「おしまいよ、明日には出来上がるわ。枕を置いて眠りましょう」
キャスリンは枕を一つ抱き締め横になる。腹が膨らんでからは横を向いて眠るほうが楽らしい。僕に向かい横になり、小さな体を丸め枕を口元まで持ってきて抱きしめている。その体にメイドが掛け布をかけ包む。僕は座ったままその姿を見つめるだけだ。空色の瞳が僕を捉える。
「眠くないの?」
なんて愛らしいんだ。つい手が伸びる。頭を撫で掛け布の上から腹を撫でる。
「大きくなったね」
もう何度も後悔をした、今この瞬間も後悔をしている。こんなに僕の心を苦しくするのは君だけなんだ。側にいさせて欲しい。父上がいないときだけでも守らせて欲しい。
「カイランはよく泣くのね」
頬に触れると濡れていた。君が僕を泣かせる。
日中は首に赤い痕なんてなかった、白粉で隠していたんだな。父上がつけた痕か、なんて執着が強いんだ。父上のガウンを着て眠るのか、そんなに心細いか。持ってきた掛け布で顔を拭く。キャスリンに向かい横になり掛け布をかける。
「髪が伸びたね。綺麗だよ」
キャスリンの笑みが美しい。
「手間をかけているのよ。ジュノ蝋燭を消して」
メイドが火を吹き消すと月明かりだけになる。それでも目の前のキャスリンは見える。空色が閉じられ消えてしまった。いつまで見ていただろうか寝息が聞こえてくる。メイドが寝たかはわからないが、僕は手を伸ばし腹に触れる。もっと膨らむんだ、僕の子じゃない。それでも父親は僕なんだ。軽い衝撃が伝わる。起きている、蹴っているのか叩いているのか、触れるなと伝えたいのか。離さないけどな。いずれキャスリンは僕がもらう。覚悟を決めると心が落ち着くものだな。腕を伸ばし髪を捕まえる。柑橘の爽やかな香りだ。指に巻き付け口を落とす。君以外の女性には触れないよ。
暗闇が始まり田畑の広がる道の外れの雑木林で、十名近くの男達が火を囲み食事をしている。ゾルダーク領境を出て二刻は馬車を走らせただろうか、火が消えれば月明かりだけになる。これだけの男が集まれば襲う者もいないだろう。食事を終え、靴を脱ぎ足に巻いた布を剥がしていく。血が乾き始めた。布を湯につけ固く絞り血をゆっくりと拭いていく。邸で渡された軟膏を塗り込み新しい布を巻き直す。同行した騎士も同じ処置をしているだろう、彼らのほうが慣れているはずだ。最後まで共にたどり着けると傲ってしまった。そんな俺に旦那様はキャスリン様との子を導けと言ってくれた。期待に応えなくては、カイラン様のような後継にはしない。キャスリン様がそんなこと許さないだろう。あの方は強さも厳しさも優しさも愛情も注ぐ。大旦那様の育て方には偏りがあったはずだ、旦那様を見ていればわかる。キャスリン様に出会い、愛情を注がれても、まだ足りないと欲して、執着し奪われるのを恐れている。その恐れから旦那様は外敵に強くあり続けなければならない。ゾルダークにとって当主が強いのはいいことだ。人としておかしいが、キャスリン様さえ側にいてくれるなら、問題などない。俺はキャスリン様と共に後継を導く。俺の後任も探さなくてはならない。無事に生まれるといい。