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「ねぇ、いつかまた『おかえり』って言える?」
「それは、君の『いってらっしゃい』次第。」
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今日も、特別な一日じゃなかった。スーパーで特売の牛乳を買って、
少し重くなった袋を持って、
「今日は何作ろうかな」なんて考えながら歩いていた。
夕方の風は、生ぬるい。
アスファルトの匂い。
自転車のベルの音。
全部、いつも通り。
だから――
その扉を見つけた瞬間、
私は自分の目を疑った。
「……え?」
古い木の扉が、
アパートとアパートの隙間に立っていた。
立っている、というのが正しい。
壁も、家も、枠もない。
ただ、そこに「入口」だけがある。
おかしい。
昨日も、その前も、
私はこの道を通っている。
なかった。
絶対に、なかった。
「……疲れてるのかな」
そう呟いて、目をこすった。
でも、扉は消えない。
近づくと、ひんやりした空気が、足元を撫でた。
――開けちゃだめ。
理由もなく、そう思った。
なのに、手が勝手に動きそうになる。
その時だった。
「それ、まだ閉まってない」
低く、落ち着いた声。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
年齢は、私と同じくらい。
黒いコート。
フードで顔は見えなかった。
なぜか、懐かしい匂いがした。
「……誰ですか」
声が、思ったより震えた。
「通りすがり。
……って言うと、信用されないよね」
困ったように笑う。
その表情に、胸がきゅっと縮んだ。
「まぁこの扉の管理人。とでも思ってくれ。
その扉、向こう側に行くと――
帰れなくなる人もいる」
「……は?」
意味がわからない。
「比喩、じゃないんですか?」
「半分は」
管理人は、扉から視線を外さなかった。
「君、帰るところだったでしょ」
なぜ、わかるのか。
「……はい」
「なら、なおさらだ」
「なにが」
彼は少し言葉をためて、深く息をついた。
そして、低く、重く――胸に響く声で言った。
「扉の向こうにいる人たちは大好きだった人のもと、落ち着く居場所に帰られなくなった人たち。
人は誰にでも、心の中に扉を持っている。
悲しみや憎しみが溜まると、勝手に扉が開くんだ。
それを閉めてあげるのが、君の役目だ。
ただし、閉めるのは簡単じゃない。
開いた扉は誰のものでもない。
でも――君が最初に触れた扉は、特別だ。
君と、君が大事にしたい誰かのものになる」
胸の奥で、何かがぎゅっと締め付けられる。
恐怖、違和感、そして懐かしさ。
全部が混ざり合って、体が震えた。
扉の向こうから、かすかに声が漏れた気がした。
笑い声、泣き声、怒りのような声。
でも振り返っても、誰もいない。
「……行くの、ですか」
震える声を出すと、管理人 は小さくうなずいた。
「……君が決めるんだ」
そして、心の奥で、ふと――
意味はわからないのに、言葉が浮かんだ。
「いってきます……」
不思議な、でも温かい感覚。
胸の奥が、ぎゅっと満たされる。
扉を見つめる私の心は、
その言葉の余韻に、そっと捕まれた。