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この頃弟は、なにかが変わった。
中学に上がった頃からだろうか。背が、伸びて。小さな王様だったのが。生意気な口を叩くのは元々だったけれど、箔がついてきた気がする。精神年齢にやっとからだが追いついてきたのだろう。
家で見ているうちには気づかなかったのだが、学校に入り、異性の顔を見比べ、弟のことで女子たちが騒ぐ事態を見ているうちに、ようやく彼女は気づいた。――自分の弟が美しい男なのだと。
クールな顔をして、自分は年上キラーだぜ。なんて生意気な顔をしているけど、赤ちゃんだったのに。
ママにも姉にも依存する、甘ったれた赤ん坊だったはずなのに。弟は、すっかり、変わった。
彼が、自分から変わりに行ったのか。或いは、彼自身はさほど変わらず、世間の評価が変わったのか。どちらなのか、いまひとつ、晴子には分からない。
ひとり、部屋で宿題に向かう西河晴子は、分からない問題にぶつかり、問題集を手に、廊下を抜け、弟の部屋をノックする。
「ともちゃーん。ちょっと教えてー」
「……入って」
弟が自分の部屋を持った頃から、晴子は、勝手に弟の部屋には入らず、必ずドアをノックするようにしている。というのは、前に、ごみ箱に大量のティッシュが捨てられているのを見つけたからだ。
性的なものをそぎ落とした少年として存在していたはずの、弟が。
告白すると、ショックだった。こんな悩みなど、誰にも言えない。
弟の秘密を知る晴子は、なるべく室内の観察をせぬように、勉強机に向かう弟に近づく。
「これさぁ。この、関係代名詞のところが、よく、分かんなくて……」
「whichとthatの違いが分かんないでよく晴ちゃん、推薦通ったよねえ……」呆れたように言い、智樹が椅子を回転させる。やはり、また、背が伸びたか。丸椅子に座る弟の顔がちょうど胸の高さにあるように思えて、晴子は、内心で動揺する。
無論、そんな動揺など悟られまいと、彼女は接する。
「thatが先行詞を定義するのに対し、whichは追加情報を与えるんだよ」晴子の胸中知らず、涼しい顔で弟は語る。「”one of which”とは言うけれど、”one of that”とは言わないだろう? He’s the greatest actor that has ever lived. ……この文脈において、whichは使えないね……うん」
母の影響で洋楽を聴くこの弟は英語力もかなりのレベルだ。
結局いつも通り、弟は丁寧に教えてくれた。態度も、ビジュアルも、問題がない。ちょっと頭でっかちなところはあれど、それ以外は普通の男の子だ。
晴子には、不思議でならない。――何故、弟は、彼女を作らないのか。見聞きする限りでは、より取り見取りだというのに。
「ありがとうよく分かった。智ちゃん教えるの本当上手。……ねえ。将来先生になったら?」
「おれ、教えるのは向いてないんだよ本当は。レベルの低い他人に合わせることの出来ない、自己中な野郎だから」
照れたように顔を背け頭を掻く。その言動の理由がいまひとつ掴めないが、
「でも、わたし、……バカなのに。ちゃんと分かるように、かみ砕いて教えてくれるじゃん」
「自分で自分のことを馬鹿だとか言うなよ。産んでくれた母さんに失礼だぞ」
「こういうところが、自分で、馬鹿なんだと思う……」
「――馬鹿な人間は、他人の気持ちに、疎い。動向に目を光らせることが出来ず、時代に置いてきぼりを食らう。いまは、情報社会だからな。知らないやつが……情報を積極的に取り込むことの出来ないやつらが、脱落する、格差社会なんだ……実は」
――また、始まった。
こころのなかで晴子は笑う。語りだすと長いんだ、智ちゃんは。
壁際の本棚に背を預け、晴子は、智樹の弁舌に身を委ねる。
「自分で積極的に、正しい情報を取り入れる努力をしなければ、差が開くばかりだ。しかもだ。しょうもない情報が世の中にはあふれている。だから、情報を選別し、吟味し、自分のものとして取り入れていく努力が必要なんだ。
大沢在昌は、5ちゃんを読む。大量の、知ったかぶりで、的外れな意見のなかに、たまに、ものすごいダイヤの原石を見つけることがあるらしい。その瞬間が、たまらないんだとか。
いまは――社会が動いているからね。コロナウィルス。おれの見立てでは、この事態は、どんどん悪い方向に進んでいくはずだ。日本は、初動を失敗した。――数名感染したのを発見した時点で、もっと動くべきだったんだよ。手をこまねいて事態を見守るだけなら、誰にだって出来る。
東京オリンピックなどと騒いでいる場合ではない。小池百合子は、する気満々だろうけれど、おれの見立てでは延期になる。とても、各国の人間を招ける状況にない」
「日本は、経済的に、大ダメージを受けるだろうね。オリンピックすると景気がよくなるんだもんね……」
「日本どころか世界的にも大恐慌が巻き起こってもおかしかない。――無駄な出費は控えるんだな。この調子で行くと、自宅勤務、自宅待機などが起こりうる。となると母も父も収入が減る。……晴ちゃん、牛肉が食べたいとか騒いでいる場合じゃあないんだぞ? 本当は……」
「――智ちゃん。昨日は、本当は、誰に会っていたの? ほんとに友達?」
腕組みをし、智樹を見据える。――生まれた頃からの付き合いなのだ。いくら頭脳明晰とはいえど、嘘は隠せないらしい。
「……玉砕? 失恋したんなら、ちゃんと、言いなよ。わたしたち家族なんだから。隠し事はナシだよ。辛いことも悲しいことも、分かち合うのが家族ってものでしょ?」
顔を伏せた弟が、
「……ふ」
肩を震わせた。泣いているのかと思ったら違う、笑っていた。馬鹿みたいにずっと。
心配になって晴子は問いかける。「ちょっと。智ちゃん……どうしたの」
「いや、晴ちゃんは……鈍いように見えて聡いんだよね。言うよ。『家族』なんだから。おれは……昨日。石田と会ってた」
「……って、母さんにアプローチかけているっていう、『葉桜』の御曹司……」
「御曹司って定義していいかは微妙だけど。うん。まあ、いい男だったよ……」思い返すように弟の瞳が動く。「あいつになら、母さんを任せてもいいかもしれないとは思ったが、牽制しておいた」
疑問に思って晴子は尋ねた。
「――どうして」
「母さんがあいつに奪われることでいったい誰が悲しむのかってことを考えた結果だよ」
「それは」
「おれじゃない。――姉さんだよ」
晴子は目を見開いた。「わ、たし……?」
「そ」と弟が立ち上がる。「父親があんなろくでなしだったから、姉さんは、母さんに依存している。きっと姉さんは面白くないと思うことだろう。おれたちを中心に回る母さんの世界が変わることでいったいどうなると思う? 想像出来る? 会ったことのないやつが、おれたちの守る聖域に土足で踏み込んで、挙句、母さんを奪い去る――そのことでいったい誰が悲しむのかを、おれは、考えた」
「わたしは別に……。母さんが幸せなら全然――」
言って晴子は考える。自分の母親のことを。いまもこうして、子どもたちが学校に行き、帰宅後に留守番を守り勉強をするさなかも、懸命に働いてるだろうあの母親のことを。
いつも、母は、やさしかった。
父に苛立たされる場面はあったが、どんなときも、晴子を守ってくれた。
本音を言うと――複雑だ。母親の幸せを望む一方で、せっかく一年かけて作り上げたこの安定した三人での生活を。リズムを。足並みを――踏みにじられたくないという我が儘な自己も存在する。
「ほら。それだよ」晴子の胸中を見抜いたように弟が言う。次第に晴子に接近し、「姉さんの考えてることなんか、ぼくはお見通しなんだ。きっと石田の登場で姉さんが将来的に、どんな悩みを抱くだろうか――そこまで考えておれは動いている」
「でも。それは、わたしがどうにかするべき問題で。強制的に、母さんと、石田さんを引き離す権利は、わたしたちには、ないわ。ひとを好きになる気持ちは、誰にも止められないもの――」
「ここまで言っているのに、まだ、あんたは、気づかないのか」
すぐ傍にまで迫った弟が、本棚に手をつき、空いているほうの手で、晴子の顎先を持ち上げ、
「――好きだよ」
信じられない感触が、与えられていた。
うるおいが。想いが。強さが、胸に、迫る。
ややかさついたなまあたたかい、初めて味わう弟のその感触が、重ねられている。
すこし、離れたと思いきや、弟は顔を先ほどとは反対に傾け、
「――キスするときは、目を瞑るって知らねえのかよ……晴ちゃん」
呆れたように言う弟に、また、呼吸を奪われる。
やがて、その手が晴子の耳を塞ぎ、まるで晴子が宝物のように、晴子の感触を奪っていく。
音を立て、やわらかく吸い上げ、また――封じる。
子どものような、遊び。けれど行為はあくまで本格的であり――顎を上下させ、何度も、弟が、晴子を味わいこむ。その巧みな手腕に、晴子は、わななく。
理性という理性が失墜していくのを感じる。与えられた恍惚の只中で、晴子の感じたことのない、官能が、芽生えだす。
自分は、なにを、見守っているのだろう。やりたいようにされて、したいようにされて。それも、『晴子』のためだという大義名分で。
気がつけば、晴子は泣きじゃくっていた。
「ひど、い……智ちゃん。わたし……初めて、なのに――馬鹿ぁっ!」
思い切り、弟を突き飛ばした。なんだか弟は泣きそうな顔をしていた。そんな権利など、ないはずなのに。泣くべきなのはこっちだ。
「……姉さん」
「わたし! 許さないから! 智ちゃんのこと! ――大っ嫌い!」
弟の部屋を出て、自分の部屋に逃げ込むと鍵をかけ、ベッドに飛び乗り、わんわん泣いた。
あとから、あとから、涙があふれてくる。
赤ちゃんのときの、無垢な表情。お風呂のときに性器を見せつけてからかったときのこと。
テストでいい点を取って誇らしげにしていたあの顔。それから――いじめられて家に逃げ帰ったときのこと。
あのとき、晴子は、弟を抱き締めた。まさか、あの頃から既に、智樹は晴子に想いを寄せていたとでもいうのか?
いままで見てきた、どの現実を信じればいいのか、晴子には分からない。
ただ、確かなのは、自分は、混乱している――そのことだけだった。
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