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第11話 『春の風と旅人』
春の匂いが、猫又亭の暖簾をやわらかく揺らしていた。
マスターが豆を挽く音と、ふわりと広がるコーヒーの香り。
そしてどこからともなく聞こえる猫の鳴き声。いつもと変わらない、穏やかな時間。
その日、暖簾をくぐったのは、旅の途中らしい青年だった。
くたびれたコートに、肩には小さなリュック。髪に花びらを散らしたまま、彼は戸口で立ち尽くしていた。
「いらっしゃいませ」
マスターが穏やかに声をかける。
青年は少し戸惑いながら、深く頭を下げて席に着いた。
「……ここ、変わった店ですね」
「よく言われます」
そう返しながらマスターは湯を落とす。
店の隅では白い猫が毛づくろいをしている。その様子を見て、青年は少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「何になさいますか?」
「……お任せで。おすすめを」
マスターはふっと微笑む。初めて来た客がよく口にする台詞だ。
そしてカウンター越しに手を動かし、やがて湯気を立てるカップを置いた。
「本日のおすすめは、春摘みのブレンドです」
青年は一口飲んで、驚いたように目を見開いた。
「……あったかい」
「コーヒーですから」
マスターが冗談めかして言うと、青年は小さく首を振った。
「いや……体じゃなくて、心が。久しぶりです、こんな感覚」
マスターは静かにその言葉を受け止める。
猫又亭にやって来る人は、誰もが少なからず“何か”を抱えている。
それを本人が言葉にするかどうかは、別の話だ。
青年は、やがてぽつりと語り出した。
「僕は……旅をしてるんです。目的地は決まってなくて。
ただ、どこに行っても“自分の居場所”を見つけられなくて……。
だから、こうして彷徨ってるんです」
窓の外では、春風に桜の花びらが舞っていた。
マスターはカップを磨きながら、ゆっくりと言葉を返す。
「居場所というのは、見つけるものでもありますが……気づくものでもあります」
「気づく……?」
「はい。人や景色、あるいは一杯のコーヒーでも。ふと心が安らいだ時、その瞬間こそ居場所かもしれません」
青年は黙ってカップを見つめ、やがてふっと笑った。
「……なら、今この瞬間は、僕にとって居場所かもしれませんね」
その時、白猫が青年の膝の上に飛び乗った。
驚いて目を丸くしたが、猫は気にする様子もなく丸まり、心地よさそうに目を細める。
「……君にも認めてもらえたみたいですね」
マスターが微笑むと、青年もようやく笑顔を浮かべた。
やがてコーヒーを飲み干し、立ち上がる。
「そろそろ行きます。また、来てもいいですか?」
「もちろんです。猫又亭は、いつでもここにありますから」
青年は深く礼をして、春の光の中へと歩いていった。
残されたカウンターには、まだ温もりの残るカップと、ほんのりとした春の香り。
マスターはそれを片付けながら、窓の外を見やった。
桜の花びらが、風に乗って舞い散っていく。
「――居場所は、きっと見つかりますよ」
その声はもう聞こえてはいなかったが、どこかで旅を続ける青年の心に、そっと届いているに違いなかった。