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男は何も覚えていなかった。自分の名前も、年齢も、生まれも、どこから来たのか、今までどんな生活をしていたのか、何もかも。
ニックスは困惑して、彼の顔を凝視した。薄暗い部屋の中だというのに彼の姿が輝いて見えるのは、美しすぎる故か。ニックスはどきどきする胸を落ち着かせる努力をしながら、彼に確かめる。
「本当に、まったく何も覚えていないのか」
「えぇ……」
男は申し訳なさそうにうつむく。
名前がないのでは呼ぶ時に困る。ひとまず名前を付けてやろうとニックスは考え、すぐさま思い直した。そんなことをすれば、彼に情が沸いてしまうかもしれない。いつか記憶を取り戻した男が帰るべき場所へ戻ることになった時、あっさりと彼と別れられる自信がないと思うほどに、彼の面差しは失った恋人によく似ていたのだ。しかしそれならばむしろと、彼が全てを思い出すまでの間は自分の呼びたいように呼ばせてほしいと、矛盾した思いも頭をよぎる。
気づけばつい、ニックスは自分の思いに集中し、黙り込んでしまっていた。
その様子から、男はニックスが自分のことを迷惑がっていると思ったようだ。恐る恐るといった風に口を開く。
「あの、僕、出て行きます」
「何を言い出すんだ!」
ニックスは慌てた。何も覚えていないという赤子同然のこの男を、放り出せるわけがない。何しろこの美貌だ。あっという間に、悪い輩から目をつけられてしまうに決まっている。
「記憶が戻るまで、ここにいていい。いや、戻っても戻らなくても、いたいだけいてくれて構わない。ただ見ての通り、うちは貧しい。それでも良ければ、だが……」
後半声が小さくなってしまったニックスを見て、男はおずおずと笑う。
「ありがとう。よろしくお願いします。僕にできることは何でも手伝うから」
男が自分の提案を受け入れてくれたことが嬉しくて、ニックスの声は上ずる。
「そ、そうか。それなら、まずは君の名前を決めようか。そうだな……。例えば『エルク』なんていうのはどうだ?」
「どういう意味?」
真顔で訊ねられてニックスは照れる。
「俺たちの言葉で『輝く』っていう意味さ。いや、なんと言うか君は、俺の目にはきらきらと眩しくて輝いて見えるから、それで……」
「エルク……」
男は噛みしめるようにその言葉を舌の上で転がしていたが、ニックスを見て嬉しそうに微笑む。
「うん、素敵な響きだ。今から僕の名前は『エルク』だね。それで、あなたの名前は?」
「俺はニックス。よろしく、エルク」
「うん、よろしく。ニックス」
どちらからともなく差し出した手を互いに握り合い、にっこりと笑みを交わし合う。
こうして二人の暮らしが始まった。