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もう一つの地下神殿の入り口は、街の外に広がる耕作や牧畜には適さないために人が近づくことのない寂しい荒れ地にあって、殊更に陰気な雰囲気を纏った沼の只中にぽつんと浮かぶ小さな島に、古く歪な魔法で隠されているのだという。
ベルニージュとベルニージュの母、そしてキーチェカとゲフォード、ゲフォードに背負われたシイマはエベット・シルマニータの街を出て、不毛な荒れ地の呪わしい沼へと向かっていた。
魔法の煙を焚いて《熱病》から自らの身を隠しつつ、ここまでやって来たが、煙そのものが目印になるために、正確な位置まではばれないものの、むしろ熱病の矢は数多く放たれていた。
《熱病》がユカリを攫ったのち、しばらくして再び矢が降り注ぎ始めた。しかし、その矢の速度が落ちていることにベルニージュは気づいた。ユカリを抱えているためにまともに矢を放てないのかもしれない、と推測する。が、だからといって目で見て避けられる速度ではない。矢は無尽蔵に降り注いでいる。
しかし事実として誰も矢を受けることなくここまで逃げてこられた。運が良いのか、あるいはもしかしたら生き永らえる魔導書の奇跡のために避けることができているのかもしれない、とベルニージュは考える。
確かに一度街中でベルニージュは矢を受けたが、ほとんど完璧なまでに、機を測ったかのようにユカリが現れて助けてくれた。その時点で死なない運命だったがために、むしろ矢を受けることになってしまったのではないか。あるいはそもそも生き永らえる魔導書がユカリを、もしくは病を癒す魔導書を引き寄せたのだということも考えられる。だとすれば世界の因果の法則にまで干渉しているのかもしれない魔導書の存在に畏怖を感じざるをえない。全ては、宇宙の果てに隠された真理が記された銘板を想像することしかできない、憐れな魔法使いの仮説に過ぎないが。
「沼?」
炭をまぶしたような真っ暗な荒れ地にベルニージュは目を凝らす。しかし眼前に広がるのは沼と浮島ではなく、焦げ臭い盆地とその真ん中にある小さな丘だった。
「ベルニージュのお母さんが蒸発させてしまったんだよ」とキーチェカは言って、足元を探り探り盆地を降りていく。
「船がなかったのです。泳ぐわけにもいきませんから」と事もなげにベルニージュの母は言った。
ベルニージュは心の中のわだかまりを表に出すつもりなどなかった。ベルニージュには、自分の母だと名乗るその女がこういう人物だという記憶はない。記憶にない初対面の人物としての記憶の蓄積さえ、時が経てば少しずつ薄れていくのだ。背嚢の中に蓄えた覚書に記されていることがベルニージュにとってのベルニージュの母の全てだ。思い出せないのは自分自身と父母、もしかしたら他にもいるかもしれない。
普通の記憶喪失でないことはユカリと出会うずっと前から分かっていたが、魔導書の力を使ってなお記憶が取り戻されなかったときに確信を持った。自分は魔導書のような神にも伍する存在に呪いを受けているのだと。
もはや水のない沼の底に全員が降り立った時、矢の雨が降りやんでいた。
「矢は射ち止めでしょうか。理由は分かりませんが、急ぎましょう」とベルニージュが声をかけ、一行は足を速め、まだわずかにぬかるんでいる沼底だった地面を進む。
「矢? 矢って何のこと?」と息を切らしながらキーチェカは言う。
「キーチェカさんには見えないんですか? 熱病がそのような姿かたちをとっているんです」とベルニージュは尋ねる。
「うん」キーチェカはシイマが落ちないように支えながら頷く。「もちろんみんなが空から降ってくる何かを避けていることは分かっていたけど。私には何も見えない。魔法使いじゃないからかな」
魔法使いだからなどということはないはずだ、とベルニージュは考える。魔法使いは生業であって素質ではない。しかしこの違いの原因を推測するにも材料が少ない。
キーチェカは何かを探すような視線を空に向けつつ言う。「その矢を放つ《熱病》ってどういう風に見えているの?」
「今ははるか上空にいるようで見えませんが、目の前に来れば人のように見えます。体が光を放っているし、巨躯だけど。それが矢を放って、当たった人間は熱病に侵されるというわけです」
キーチェカは小さな唸り声を上げる。
「なるほど。そしてそれを防ぐ術はあのユカリが持っていた羊皮紙しかないってわけだ」
夜は更け、一層その濃さを増す。水を失ってぬかるむ沼の底を半分ほど渡り切り、一行はかつて浮島だった丘を登る。シイマを背負うゲフォードが先頭を行き、キーチェカが後ろから支える。ベルニージュとベルニージュの母は後方と上空を警戒するが、矢が降ってくる様子はない。
「そうですね。それに」と言いかけてベルニージュはゲフォードに背負われたシイマの背中を見る。
この状況だ。あるいは魔導書を使ってシイマを若返らせるのも一つの手だろうか。とはいえ、無断でやるわけにもいかない。
そもそも《熱病》は女を無差別に攻撃していたが、最優先に狙っているのはシイマだ。そして《熱病》はゲフォードには決して矢を向けない。その事実とエベット・シルマニータに残る伝説、そして道中ベルニージュの母に聞いた地下神殿の手記がベルニージュの頭の中で一つの推測へと導く。
月の眷属である《熱病》が攻撃しない男がいるとすれば、それは月が惚れた相手、魔女の子しかいない。
一行が丘を登りきるとベルニージュは息切れするゲフォードに言った。
「魔女の子はゲフォード、あなたなんだね?」
驚いた様子を見せたのはキーチェカ、そして意識がはっきりしてきたらしいシイマだった。
「ゲフォード!?」シイマががばと起き上がり、ゲフォードごと倒れ掛かり、キーチェカがすんでのところで支える。「あんたが魔女の子大切な人なのかい!?」
シイマは見えない瞳でゲフォードことジェドを探すように虚ろをさまよわせる。その呼び声は恋人の名を呼ぶようだった。
「ああ、ずっと黙っていてすまない、シイマ」
その名を呼ぶ声は恋人への囁きだった。
シイマは小さく嗚咽を漏らしながら、ジェドの背中にすがりつく。
「生きているとは思わなかった」シイマは濡れた声で呟く。「店に来ていたなら、なんで名乗り出てくれなかったんだい?」
ジェドも震える声で答える。「地下神殿で、ずっと君の幸せを祈っていた。新月の時だけ君に会いに行ってたんだ」
「ああ、なるほど」と合点がいった様子でベルニージュの母は言った。「だからこの男はずっと帽巾で顔を半分覆っていたのですね。その魔的な容貌で女を魅了しないように」
ベルニージュは母の言葉の意味するところを察してジェドから目を背ける。
キーチェカは開いた口が塞がらないようだった。まさか幼い頃の朧げな思い出に出会った魔女の子が常連客だったとは想像だにしなかったからだろう。
「キーチェカにベルニージュもいるんだね? ジェド、いったいどこへ行こうとしているの?」シイマがジェドの背中を降りながら尋ねる。「どこへ連れて行こうというの?」
「五十年前のことを覚えているか? シイマ」とジェドは言う。「今また俺の過ちで熱病が再び街を蝕み始めた。地下神殿に逃げるんだ。そうすれば助かる」
「地下神殿? そうしてまたずっと地下に閉じこもっているつもり?」シイマはジェドから離れるように退く。「キーチェカ? どこだい?」
キーチェカはシイマの手を取って答える。「ここだよ。ばあちゃん」
シイマは孫娘を守り慈しんできた皴の深い両手でキーチェカの手を包む。
「ジェド。あんたのことは愛しているが、キーチェカを地下に閉じ込めるなんてつもりは、あたしにはないからね。あんたにだってそうして欲しくはないんだよ、ジェド」
そもそもジェドだけ先に地下神殿に戻って夜闇の神に祈りを捧げれば済む話だったのではないか、と考えたところだったベルニージュは反省する。
「それは、そうだろうが」ジェドはベルニージュやその母に目を向ける。「誰にも《熱病》を、ましてや月をどうにかすることなんてできない。いまはとにかく地下神殿に逃げ込んで凌ぐしかない。我が祖神ジェムティアンに祈りを捧げればひとまずは皆助かるのだから」
その通りだとベルニージュも心の中で同意する。他に月の理不尽な嫉妬を鎮められる方法はないはずだ。
「そうだ。それなら」とキーチェカが言いかけたその時、
「走れ!」とベルニージュの母が叫ぶ。
ジェドとキーチェカが無理やりシイマを地下神殿の入口へと連れて行く。ベルニージュとその母も後を追う。
天から一筋の光が丘の端に突き刺さるように降り立った。《熱病》だ。小脇にユカリを抱えてはいない。何とか解放されたらしいと分かる。しかし、グリュエーとともにここに向かっているのだとして、とても間に合わないだろう。
《熱病》がおもむろに不思議な輝きを秘める弓を構える。銀の箙から取り出した禍々しい矢を番え、弦をきりきりと引き絞り、狙いを定めたのはベルニージュだった。ベルニージュの母が間に立ちはだかる。
矢が放たれる、少し前、突風が吹き、旋風が巻き起こり、飛来した矢は風の中で掻き消える。羊皮紙が風の中で暴れていると思えば、柔らかな風に様変わりし、ベルニージュの母の手の中に魔導書が納まる。
声は聞こえないが、病を癒す魔導書を届けてくれたのはグリュエーだとベルニージュにも分かる。分かったと同時に風は止む。しかしユカリの姿はない。
「グリュエー?」と試しに呼びかけるが、応えない。声も聞こえず、風も感じない。
グリュエーだけが来た。この魔導書を届けるために、ユカリが送り出したのだ。しかし今こうして《熱病》がぴんぴんしているということは、魔導書で触れることにユカリは失敗した、あるいは触れたところで《熱病》自身をどうにかすることはできなかったということだ。
そして《熱病》はベルニージュたちの目の前にいる。だとすればユカリは今どこにいるのだ、とベルニージュは最悪の想像に導かれるように夜空を見上げるが、ベルニージュの母が視界を遮るように背中を見せる。
「今、目の前の危機から目を逸らす余裕はありませんよ、ベルニージュさん。さあ、先を急ぎなさい。あの入口は広い。母上が防ぎきれるとは限りません」
全くその通りだということを頭の内では分かっていたが、いても立ってもいられない焦燥感がベルニージュの喉の奥に詰まっている。足がもつれる。
「自分を過大評価しているのか、ユカリさんを過小評価しているのか知りませんが、彼女は貴女に心配されるようなたまではありませんよ、ベルニージュさん」
「分かってるよ、そんなこと」枯れた喉を絞り出すようにベルニージュは言う。「母上に言われなくたって」
ベルニージュもキーチェカたちの後を追う。丘の真ん中には小さな祠だったのかもしれない瓦礫の山があり、その中心にはぽっかりと穴が開いていて、中は螺旋階段になっていた。底の方では何かがぼうっと光っている。ジェドとキーチェカ、そしてシイマが螺旋階段を降りてゆくのが見える。
ベルニージュは母の方を振り返る。母はゆっくりと後ずさりしている。そして母の魔法によって羊皮紙が生き物のように宙を動き回り、《熱病》の矢を正確に全て防いでいる。
ともかく病を癒す魔導書さえあれば、弓矢は恐るるに足りないことはもう間違いない。
「何をぐずぐずしているのですか? ベルニージュさん。早くなさい」
「母上こそ。もっと早く歩けばどうなの?」
その時、轟音とともに何かが落下してきて、辺りの土を吹き飛ばした。ベルニージュを守るようにベルニージュの母が覆いかぶさる。
次から次へと何なんだ、とベルニージュは世を呪うように吐き捨てる。
何かが夜空の星々を隠す。大きな壁のようなものが何度か開いて閉じる。それはとても大きな翅の羽ばたきだった。蛾の怪物となったサクリフだ。サクリフの体は前よりもずっと大きくなっている。
「母上。大丈夫ですか?」とベルニージュは抱きかかえた母を労わる。
「何事かと思えば魔女の牢獄の怪物ですか。とにかくベルニージュさんは早く地下へ行きなさい」
「でも母上はどうするの?」とベルニージュは問いかける。
サクリフは《熱病》を威嚇するように翅を広げるが、しかし《熱病》はまるで意に介さず、ベルニージュを狙って矢を引き絞る。
「ああ、もう。じれったい」ベルニージュの母は突如振り返ると、ベルニージュを何かの魔法とともに突き飛ばした
そのベルニージュの母に覆いかぶさるようにサクリフの巨体がのしかかるのを目にしながら、ベルニージュはゆっくりと螺旋階段の中心を落ちていく。
「母上!」という自身の叫びさえ、サクリフが何かを殴りつけるような音で聞こえない。ベルニージュの母が答える声も聞こえない。
螺旋階段を真っすぐに、母の魔法でゆっくりと落ちながらベルニージュは丸い夜空を見上げる。
丸い夜空の中でサクリフの翅が時折見える。《熱病》と対峙し、その矢を無数に受けているが、まるで意に介していない様子だ。怪物ゆえにか魔導書が憑依しているゆえにかは分からない。
サクリフと《熱病》は取っ組み合っているらしいが、戦意や殺意、あるいはそれらに基づく死を退ける魔導書がサクリフに宿っている限り、争いというものは永遠に決着がつかないはずだ。どちらかが事故死する可能性はあるのだろうか。
その時、サクリフの隙を突いたのか《熱病》が姿を見せ、穴の底へと矢を放った。それは再びベルニージュを射抜く。次いで放たれた矢はベルニージュを素通りし、底の方へ吸い込まれていった。
急速に高熱に見舞われ、意識が遠退く。病を退ける魔導書はベルニージュの母に預けたままだ。距離が開くにつれ、熱は上がっていく。一方生き永らえる魔導書によって生は維持される。このまま永遠の苦しみを味わうことになるのか、という考えが意識に登った時、冷たい石の床の底にたどりついた。
何とか視界を巡らせるとキーチェカもまた倒れているのが見える。脂汗を流し苦悶の表情を浮かべている。シイマとジェドは地上からの死角にいたのか無事なようだ。
そこへキーチェカばかりを狙って矢が降り注ぐ。シイマを誘い出そうというのだ。このままでは《熱病》の思うつぼだが、ベルニージュの唇はただ震えるだけで言葉が出ない。愛する孫娘の悲痛なうめき声を聞いて、キーチェカの名を叫びながらシイマが死角から飛び出した。ほとんど同時に飛びかかるようにジェドがシイマに覆いかぶさり、代わりに矢の雨を受け止めた。
ベルニージュの薄れゆく意識、霞む視界の中、ジェドの体で隠し切れなかったシイマの手に熱病の矢が突き刺さった。