ユカリはなすすべもなく落下する。確かに恐怖を感じているはずだが泣いたり叫んだりする気にはなれなかった。ただひたすらにグリュエーが戻ってくるのを祈る。
少年が全力で引っ張って、ほんの少しだけ落下速度は下がっているのかもしれないが、今なお冥府にまで突っ込みかねない勢いで落ちている。
《熱病》に運びあげられた最高到達点から地上までおおよそ半分のところまで落下して、なおグリュエーはユカリのもとに戻って来なかった。地上目掛けて落ちる小さな隕石のように、その衣服を仄明るく光らせながら、魔法少女ユカリは落ちていく。
「風さん。いますか? グリュエーじゃなくてもいいんですけど」とユカリは【話しかける】。
「いるよ? どうかした?」と名も無き風が答える。
「助けてくれませんか?」
「いいよ。何をすればいい?」
「私を浮かせて欲しいんです。せめて落下速度を殺してくださると助かるんですけど」
「人を浮かせる? ただの風だからねえ、僕。そんなの無理だなあ」
事態の深刻さなどどこ吹く風であっけらかんと答える。
「そうですよね。普通は無理ですよね。すみません」涙が出てもすぐに乾いてしまうが、ユカリは目を拭う。そして冷たい空気を大きく息を吸って叫ぶ。「グリュエー! 助けて!」
しかしユカリの大声は己の体を打ち付けるような空気の流れに遮られて、地上の誰にも届かない。ただ夜空に座する女王の如き月のみが、街から昇る嘆き悲しみの一つとして聞き届け、細く鋭い面を輝かせていた。
ユカリは夜空を見上げ、月を睨みつけて【吠える】。「これで勝ったと思うなよ!」
月は黙って微笑みを浮かべるばかりだ。
街が迫る。星々のような地上の街灯りがユカリのもとへ落ちてくる。死が今か今かと祝福の言葉を携えて待ち兼ねている。
ユカリはただ幼い頃から祈りを捧げてきた月を除くあらゆる神々に慈悲を願い、そして取り分け風の加護を信じた。死ぬつもりなどないからだ。
その時、手足が千切れるのではないかというほどの強烈な風が吹き、ユカリの体が減速していく。
グリュエーの風だ。強く烈しく、今はとても冷たいが、優しい。
勢いは殺されるが、地上は迫りくる。無慈悲で不愛想な石畳が腕を広げて待っている。
「ああ、ごめん。ちょっと間に合わないかも」とグリュエーは屈託なく言った。
「もうちょっと頑張って!」とユカリは悲鳴をあげる。
いよいよの時に風はさらに強力に斜めに吹きあげ、ユカリを少し持ち上げる。放り投げられるようにしてユカリの体は放物線を描いた。そうして背丈の高さから落ちて石畳の上を転がり、狭い通りの奥へと投げ出される。ユカリの魂はまだ地上に留まっていた。死は悔しそうに舌打ちをして遠のき、通りかかった幸いが微笑みかけて寿ぐ。
「グリュエー! 戻ってきてくれたんだね!?」とユカリは抱きしめるように全身で風を感じる。
「戻ってきたというか、助けを願っていたからやってきたんだよ。大丈夫?」
「どっちでも同じだよ。大丈夫。ありがとう」
「ユカリ! 誰と話してるの!?」とグリュエーが怒鳴る。
ユカリはきょとんとして答える。「誰って、グリュエーだけど?」
「グリュエーはこっちだよ!」
「こっちと言われても」
ユカリは夜の通りの真ん中で地べたに座りながら暗闇に首を巡らせる。グリュエーが方々から吹きつけるが、風がいる場所など分からない。風がいる場所、ということをどのように考えればいいのかも分からない。
「つまり、グリュエーではない風が助けてくれたってこと?」とユカリはグリュエーがグリュエーではないと主張する風の方に話しかける。
「グリュエーもグリュエーだよ」とグリュエーは答えた。
「グリュエーもグリュエーだって言ってるけど」とユカリはグリュエーに返す。
「なんだ。グリュエーなの? グリュエー以外にもグリュエーがいたんだ?」
それで納得してしまうのか、とユカリは心の中で呟く。
「グリュエーもグリュエー以外にグリュエーがいるなんて知らなかった」
「えっと、じゃあグリュエーじゃない方のグリュエーは初めましてだね。ユカリといいます。よろしく」
「谷間を吹き抜ける緑風、遥か北方より来る者、思慕と喜びを歌う風、救いをもたらす者の名を背負う者」
「久しぶりに聞いたよ、その名乗り。それじゃあ、グリュエーがここ最近ずっと存在を感じ取っていたのはもう一人のグリュエーってこと? 一体グリュエーって何なの? ただの風じゃないよね?」
「グリュエーは……」
「ちょっと待って」とユカリは制止する。
ユカリの視線の先、大通りの方で人々が、男も女も道を行き来している。ユカリは立ち上がって、路地を抜け、広い通りに出る。皆が皆、混乱しつつも安堵している様子だ。熱病に伏せた者を看護したり、運んだりする者が見当たらない。
「熱病、どうにか出来たんだ。グリュエーが魔導書をベルニージュに届けてくれたんだよね。どうやったの?」
「ただ行って渡して取って返しただけだよ。中々届かなくて苦労した」
「どういうこと? あ! そういえば射程があったね。え? じゃあ何? 射程が届くまで、私が高度を下げるまでずっと待ってたってこと?」
ユカリは空中を睨みつける。
「じゃなきゃ届かないもの」
「信じられないよ、グリュエー。本当に怖かったんだからね」
「でも信じて待っていてくれたんだよね」
「それはそうだけど……。いや、間に合わなかったでしょ! グリュエーが来なかったから、グリュエーじゃないグリュエーが助けてくれたんだよ。グリュエーじゃないグリュエーが来なかったらグリュエーが戻ってくる前に死んでたんだからね」
「グリュエーじゃないグリュエーもグリュエーだよ」とグリュエーはあっけらかんと言う。
「都合が良いなあ。まあ、とにかく地下神殿に急ごう、グリュエー」ユカリは地下神殿のもう一つの入り口のある荒れ地の沼の方角を見上げる。「もう一人のグリュエーはついてきてくれるの?」
「グリュエーの使命は魔法少女を運ぶことだから。もちろんついていくよ」
「グリュエーじゃなくてグリュエーに聞いてるんだよ」
「グリュエーが答えてるけど」
ユカリは一度黙り、しばらくして風に声をかける。「グリュエー?」
「なあに?」とグリュエーだけが答えた。
いつの間にかグリュエーが一人しかいない。ユカリは怪訝な面持ちを隠そうともせず、しかしいま考えたところで分からない問題はいま考えないことにした。
そうだ、と思い出して少年もまた姿を消していることに気づく。今となってはその正体が分かる。少年は、魔女が《熱病》対策に生み出した存在だと言っていた。だとすれば彼こそが魔女の爪痕の一つ、デノクの要塞に蔓延った流行病の正体だろう。魔女は病でもって病を制しようとしたのかもしれない。そして魔導書が熱病に効いて《熱病》に効かなかった理由も何となく分かってくる。病を癒す奇跡の魔導書は人から病を遠ざけるだけで、病そのものを消滅させることは出来ないということだろう。
「とりあえず、地下神殿へ急ぐよ、グリュエー。手伝って」
「任せて」
ユカリは人目を気にして一度路地へ戻る。グリュエーが強烈な風でユカリを巻き上げる。一瞬の内に高い屋根を越えて、板葺きの屋根を何枚か剥がし、この街のどの塔よりも高い空へ飛びあがった。
「グリュエーグリュエー! こんなに高く飛ばせたの!?」
「急ぐんだから全力の方が良いでしょ?」
「じゃあ、つまり強くなったってこと?」
もう一人のグリュエーがどこに消えたのか分かった。
「そうかもしれないけど、分かんない。ごめんね」
グリュエーが申し訳なさそうに言ってユカリは少し心が痛んだ。何だからしくない。何か大きな変化が起きたらしい。
「いいよ。これなら早く沼に到着できるからね」
「ユカリが喜んでくれるなら良かったよ」
グリュエーのらしくない答えを吹き飛ばすようにユカリは叫ぶ。「むしろ最高! もっともっと飛ばして!」