田中の声に、俺は少しだけ達成感を感じた。
こんな俺でも、ちゃんと進められている。
ビターなエスプレッソショコラケーキ。
上手く作れるようになって、尊さんが喜んでくれたら嬉しいな、なんて考えていた。
溶けたチョコレートに、常温に戻したバターを加えて混ぜる。
チョコレートの熱でバターがみるみるうちに溶けていくのが面白かった。
次に卵黄を一つずつ加え、その都度よく混ぜる。
最初はぎこちなかった俺の手つきも、少しずつ様になってきたような気がした。
「次は粉類だ。薄力粉とココアパウダーをふるいにかけて入れろ」
田中が粉の入った袋を差し出す。
俺は茶こしのような道具に粉を入れ、トントンと軽く叩きながらボウルに落としていく。
ふわふわと舞うココアパウダーの香りが、さらに甘さを引き立てた。
「粉を入れたら、混ぜすぎんなよ。さっくりと、粉っぽさがなくなるまでだ」
田中の指示に従い、ゴムベラでボウルの中の生地を底からすくい上げるように混ぜる。
混ぜすぎると粘りが出てしまう、という田中の説明を思い出し、慎重に手を動かした。
「よし、最後はエスプレッソだ」
田中が淹れたばかりのエスプレッソを、小さなカップに入れて渡してくれた。
湯気と共に香る苦い匂いが、チョコレートの甘さと混ざり合う。
これを加えることで、まさに「大人なケーキ」になるのだろう。
エスプレッソを生地に混ぜ込むと、生地の色が一段と濃くなり
艶やかになった。
とろりとした生地を眺めながら、俺は思わず声を漏らした。
「なんか、もう美味しそう……」
「だろ?…よし、型に流し込むぞ」
田中はケーキ型にクッキングシートを敷いてくれていた。
俺はゴムベラで生地を丁寧に型へと流し込む。
ずっしりとした重みが、期待感を高めた。
「トントン、って軽く落として空気を抜け。それから、予熱しておいたオーブンに入れるからな」
言われた通りに型を軽く台に打ち付け、オーブンへと運ぶ。
熱気を帯びたオーブンの中に型を入れ、扉を閉めた。
タイマーをセットし、あとは待つだけだ。
焼き上がるまでの間、キッチンにはチョコレートとコーヒーの混ざり合った甘く香ばしい匂いが充満していた。
オーブンの窓から覗くと、生地が少しずつ膨らんでいくのが見える。
「ちゃんと膨らんでんな。焦げ付かないか、たまに見てやれよ」
田中はそう言いながら、使った道具を洗い始めてくれた。
しばらくすると、タイマーが鳴り響いた。
オーブンの扉を開けると、先ほどよりもさらに濃い色になったケーキが姿を現した。
竹串を刺して何もついてこないことを確認し、オーブンから取り出す。
熱気を帯びたケーキは、触れるとふわふわとした感触だった。
「熱いから気をつけろよ。粗熱が取れたら型から出して、完全に冷ますんだ」
田中の指示通り、ケーキを少し冷ましてから、型から外す。
見た目は完璧だ。表面はつやつやとしていて、焼き色も均一。
「あとは、粉砂糖でも振るか?」
田中が粉砂糖の入った容器を差し出す。
俺は茶こしでケーキの上に粉砂糖をまぶした。
白い雪が積もったように、ケーキがさらに美しくなった。
「よし、これで完成だ」
俺は完成したケーキをまじまじと見つめた。
まさか、こんなに本格的なケーキが俺にも作れるなんて。
「さ、切ってみるか」
田中がナイフを取り、ケーキを切り分ける。
断面はしっとりとしていて、チョコレートの濃い色が食欲をそそる。
一切れを皿に乗せ、フォークを添えてくれた。
「ほら、食ってみろ」
俺はフォークを手に取り、一口食べる。
濃厚なチョコレートの甘さと、エスプレッソのほろ苦さが口いっぱいに広がった。
しっとりとした食感で、まさに大人のチョコレートケーキと言った感じだ。
「……美味い」
思わず呟くと、田中が俺の顔を覗き込む。
「ちゃんと落ち着いてやれば出来るからな。お前も家で練習してみろよ」
田中の言葉に、俺は少し照れくさくなった。
彼が手伝ってくれたからこそ、ここまでできたのだ。
「うん、田中ありがと!って、そうだ、田中も食べてみなよ、すっごい美味いし…!!」
俺が促すと、田中も一切れ手に取り、口に運んだ。
彼の表情が、ゆっくりと変わっていく。
「……うん、美味いな。ビターな感じがちょうどいい。これなら、俺の彼女に作っても良さそうだな」
俺ももう一口、ケーキを味わった。
それは今まで食べたどんなケーキよりも美味しかった気さえする。
これなら尊さんも喜んでくれそうだ…。
田中のおかげで、俺はバレンタインに最高のプレゼントができるかもしれない。
そう思うと、心臓がドキドキと高鳴った。
尊さんの笑顔が目に浮かぶ。
このケーキを前日に作って冷やしておいて、会社に持ってって、尊さんに渡そう。
きっと、喜んでくれるよね。
俺はそう願いながら、残りのケーキを大切に食べ続けた。
◆◇◆◇
「雪白、そろそろ帰るか?」
田中にそう問いかけられ、俺はハッと我に帰る。
「あ、うん。そうだね、長居しちゃ悪いし」
俺は慌てて立ち上がり、帰り支度を始めた。
「あの、ありがとう、田中のおかげで本当に助かったよ」
田中に礼を言うと、彼はニヤリと笑った。
「いいってことよ。けど、ちゃんと練習しろよ?」
「うん、わかってるよ」
「明日までならちょっとぐらい付き合ってやるからさ」
「本当に?!」
「おう、喜びすぎだろw」
そんな会話をして、俺は田中と別れ家路につく。
今日は本当に楽しかった。
田中が優しく教えてくれて、自分でもこんなに上手くできたんだという達成感があった。
それに……尊さんに喜んでもらいたい気持ちが強くなった。
翌日
俺が一日のノルマを終えると、定時に席を立つと、尊さんが俺のデスクにやってきた。
「雪白、お疲れ。どうだ、この後空いてるか?」
「あっ主任、お疲れです!この後、ですか?…あー、すみません、ちょっと用事が…」
「用事?」
小声で話していると、いきなり後ろから田中が割って入ってきて
「雪白!早く行こーぜ」と遮られた。
「田中?」尊さんは驚いたように俺を見ている。
「あー、すみません。今日これから田中と一緒に飲みに行く約束してまして……」
俺は慌てて言い訳をする。
「……随分仲良いんだな」
尊さんの視線が鋭くなる。
「まあ、同期ですし……」
「そういうわけで、俺と雪白はこれから親睦深めなきゃならんので失礼します!」
田中は笑いながら尊さんを押しのけ、俺の腕を引っ張って出口へ向かう。
「ちょ、田中!……すみません主任!また明日!」
俺は尊さんに謝りつつも田中に連れられて会社を出た。
「ちょっと!田中ってば!」
社内を出て廊下に出ると俺は小声で文句を言った。
「悪い悪い」田中はケラケラと笑いながら謝る。
「主任に怪しまれたらどーすんの!」
俺が睨むと、田中は肩をすくめる。
「え?なんか問題あるのか?」
「いや、無い、けど…」
言いかけて、俺は口籠る。
────…
バレンタイン前日
俺は尊さんに渡すための手作りチョコを作るべくキッチンに立っていた。
田中に指導してもらった通りにエスプレッソショコラケーキを作っていく。
田中の指導のおかげなのか前回のように失敗することなくスムーズに仕上げていくことができた。
「で、できた……!」
俺は完成したケーキを見て目を輝かせる。
見た目は完璧だし、香りもすごくいい。
あとはこのまま冷蔵庫で一晩寝かせて明日の朝には食べられる状態になっているはず。
「よしっ……」
俺は小さく拳を握って気合いを入れる。
明日は尊さんに喜んでもらうんだ……!
◆◇◆◇
そして迎えたバレンタイン当日の朝
俺はいつもより少し早起きをしてキッチンへ向かった。
冷蔵庫からケーキを取り出すと、昨日よりさらに色鮮やかに見える。
「おいしそう……」
思わずつぶやいてしまう。
俺は丁寧に箱詰めして、保冷剤を入れた保冷バッグにチョコを詰めて、会社へ行く準備をした。
今日はバレンタインデー。
会社で俺たちが付き合っていることな内緒だし
渡すなら退社してからだ。
尊さんへのプレゼントを持っていくのは緊張するけれど、それでも渡したいと思ったから頑張って作ってきた。
(絶対喜んでもらわないと…!)
会社に着くと、俺はまずロッカー室へ行って荷物を置いてからデスクに向かいパソコンを立ち上げると
「雪白!おはよう」
田中が声をかけてきて俺は振り向いた。
「あっ、田中おはよ」
「どうだ?ケーキの調子は。うまくいったか?」
「おかげさまでね」