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◇ ◇ ◇ ◇ ◇
水曜日、将嗣が迎えに来て私と美優の三人で弁護士さんの事務所に到着する。
会議室のような小さな個室に通されソファーに腰を下ろし、弁護士さんと向かい合わせになると少し緊張した。
弁護士さんの説明によると認知届自体は母親の同意が無くても届けが提出できるそうだ。
その話を聞いて驚いた。
世の中の色々なケースがある中で、勝手に提出する事もできるのは怖いことでは?
知らない間に遺産問題など、新たなトラブルが降りかかる可能性だってある。
取り敢えず円滑に話が進んだ自分のケースは幸せなんだろうなと思った。
勝手に提出できるという事は、私が同席しなくても認知届を提出する事ができるという事だ。同席したのは何故なんだろうと思っていると弁護士さんから書類を渡された。その書類には、毎月の養育費や将嗣に万が一の場合に相続権が発生するという内容が記載されている。
まさか、ここまでしてもらえるとは思っていなかった。驚いて、将嗣を見ると彼は、真剣な眼差しで私を見て頷いた。
将嗣に相談せずにシングルマザーになる事を決めた時点で何かしてもらおうとは思っていなかった。
勝手に産んで迷惑だと思う男性も多い中、誠意ある対応を見せられ、将嗣の美優に対しての想いの深さを感じ、サインする時に少し瞳が潤んだ。
「美優ちゃんを抱かせてくれる?」
一通りの手続きが終わり弁護士事務所を出る時に将嗣から手を差出された。
その差し出された腕に迷うことなく美優を預けた。将嗣は満面の笑みを浮かべて美優を抱き寄せる。
「美優ちゃん、パパだよ」
手続きを終えて法律上でも将嗣は美優のパパになったのだ。
美優のこれからの人生の責任を自らの意思で背負ってくれた。
「将嗣、ありがとう。ごめん」
「いや、夏希には苦労を掛けてすまなかった。これからは美優ちゃんのパパとして頑張るからな」
そう言われて複雑な心境になった。
将嗣の言っている事は、間違っていない。美優の父親として、誠実に対応している。
私は、美優の母親として美優の幸せのために行動しているのだろうか?
帰りの車の中で美優をあやしていると将嗣に提案される。
「ウチでお祝いしようよ。それぐらい付き合ってくれるだろう?」
「そうだね。新米パパさん」
将嗣と美優の時間を作るのも美優のために出来る事なのかなと思った。
「じゃあ、松の葉寿司で出前でも取るか」
「お祝いだから?」
「そう、お祝いだよ」
嬉しそうに笑う将嗣を見ていると恋人だった頃を思いだす。
食いしん坊な私のために美味しいお店を調べて連れて行ってくれたり、楽しい時間を過ごすために色々工夫してくれた人だった。
二人で軽口をたたきながらいつも笑っていたこともあった。あの時、将嗣が既婚者でなかったら別れることもなくこうして親子三人で楽しい家庭を築いていたかも知れない。
過ぎ去ってしまった時間は戻せないけれど、楽しかった過去を思い出し切なくなった。
「乾杯!」
ふたりでグラスを鳴らした。
とはいえ、帰りの事も考えてノンアルコールビールで気分だけのもの。もちろん、将嗣のおごりで出前の特上寿司を頬張った。
子供を産んでからめっきり外食をしなくなってしまった。外食だと料理が出て来るまでの待ち時間や食べている間など、ジッとしていない乳幼児。退屈で騒ぎ立て廻りに迷惑をかけるのではないかとハラハラするぐらいなら、家でのんびりご飯を食べる方が気楽でいいからだ。
今も美優は、ジッとしている事が出来ずにつかまり立ちをしている。そして、ご機嫌な笑顔を浮かべ、オモチャを掴んで自慢げに持ち上げている。
いつの間にか、将嗣の家には、子供用のオモチャが増えていた。
「こんなに買ったの?」
「いやー、見るとつい買っちゃうよね。子供の物を買うのがこんなに楽しいとは思わなかったよ」
「子供なんて直ぐに大きくなっちゃうから使う期間短いし、もったいないよ」
「親バカだと思って見逃して、気に入ったの持って帰ればいいし」
「うん、ありがとう。パパさん」
美優のために心を尽くしている将嗣に素直に感謝の言葉が出た。
食事も終わり夜も更けて来たので、将嗣に車で家まで送ってもらう。短い距離のドライブ。窓の外は見慣れた街並みが流れていく。
自宅アパート前に到着し、車から降り立つとマザースバックを肩から下げて、美優が座る反対側のドアに回った。
美優の様子を伺うとチャイルドシートの上で気持ち良さそうにスヤスヤと眠っていた。「ふふ、可愛い」私が小さく呟くと将嗣も運転席から降りてその様子を見に来くる。二人並んで美優の寝顔を眺めた。可愛いらしい寝顔に見ているこちらの顔がほころんだ。
「今日は、ありがとう。また、今度」
「夏希、ありがとう。実家に行くのもOKしてくれてウチの親も喜ぶよ」
「うん、おやすみ」と言って顔を上げると将嗣の腕に抱きしめられ、頬と頬が触れる。
将嗣が顔の角度をかえ唇がかすめた。でも、それ以上触れる事なく、将嗣は私から少し離れて「おやすみ」と微笑みを浮かべる。
そして、美優をチャイルドシートから降ろし、軽く抱きしめてから私の腕に渡し、もう一度「おやすみ」と呟いた。
将嗣は車に乗り込むと直ぐにエンジンを掛かけ、発進させた。段々とテールランプが小さくなってく、私は、そのランプを見つめながら少しの切なさを感じていた。
玄関のドアを閉めると、ドッと疲れが押し寄せる。
遊び疲れて眠った美優をベッドに寝かせ寝顔を眺めていると複雑な思いに駆られた。
耳や目の部分が、父親である将嗣に似ている……。
常識や血のつながりの大切さ。
それに将嗣の過去の過ちを償うような対応、優しさ。
美優の母親としてこの先どうしたらいいのか……。