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「最初の試練、千本扇の勝負を始める。会場へ行くぞ!」
その言葉を皮切りに、隊員たちはざわざわと立ち上がり、広場の奥にある試練の会場へと足を進めていく。
その流れの中、冥央はふと振り返り、静かに告げる。
「瑛斗、桜香殿たちの案内は任せるぞ。」
「はい!」
瑛斗はピシッと返事をし咲莉那たちの元へ向き「こっちです。」と促した。
会場へ向かう途中、瑛斗は咲莉那に小声で話しかけられた。
「千本扇の勝負の内容、教えてくれる?」
「はい。千本の扇の中から、たった一つの『影印』が刻まれた扇を見つけ出すものです。参加者が順番に扇を開いていって、影印を探します。勝者には、優先座席に座れるなどの特典が与えられます」
説明を終えると、咲莉那は柔らかく微笑んだ。
「私のいた頃と変わってないんだね……ありがと」
瑛斗たちが広場を抜け、石畳の回廊を進むと、そこには既に多くの団員たちが集まり、ざわざわとした熱気が満ちていた。
広場の中央には、ずらりと並べられた**千本の扇**。どれも同じような形に見えるが、その中にひとつだけ「影印」が刻まれた扇が紛れている。
壇上に上がった冥央が、静かに腕を広げると、全体のざわめきがぴたりと止んだ。
「これより、最初の試練――**千本扇の勝負**を開始する!」
声と同時に、太鼓の音が低く鳴り響く。
「この中に、一つだけ影印を刻んだ扇がある。選ばれし者は、己の直感と眼を信じ、それを見つけ出せ。扇を開くことが許されるのは一人一回。運か、勘か、それとも何かを読む力か……」
冥央が目を細めながら全体を見渡し、静かに言葉を締めくくる。
「――さあ、見せてもらおう。白華楼の“目”の力をな」
その瞬間、空気が震えたような感覚が走り、隊員たちの表情に緊張と興奮が交差する。
瑛斗も思わず息を呑む。
(千本の中から、たった一本……!)
そして、最初の挑戦者が静かに扇の列へと歩を進めた――。
最初に歩を進めたのは、**鋭士(えいじ)**。
白華楼の中でも屈指の観察眼を持ち、誰よりも早く影を見抜くと噂される先輩だった。
「……やれやれ、今年も一番手か」
篠山鋭士は肩をすくめると、堂々と扇の列へと足を進める。
ざわめいていた隊員たちは静まり返り、彼の一挙手一投足に注目が集まる。
鋭士は迷いなく一本の扇を手に取ると、ふっと息を吐き、ゆっくりと開いた。
……だが、そこに影印はなかった。
一瞬、静寂。
「ちっ、今年もダメだったか」
本人は肩をすくめて戻ってきたが、周囲はどっと笑いと安堵の空気に包まれる。
「さすが鋭士先輩、外してくれて助かりました!」
「これで少し肩の力が抜けたかも!」
空気が和らいだことで、次の挑戦者の緊張もほんの少しほぐれていく。
次の挑戦者がそっと扇に手を伸ばし、静かに開いた。
……だが、影印はない。
ほんの一瞬、唇を噛むようにして悔しさを滲ませたが、すぐに仲間に肩を叩かれ、苦笑いを浮かべて列へ戻っていく。
また一人。さらに一人。
扇を開くたびに、空気が少しずつ張り詰めていく。
「……くそっ、違った」
「気にすんな、あと900本あるって」
失敗した者に、別の誰かが明るく声をかける。
悔しさ、励まし、焦り、希望――その全てが千本扇の間を静かに満たしていた。
列から一人の隊員が歩み出た。名は奏。普段は寡黙で落ち着いた雰囲気の彼が、この瞬間は珍しく強い目をしていた。
「……これだ!」
扇列の中から、彼はまるで導かれるように一本の扇を抜き取る。息を吸い込み、勢いよく開いた――
……が、扇の表には、影印はなかった。
「うそ……」
かすかにつぶやいた言葉に、彼自身がもっとも驚いていた。
静まり返る空気。咲莉那がふと視線を下げ、火楽がそっと手を合わせるように目を閉じた。
「運命、ちょっと意地悪ですね」誰かが小さく笑った。
奏は一瞬その場に立ち尽くしたが、やがて黙って頭を下げ、列へと戻っていった――
影印を見つけようとする挑戦者たちが、次々と扇を開いては肩を落とし、また次の者が歩み出る。
その様子を静かに見つめていた咲莉那は、ふっと目を細めた。
「変わらないね、この空気……」
「張り詰めてるようでいて、どこか祭の始まりみたいにざわついてる」
火楽が小さく笑って応じる。
「皆、“最初の試練”には慣れていても、“千本扇”にはいつだって緊張しますから」
「うん……わたしも、初めて参加した時は手が震えたよ」
咲莉那の声は懐かしさににじんでいた。
隣でそのやり取りを聞いていた瑛斗は、そっと目を向ける。
二人とも落ち着いた様子で笑っているが、そこには確かな“経験”と“誇り”が感じられた。
(あの人たちも、ここを通ってきたんだ――)
その思いが、胸の奥でじんわりと熱を灯す。
――影印はまだ、見つからない。
挑戦者たちは次第に少なくなり、扇の前にはもう静けさしか残されていなかった。
「残り……あと百十七本か」
誰かのつぶやきが、張り詰めた空気に落ちるように響く。
その瞬間、瑛斗がゆっくりと息を吸い込んだ。
「……俺も、行ってみよう」
その言葉は誰に向けたわけでもなかった。
けれど隣にいた咲莉那が、ふと目を細めて頷いた。
「うん。……行ってらっしゃい」
足音をひとつ。
その一歩が、静かな試練に風を呼び込んだ。
瑛斗はゆっくりと歩み出した。
残り、百数本。
影印はまだ見つかっていない。
扇の列の前に立つと、思わず息をのんだ。
端から端まで、形も色もほとんど同じ扇たち。けれど、一本だけが違う。
(本当に見つけられるのか……)
目の前の並びを、何度も視線で往復する。伸ばしかけた手を引っ込める、その繰り返し。
(咲莉那さんの……無実を証明するために、俺は白華楼に入った)
(火楽様も、咲莉那さんも……俺のことを信じてくれてる)
目の前に並ぶ扇を見つめる。誰もが落とした視線の、その先。まだ影印は見つかっていない。
(だったら……ここで俺が、何かを掴まなきゃ)
震える指先を押さえるように、そっと拳を握りしめる。
(この手で一歩でも、近づくんだ)
そう思った瞬間、不思議と空気が澄んだような気がした。
気づけば、一本の扇の前に立っていた。
「これだ……」
瑛斗はその扇を手に取り、静かに開いた――
……あった。
扇の中心――黒墨のような影が、くっきりと浮かび上がる。
一瞬、誰も息をしていなかった。
風が止まり、会場全体が時を忘れたように静まり返る。
「影印……!」
誰かの小さな声が、その沈黙を破った。
すぐに歓声が爆ぜた。
「見つけたのか!?」
「すげぇ……マジで!?」
扇を見つめたまま、瑛斗は言葉を失っていた。
(……俺が、やったんだ)
(咲莉那さんの、火楽の、そして俺自身の……信じてくれた気持ちを背負って)
手の中の扇は、少しだけ熱を帯びているように感じられた。
それはきっと、白華楼の“誇り”がここにあることを教えてくれる、確かな証だった。
──静かに、冥央が拍手を送った。
「見事だ、瑛斗」
声は低く、だが力強かった。
「君の“目”が、白華楼に新たな風を吹かせてくれたな」
「すげぇ……本当に当てたんだ!」
誰かの声とともに、数人の隊員たちが駆け寄ってきた。
「瑛斗、よくやったな!」
「まさかお前が影印を見つけるとは……やるじゃん!」
肩を叩かれ、笑顔を向けられ、瑛斗は照れくさそうに笑った。
それでも、その手にある扇を見つめる瞳は揺るがない。
場の空気は、祝福と高揚感に包まれていた。
千の扇の中から選ばれた一本。それを引き当てたのは、信じた心と、人の想いを背負って歩いた一歩。
そうして瑛斗の名は、今日、静かに白華楼に刻まれたのだった。
冥央は壇上からゆっくりと降り、瑛斗の前で微笑んだ。
「瑛斗君には、優先座席に座る権利を与えよう。これから二日間にわたる勝負……特等席で、存分に楽しむといい」
「え……僕が、そんな……」
戸惑う瑛斗に、冥央は穏やかに首を振った。
「これは実力で勝ち取ったものだよ。誰も異論はないさ」
団員たちから再び拍手と歓声が巻き起こる中、瑛斗はゆっくりと頷いた。
(……この席で、見届けよう。咲莉那さんの、火楽様の、その先のすべてを)
冥央が最後にもう一度、広場を見渡した。
満足そうに微笑むと、静かに声を響かせる。
「さあ、明日は試練二日目だ」
「明日に備え、各自、部屋でしっかり休むように」
少しだけ間をおいて、冥央は手をひと振りした。
「――では…解散!」
その言葉と同時に、場の空気が和らぎ、隊員たちはそれぞれの部屋へと戻っていった。
今日の出来事を胸に、明日への思いを秘めながら――。
白華楼の宿舎の一角。障子越しに月の光が射し込む静かな和室。
咲莉那は窓際に腰を下ろし、外の夜風に髪を揺らしていた。
隣には、火楽。湯上がりの湯気がまだ肩に残るような気配で、湯呑を手にして座っている。
突然、咲莉那が立ち上がり、部屋を出ていこうとした。
「主様、どこに行かれるのですか?」
火楽が聞いてきた。
「瑛斗も頑張ってくれてるし、私もと思ってね」
そう言って咲莉那は部屋を後にした。
真っ暗な廊下に一匹の狐が歩いていた。
(さて、どこが怪しいかな…)
自身の術で狐に変化していた咲莉那は廊下を歩きながら、辺りを見渡していた。
気配を察知した咲莉那はすぐ物陰に隠れた。
すると、人影が廊下を曲がっていくのが見えた。
(確かあの方向には最高司令官の自室があったはず…)
咲莉那はすぐに人影を追いかけた。
(あの服、前に私たちを襲ってきた刺客と同じ服!?)
咲莉那は驚きながらも刺客と思われる人物のあとをつける。
(冥央の暗殺が目的かそれとも…)
咲莉那は思考を巡らせた。
その人物は、まるで迷いなど一片もない様子で、冥央の自室の前まで歩いていくと――扉を開け、音ひとつ立てずに中へと入っていった。
咲莉那は、廊下の隅の影からその様子を見届けていた。
(あの動き……この部屋に慣れてる?まさか――関係者?)
と、そのとき。
男は部屋の奥に据えられた大きな鏡の前へ進み、何の躊躇いもなく――その中へすっと姿を消した。
咲莉那は一拍置いてから、狐の姿のまま慎重にその鏡へ近づく。
鏡を抜けると、その先は広々とした部屋だった。冷たい空気が肌を撫でる。
(……隠し部屋。あの鏡が扉の役割ってわけか)
気配を殺し、音を立てないよう進んでいくと、奥のほうから微かに声が聞こえた。
咲莉那は壁際の柱の影に身を滑らせ、気配を消す。
暗がりに揺れる灯の先――ふたつの人影が静かに言葉を交わしていた。
一人はさっきのヤツのようだが、もう一人は角度が悪いのか、顔が見えない。
「--、---?」
「…はい、分かっております」
「---、----、---。」
(狐に化けてるから聴覚上がってるはずなのに、聞こえないって…どれだけ声小さいの…)
咲莉那はそう思いながら会話に集中した。
「我らの主…あなた様の計画もあと少しでございます。夢ももうすぐ…」
そのとき咲莉那は確信した。アイツは前に自分たちを襲った刺客の仲間だと、そして今ヤツと話しているのが、やつらの主人だと。
(もう少し会話を聴いていたいけど、気づかれたら厄介だな…また明日来よう)
咲莉那は静かに隠し部屋を抜けると部屋へと戻った。
そして二日目の朝──冥央はゆっくりと壇上の中央へ歩み出た。
その背に広がるのは、黒く沈む巨大な門。まるで“影”そのもののように、静かに佇んでいた。
「――では、試練二日目。“真影の迷宮”を開始する」
その声と同時に、門の奥から霧のような気配が流れ出す。
「今回の試練は、三人一組で行ってもらう。 迷宮の奥に散らばる鍵と謎を解き、“正しき出口”へ辿り着いた者のみが合格となる」
広場にざわめきが走った。
「幻影に惑わされるな。仲間に迷わされるな。 真実を見極め、扉を選べ。“鍵”はお前たちの中にある――」
冥央が一歩、後ろへ下がった。
「準備ができ次第、名を呼ばれた者から迷宮へ入る。 試練は始まった。各々、己の“目”を研ぎ澄ませ」
迷宮の門がゆっくりと開くと、冥央の声が静かに響く。
「第一組――瑛斗、蒼真、和央」
呼ばれた三人が立ち上がり、無言のまま前へ進む。
咲莉那と火楽は、静かにその様子を見送っていた。二人が座るのは、冥央に与えられた特別席。
それは広場のやや高台に設けられた、少数の選ばれた者にのみ許された観覧席――“千扇の間”から続く、白華楼の由緒ある観覧席だった。
「……瑛斗、緊張してるけど、顔はまっすぐだね」
咲莉那がそっと呟く。
「昨日の彼とは少し、目が違います」火楽が微笑む。
「きっと“信じる強さ”を手に入れたんですね」
瑛斗は迷宮の前で振り返らなかったが、その背からは静かな決意がにじんでいた。
巨大な門が、ぎぃ……と低くうなりをあげて開いていく。
その先には、靄に包まれた回廊が、まるで生き物のように蠢いていた。
「……いくか」
瑛斗がつぶやくと、隣を歩く蒼真がふっと笑う。
「なんだ、震えてんのか?」
「震えてない。……ほんの少し、跳ねてるだけだ」
「それ、だいぶビビってるって言うんだよ」
そう言って和央が軽く肩をぶつけてきた。空気は硬いままなのに、どこか和らぐ。
そのまま、三人の影が門の中へと消えていった。
中に入った瞬間、周囲の空気が変わった。
広がるのは、石畳の回廊。両側の壁には不気味な仮面がずらりと並び、仄かに光る松明が進行方向を照らしている。
……しかし、妙だ。
光が指し示す先は一本ではなく、左右にも枝分かれしていた。
「もう分かれ道かよ……」
蒼真が舌打ち交じりに言う。
和央は前に出て、扉のひとつをじっと見つめる。
「全部、開けられるようには見える。でも、たぶん……正しい“順番”がある」
瑛斗はポケットから“迷宮の鍵”を取り出す。
重く、冷たい金属の感触が掌に伝わる。
「……俺たちで、見抜くしかないってことか」
空気が静かに、しかし確実に張り詰めていく――
**真影の迷宮**、ついにその牙を剥きはじめた。
迷宮の中に瑛斗たちが姿を消してしばらく。
観覧席では沈黙が満ちていた。
咲莉那がそっと、火楽の隣に声を落とす。
「……前、私たちを襲った刺客たちがいたでしょ?その仲間と刺客たちが言っていた主らしき人を見た」
火楽は湯呑を持つ手を止め、ゆっくりと咲莉那に目を向けた。
「……どこで?」
「冥央の部屋。その奥に隠し部屋があって……そこへ、刺客と同じ服の者が、迷いもなく入っていった」
「冥央様の部屋に、隠し部屋……」
火楽は小さく息を呑む。咲莉那の言葉に嘘はない。
それを知る者の口調だった。
咲莉那は続けた。
「鏡の奥のその場所で、“夢がもうすぐ”だなんて話してた。声までははっきり聞こえなかったけど、あの感じ……組織か何かだと思う」
火楽は短く目を閉じたあと、静かに言った。
「……隠し部屋に刺客の仲間、それから主らしき人物…まさか…本当の犯人って…」
「確証はない……でもこれがもし本当なら…」
咲莉那の目に、一瞬だけ“決意”が浮かぶ。
そして、ふたりの視線は再び迷宮の入口へ向かう。
その奥に消えた瑛斗の背を思い浮かべながら――
扉の前で立ち止まったままの瑛斗に、蒼真がいら立ちを見せる。
「なあ、ほんとにこれ違うのか?匂いもするし、鍵も合いそうだぞ?」
「だからこそ、逆に怪しいんだ」瑛斗は低く返した。
指で床の端をなぞると、そこにはかすかに残った“黒い線”――まるで、焦げたような痕跡。
「他の部屋、こんなのなかった。……誰かがこの扉を使って、“消された”んじゃないかって思えてきた」
蒼真と和央が顔を見合わせる。
「じゃあ……本物の道は?」
「――あっちだ」
瑛斗は扉から視線を外し、壁際の小さな凹みに向かった。
そこには目立たない、石板に挟まれたくぼみがあり、
よく見ると“鍵の印”が刻まれていた。
迷宮の鍵を差し込む。
最初、手応えはなかった。だが力を抜いてもう一度――カチリ。
音が響くと同時に、壁全体が横に滑るように開いた。
差し込む光。
外の風が頬を撫でた。
「……やった、出口だ」
和央が目を丸くし、思わず笑った。
蒼真も肩の力を抜いたように息を吐く。
瑛斗は静かにその場を振り返った。
あの、金の装飾扉。迷宮の中でも、際立っていた“見せかけの正解”。
(こんなわかりやすい“正しさ”――誰かが意図的に仕込んだとしたら、いったい誰が…)
背筋に、わずかな冷気が走った。
でも今は、ひとまずこの試練を終えよう。
瑛斗はまっすぐに光へと踏み出す。
蒼真は背後の扉が閉じる音を聞きながら、ふっと笑った。
「おい、今回は完全にお前の勝ちだな」
「え?」と振り返る瑛斗に、和央
も肩をすくめて言う。
「うん、今回は瑛斗が大活躍だったな」
「お前が止めてくれなきゃ、あの金ぴかの扉、間違いなく開けてた」
蒼真が笑いながら拳を突き出す。
瑛斗は少し戸惑いながらも、拳を合わせた。
「……ありがと。でも、俺だけじゃ絶対ダメだった。三人だったから、見抜けたんだと思う」
和央がにやっと笑う。
「ほんと真面目だよね。でも、だから信じられるんだよ、瑛斗は」
広場に三人が戻ってくると、先に試練を終えた数人が目を見開いた。
「えっ、お前ら……通ったのか!?」
「しかも時間、めっちゃ早くない!?」
「うそだろ、あの第三の扉で引っかかったって話、他の組でも出てたのに……」
ざわ…とざわめきが広がる中、
ひとりがぽんっと瑛斗の背中を叩いた。
「お前らすげぇよ。マジで!今回は三人とも英雄だな!」
蒼真が照れ隠しに鼻を鳴らし、和央がひらりと手を振る。
「いや~やっぱ瑛斗の“変な勘”が冴えてたってことで」
「変じゃないだろ、ちゃんと理屈あっただろ!」
「うん、あった。でもそれを“信じた”のはあんたでしょ」
そのやり取りに、周囲からも笑いや拍手がこぼれていく。
少し離れた場所で見ていた咲莉那と火楽の目にも、柔らかな色が宿っていた。
(あの子……本当に、成長してる)
(それをちゃんと、皆も見てる)
西の空が茜に染まり始めた頃、
迷宮から戻ってきたすべての挑戦者たちが再び広場に集められた。
夕風が吹き抜ける中、壇上に立った冥央がゆっくりと口を開く。
「……もう日が傾いていたな」
その声に、人々のざわめきが静まっていく。
「明日は三日目。白華楼の試練も、そして宴も、明日で終わりを迎える。
――最後の日も、存分に楽しもうじゃないか」
一拍、柔らかな沈黙。
「さあ、明日に向けて各自、部屋でゆっくりと過ごしたまえ。
今日は……解散とする」
その言葉を合図に、参加者たちは三々五々、宿舎へと戻っていく。
沈んでいく夕日が、背中を照らしていた。
今日を越えた者、明日を見据える者――
それぞれの静かな夜が、始まろうとしていた。
人々が次々と宿舎へ戻っていく中、咲莉那は最後までその場にとどまっていた。
陽が沈みかけた空には、朱と群青が溶け合って、どこか寂しげな色を浮かべている。
(明日で終わる、この宴も。……そして、何かが始まる)
彼女はひとつ息をついてから、静かに踵を返した。
白華楼の回廊を歩く足取りは穏やかで、すれ違う者に優しく笑みを見せながらも、
心の奥ではずっと、**昨日の出来事が形を変えて渦を巻いていた**。
(もし、あの闇が本当に動き出しているなら。きっと、明日が鍵になる)
自室に戻ると、部屋にはすでに涼やかな夜気が入りこんでいた。
障子をすこし開けて、咲莉那は縁側に腰を下ろす。
空にはぽつりぽつりと、星が現れている。
あまりに静かで、あまりに美しい夜だった。
(火楽に話しておいてよかった。あとは……)
ふと、迷宮から戻ってきたあの少年の顔が、脳裏に浮かんだ。
瑛斗のまっすぐな眼差し。まるで何かを越えたような確かな光。
「……強くなったね。ちゃんと、自分で道を選んでる」
その声は誰に向けたものでもなく、ただ夜に溶けていった。
咲莉那はそっと目を伏せ、長い睫毛の影が頬に落ちる。
食事と風呂を済ませ咲莉那は夜が更けるのを待った。
亥の刻になる頃、咲莉那は静かに部屋を出て狐に化けると冥央の自室の隠し部屋に急いだ。
警戒しながら部屋に入った咲莉那は、誰もいないことを確認すると、鏡の前で静かに深呼吸し――すっとその中へ身を滑らせた。
通り抜けると、静寂に包まれた隠し部屋が広がる。昨日と変わらぬ配置、変わらぬ空気。
(……やっぱり“今日も”使われてない)
そう確認しながら、咲莉那は部屋の内部へとゆっくり足を進めた。
棚にはびっしりと並んだ書物。
中には古文書のようなものもあるが、ぱっと見て“直ちに怪しい”気配はない。
(けれど……このまま終わる気がしない)
部屋の最奥、かすかに歪んだ空気の流れを感じた。
咲莉那が一歩近づこうとしたそのとき――
ふっ、と冷たい気配が、背の方から忍び寄ってくる。
(……来た)
一瞬の判断で、柱の陰へ身を滑り込ませる。
鼓動が静かに、でも確実に速まっていく。
(だれ……?)
「嗚呼、あと少し…あと少しで俺の夢が実現する…!」
「嗚呼、長かった…長かった…!」
後ろ姿で気が付いた。この人物は主だ。
「溜まるのに思ったよりも時間がかかってしまった…まぁ慎重に進めていたのだから無理もないが…」
そう呟きながら主は何かを大事そうに触っている。咲莉那は柱の影から顔を覗かせた。
(あれは…封印の玉(ぎょく)!?何でアイツが?)
主がその場を去ったのを見計らって、咲莉那は封印の玉が置かれている台へ飛び乗った。
触れると微かに霊力を感じた。
(なるほど、この中に霊力を封じているのか…もしかしてこの中に封じられてる霊力って…)
長居すると気付かれる可能性が高いと思った咲莉那は、隠し部屋を出ることにした。
出口へ向かっていると、ふと目に止まった書物があった。その書物の表紙を見てみることにした。
(これは…)
後々役に立つかもしれないと感じた咲莉那はその書物を咥えて、隠し部屋を出たのだった。
朝。
白華楼の広場には既に多くの者が集まっていた。
空は晴れているのに、どこか空気が冷たい。
昨日と違う――誰もが無意識のうちに、そう感じていた。
壇上に現れた冥央の表情はいつも通り、静かで冷静。
だが、その目に宿る光だけが、わずかに深く沈んでいた。
「──では、試練三日目。前半、百戦祭を開始する」
一拍。皆の表情がぱっと明るくなる。だが次の瞬間――
「……と言いたいところだが、皆に伝えなければいけないことがある」
その一言で、場の空気が変わった。
「昨日、真影の迷宮で、予定にはない、扉が確認された」
一拍置いてから、冥央は静かに言葉を継ぐ。
「扉の奥を確認したところ、床には術式が施されていた。
“構造に意図的な改変が加えられていた”と見て、間違いない」
場がざわつき始める。
そのざわめきを遮るように、冥央の瞳が鋭く光を帯びた。
「これより“百戦祭”は予定通り行う。だが、試練を揺るがす存在――
その“痕跡”が現れた以上、私たちは見過ごさぬ」
冥央の言葉が広場を満たすと、瑛斗は微かに息を呑んだ。
(……昨日の、あの扉)
白く輝いていた金の装飾。まるで「出口です」と言わんばかりの堂々たる構え。
あのとき感じた、説明できない違和感――
目の奥に、冷たい記憶が蘇る。
床に刻まれていた、妙なすす汚れ。
扉の脇にあった、ほんのわずかな反転した足跡。
(まさか、あれが……術式の跡……?)
隣の和央が小声で囁く。
「……なあ、お前、大丈夫か? 顔こわいぞ」
「……ああ、ちょっと思い出してただけ」
瑛斗は視線を壇上に戻し、冥央の表情をまっすぐに見つめた。
その眼差しはもう、どこか迷いを捨て始めていた。
冥央は一度まわりを見渡してから、静かに、しかし確かな声で言った。
「――まずは、百戦祭の内容を説明する」
場に再び静けさが戻る。
その声に、全員が自然と姿勢を正していた。
「この祭は、“武の本質”を示す場だ。ただの力くらべではない。
精神と判断、そして“己という刃”をいかに磨いたかを示す――それが百戦祭」
一呼吸置いて、冥央の手が空に向かって掲げられる。
その掌には、光を帯びた小さな紋章石が浮かんでいた。
「今回の祭では、個人戦の勝ち抜き形式とする。
それぞれ、己が武器を手に、一対一の戦いに挑んでもらう」
「特別に、“戦士の証”を使った決戦方式も導入する。
それは一撃で勝敗を決する、真剣勝負に限りなく近い儀式――己の覚悟を示す者だけが用いよ」
ざわつく参加者たちに、冥央の声は変わらず静かで鋭かった。
「最終勝者には、“白華楼の戦士王”の称号を与える。
そして同時に、“無音の戦”への挑戦権を手にすることができる」
冥央は右手を軽く振ると、広場の中央――円形の演舞場に淡く結界の光が灯る。
張り詰めた空気の中で、彼は簡潔に、けれど確かな声で告げた。
「──一試合目を始めるぞ」
言葉が放たれた瞬間、風が止んだかのように場が静まり返る。
冥央が手元の巻物に目を落とし、静かに告げた。
「一試合目……春樹 対 蒼真」
その瞬間、ざわっ――と広場が揺れた。
「お、いきなり蒼真!?」「マジかよ……初戦から熱いな」
観覧席のざわめきが増していく。
蒼真はふっと笑って、立ち上がる。
「やれやれ、初っ端から気合い入れろってことか」
一方の春樹は静かに目を閉じ、重心を整えてからゆっくりと土俵へと向かう。
試合の結界が淡く光りはじめ、空気がぴんと張り詰める――
演舞場中央、結界の光がじりじりと高まる中、二人の戦士が向かい合った。
春樹は無言で構えを取り、足元をどっしりと沈ませる。
その拳はまるで岩塊のような圧を帯び、全身から迸る闘気が肌を刺すようだった。
一方、蒼真は口元に笑みを浮かべ、重心を軽やかに踵にのせる。
細剣を手に、柔らかな風のように構えを取った。
観客の息をのむ気配を背に、冥央の声が響く。
「――始め!」
ドンッ!
開始の合図とほぼ同時に、春樹が地を蹴った。
鈍く重い風が場を撫でる。巨体が弾丸のように突進するッ!
「速ッ……!」観客がざわめいた瞬間、
蒼真の姿が掠れるように横へ滑った。――紙一重。
「鋭い拳だな。こっちも本気でいかせてもらうぜ」
蒼真は足元を軽く蹴り、背後を取るやいなや三連撃!
だが――春樹は振り返らない。そのまま拳を地に叩きつける!
地面に溜めていた闘気が爆ぜ、反動で蒼真が跳ね飛ばされる。
会場がどよめく。「ただの拳じゃない!術式が…!」
体勢を立て直し、蒼真が目を細める。
「なるほど。派手だが、理に適ってる。つまり――読みやすいってことだ」
にやりと笑い、次の瞬間――
蒼真が空を斬った。地を蹴った。
剣気が空間を裂き、空白を作り出す。
目にも止まらぬ踏み込み。
春樹が応じる――拳を構え、“貫打”の気配を放つ。
一撃、交錯――!!
その時、結界が揺れた。
結界が淡く光を放ち、“勝者”の紋が空中に浮かび上がる。
「勝者、蒼真!」
会場がどっと沸いた!
春樹は顔をしかめながらも立ち上がり、静かに蒼真に手を差し出す。
「……見事だ」
蒼真はその手を軽く叩きながら、爽やかに笑った。
「いや~しびれたぜ。マジで重かったもん、お前の拳」
――こうして、百戦祭第一試合は幕を下ろした。
冥央が再び場の中心に立つ。
「二試合目――瑛斗 対 和央」
場にざわめきが走る。
「うわ、瑛斗ここで来た!」「和央って誰か知ってる?」
和央がにこっと笑って手を挙げながら登場し、
瑛斗は静かな決意を宿したまなざしで演舞場へ向かう――
演舞場に立つ二人の青年。
瑛斗は静かに剣を構え、呼吸を整える。
一方の和央は細身の扇を片手に、余裕の笑みを浮かべていた。
「よろしくね、瑛斗くん。こう見えて僕、けっこうやるよ?」
「……こちらこそ」
冥央が小さく合図を送る。
風が止まり、空気がぴんと張り詰める。
「――始め!」
その瞬間、和央が舞うように動いた。
扇が一閃、周囲に幻のような残光を描く。
(っ……!)
瑛斗は咄嗟に後退。
扇の表面には風の術式が仕込まれていた――風刃が空気ごと裂いて飛来するッ!
襲い来る三つの刃風。瑛斗は剣で一つを弾き、残りは躱す。
「回避だけじゃ、勝てないよ?」
和央がふっと地を滑るように距離を詰める。
その動きの軽さ、まるで踊っているかのようだった。
だが、瑛斗の目が一瞬、細く鋭くなる。
(……見えた)
次の風刃が来る――その直前。瑛斗は踏み込んだ!
「癖でわかるんだよ」
和央の目が見開かれる前に――
瑛斗の刀が、軌道を極限まで絞って差し込まれる。
シュッ。
風が裂ける音。
和央の扇が弾かれ、宙を舞う。
そして、結界が震えた。
「勝者、瑛斗!」
観客席に驚きと歓声が広がる中、
和央は倒れず立ったまま、苦笑して肩をすくめた。
「参った。完全に見切られてたね」
「……ありがとう。あなたも、すごかった」
言葉少なな瑛斗のまなざしに、誠意が宿る。
扇を拾い上げた和央はひらりと笑った。
「じゃあ、次の試合、頑張って」
その言葉の意味に、瑛斗はふと目を伏せた。
今の勝利の先に待つ、何かを想像しながら――
その後も、第三試合、第四試合と続き――
剣戟と術式が交錯し、幾度も歓声と沈黙が演舞場を包んだ。
日が高く昇るころ、ついに三日目後半――
**“無音の戦”の出場者が決定した。**
冥央は壇上に立ったまま、ゆっくりと場を見渡す。
その瞳には、戦い抜いたすべての者たちへの敬意が宿っていた。
「皆、見事な戦いだった。この調子で、これからも鍛練に励むのだぞ」
その言葉に、演舞場のあちこちで小さな頷きや、拳を握り直す動きが見える。
そして次の一言が、空気を変えた。
「さて、“無音の戦”の出場者を発表する」
観客席が一瞬で静まり返る。
広場を包む風音さえ、遠のいて感じられた。
冥央の声が、静かに空を切った。
「“無音の戦” 出場者の名を告げる――」
場が息をひそめる。
その名を呼ばれる者だけが、時の扉の前に立てる。
「蒼真。
凪。
楼那。
稜雅(りょうが)。
御鷹(みたか)。」
一拍の静寂。
「以上、五名。――準備が整い次第、“無音の戦”を開始する」
ざわめきが、ゆっくりと広がる。
中には歓声もあったが、どこか“恐れ”にも似た気配が漂っていた。
特等席で瑛斗は咲莉那と先ほどの百戦祭について話していた。
「俺としたことがうっかり油断してしまいました。」
瑛斗は苦笑いを浮かべた。
「でも瑛斗頑張ってたじゃん。偉いよ。」
そう言って咲莉那は瑛斗の頭を撫でた。
「ちょっと桜香さん、俺はもう子供じゃないですよ~」
瑛斗は照れたように言うと
「私にとってはまだまだ子供だよ」
咲莉那に言われたのだった。
瑛斗と話し終わったところで火楽が咲莉那に小声で話しかけた。
「主様、昨日も冥央殿の隠し部屋に行かれたのでしょう?何か進展はありましたか?」
「うん、あった。主が封印の玉を持ってた。」
「封印の玉を!?その主やはりただ者ではありませんね…」
「私、主が離れたのを見計らって封印の玉を見たんだけど、中には霊力が封じられてた。」
「それと、主の正体はやっぱり…あの人しか考えられない。あと、中に封じられてた霊力…たぶん─」
火楽は驚きの表情を浮かべたのだった。
冥央が結界の中央に立ち、静かに告げる。
「これより、試練三日目後半――**無音の戦**を開始する。
この戦いにおいて、音を発することはすべて禁じられる。
刀鳴らぬ刃、声なき意志。
勝者は“影の印”を刻み、その一瞬で決する。
これは、ただの戦ではない。“白華楼の影”として名を遺す者を選ぶ、“静寂の決戦”である」
結界の内へ、一人、また一人と静かに足を踏み入れる。
誰も言葉を発さない。ただ、自らの鼓動と向き合い、足音さえ抑えながら。
結界の外、観客席もまた静まり返っていた。
そして冥央が、ゆっくりと右手を掲げる。
「――では……始め」
その瞬間、光が一閃。風が張り詰める。
無音の戦、開幕。
結界の中央、五人の戦士が静かに立ち並んでいた。
誰一人、言葉も息遣いも漏らさない。ただ、凛と構え、空気の流れを感じていた。
地は柔らかい白砂。音を吸い込むように敷き詰められている。
風は止まり、観客さえも一言も発さない。
そして、瞬間。
蒼真が一歩、音を立てずに滑り出す。
目線はまっすぐ前――対峙するのは、稜雅。しなやかな槍を持ち、体の中心に構える影のような男。
(……攻めるべきか、待つべきか)
蒼真は考えるのではなく“読む”。
稜雅の呼吸、重心、視線――そこに戦意の浮き沈みを探る。
そのとき、砂がわずかに舞った。
蒼真が反応。反転、滑るように左手をのばす――小瓶に仕込まれた「影の印」の粉を、指先に滲ませる。
(この距離、届く…!)
刹那、稜雅が踏み込む。
長槍が弧を描き――だが蒼真はその軌道の外側、砂に体を沈めるように伏せ――
回転、そして突き上げ。
右手にまとわせた影粉が、稜雅の左肩の防具に、風のようにふわりと触れた。
静かに、淡い光が浮かぶ。
結界の縁で、判定の光が淡く瞬いた。
**〈刻印成立――蒼真〉**
冥央が無言で一歩進み出て、そっと手を挙げる。
観客たちは、拍手も歓声も出せぬまま、ただ目を見張っていた。
蒼真はその場で息を吐くように軽く瞬きをし、稜雅と目を合わせて静かに頭を下げた。
(……一瞬の静けさの中で決まる。“無音の戦”って、やっぱり化け物じみてるな)
結界の中、対峙する二人。
御鷹は目を細め、音なき風に身を置く。
凪の姿はすでに輪郭が薄れていた。呼吸も、存在も、砂と同化する。
(見えない…でも、いる)
御鷹は細く笑った。気配で読む。気流で探る。そこにしか勝機はない。
そのとき、砂がふわりと――いや、**「ふわり」とさえ感じさせず**に動いた。
凪が現れたのではない。
**気配だけが、御鷹の背後に“あった”と気づいた瞬間――**
首筋のすぐ下。防具の縁に、そっとなぞられた感触。
視線を動かす前に、結界が光を放つ。
**〈刻印成立――凪〉**
会場は静寂のまま、その勝利を受け入れるしかなかった。
御鷹は瞬きを一つし、わずかに唇をゆがめて言った。
「……なるほど。“無”を知ってる者か」
凪は何も答えず、ただ深く一礼して退いた。
楼那はしなる棍を握り、蒼真に音もなく迫った。
その動きは、まるで蛇のようにぬめりと流れ、踏み込みの音さえ無い。
蒼真は一瞬、目を細める。
(風が……読めない)
だが、床を滑る棍の軌道、その起点が一瞬だけ“癖”を見せるのを見逃さなかった。
(左足を蹴る動作――そこに、力が集まってる)
蒼真はほんのわずかに身体を沈め、“その動きの先”に手を差し出す。
――ひらり。
**〈刻印成立――蒼真〉**
楼那はわずかに肩をすくめ、目だけで蒼真を讃えた。
結界に残されたのは二人だけ。
観客も、咲莉那も、瑛斗も、息を呑みながらその場を見守っていた。
凪は無言のまま、まるでそこに“いない”かのように立っている。
風すら避けるような存在感の薄さ――その静寂は圧力だった。
一方の蒼真は、肩を回しながらふっと息を抜く。
(……これが最後だな)
両者が静かに、片膝を落とす。
「始め」と言う声すらない。合図は存在せず、空気の“変化”だけが開戦を告げた――
風もない。音もない。
動いたのは、凪だ。
いや、「凪がいた場所に、誰もいなくなった」と言うべきだった。
次の瞬間には蒼真の背後――いや、左斜め下。感覚の外から、殺気がほんの一滴だけ垂れた。
(読めない……けど、感じた)
蒼真は身を沈めて転がるように回避。
影の印を構えながら、目を凝らす――だが、凪の気配は砂に溶けていた。
(空気が……ねじれてる?)
一撃。
背中に微かな風を感じて、蒼真は右腕を突き出した。
「いる」と信じたそこに、掌で影の粉を弾く――!
しかし、その手は空を切る。
凪は、さらに外へと動いていた。
――そして。
蒼真の視界に、蒼い影が差し込んだ瞬間。
左肩に、“ふわり”と柔らかい感触が――
蒼真の脳内に、確信が走る。
(やられた)
と、思ったその刹那。
凪の気配が、微かにずれた。
瞬間――蒼真は**すれ違いざまに、背後へ手を放つ**!
「そこだ!」
影の印が、凪の腰布に淡く舞い、静かに刻まれる。
光が――灯った。
**〈刻印成立――蒼真〉**
風も止まったままの結界の中。
凪が静かに一礼し、蒼真もそれに応えるように頭を下げる。
空気には、言葉にはできない緊張と敬意が残っていた。
そして――
壇上の冥央が、ゆっくりと口を開く。
「……勝者――蒼真」
その瞬間、空気に張り詰めていた弦がふっと解け、
観客席のあちこちに息を呑む音と小さな安堵が生まれた。
でも誰も拍手はしない。
それが“無音の戦”であり、
**「この試練の勝者」への最大の敬意の形**だった。
蒼真が一歩、結界の中心から歩み出ると、
場内の誰もがその背に視線を向けた。
音はない。けれど、その静寂の中に確かに“称賛”が満ちていた。
壇上の冥央が、静かに掌を掲げる。
すると空中に淡く浮かび上がる、漆黒に輝く小さな結晶。
中に閉じ込められているのは、まるで星を潰したような微細な光の粒だった。
それは――**「影宝(えいほう)」**
冥央はゆっくりと階段を降り、蒼真の前で立ち止まる。
そして、掌に乗せた影宝をそっと掲げるように差し出した。
「……蒼真。よくぞ、“音なき戦場”を超えた」
蒼真は一礼し、影宝を両手で受け取る。
触れた瞬間、薄く微光が指先を包んだ。
冥央はその様子をしばし見つめたあと、わずかに声の調子を落として言った。
「この“影宝”は力ではない。
されど、お前の“選択”の証だ。
この先、迷いが生まれた時は……今の静けさを、思い出せ」
蒼真は少しだけ目を見開いたあと、ふっと笑って頷いた。
「はい」
影宝の光は、まだ彼の掌の中で脈を打っていた。
授与式を終えた冥央は、もう一度場を見渡し――静かに口を開く。
「……空気を壊すようで申し訳ないが、
真影の迷宮での“扉の異変”――その犯人を突き止めねばならない」
空気が、再び張り詰める。
咲莉那が目を細め、瑛斗が眉を寄せた。
冥央の声は静かだったが、その一言で空気が凍った。
「……犯人は、我々白華楼に明確な危害を加えようとした。
それゆえ、この場の出場者たちではないと私は見ている」
一瞬、安堵の気配が広がる。
だが、冥央はそのまま視線を、観客席――瑛斗のもとへ向けた。
「考えられるとすれば……“瑛斗の同行者”――お二人、だ」
座席にいた火楽と咲莉那が、静かに顔を上げる。
冥央が疑いの目を咲莉那と火楽に向けた直後――
ほんの一瞬の静寂を破ったのは、瑛斗の声だった。
「……彼らは違います!」
場にざわめきが走る。
観客席に控えていた咲莉那が、一瞬だけ小さく目を見開く。
瑛斗の声が響いた直後、場内には微かなざわめきが広がった。
彼の言葉はまっすぐで揺るぎなかったが――
冥央はそのまま、視線を逸らさずに淡く言った。
「信じたい。私も、そうだ。……だが、それだけでは済まぬ」
重く、静かな声だった。
その瞳はまっすぐに――咲莉那に向けられていた。
観客たちの視線が一斉に動く。
その中で、咲莉那は一歩も引かず、冥央の眼差しを正面から受け止めていた。
「……私に何か、ご質問を?」
声は落ち着いていた。けれど、その奥に微かに張り詰めた緊張が滲む。
冥央はゆっくりと首を傾け、
まるでその沈黙の奥にある“真実”を炙り出すように、言葉を続ける。
「“迷宮の扉”が、何者かの術式で開かれた。
白華楼のものではない痕跡が、封の印に残されていた。 」
咲莉那の瞳が、僅かに揺れる。
観客席には、ざわつきではなく――沈黙が降りた。
「桜香殿。心当たりはあるか?」
それは訊問でも詰問でもない。
ただ、真実だけを求める者の問い。
隣で瑛斗が息をのむ。
火楽は俯いたまま、小さく肩を上下させていた。
咲莉那は鼻先で笑った。
「……ふふ、それで? 私を裁くおつもりで?」
「何がおかしい?」冥央が静かに訊く。
「怪しいのは、そちらでは?」
「信じたいがそれだけでは済まぬ」――そう言った。
「けれど証拠もないままに私を疑うなんて、どうかと思──」
そのとき。
冥央の手が、咲莉那の腕を掴んだ。
「……ぜ……なぜ……なぜだ……」
混乱とも驚愕ともつかぬ表情。
「なぜお前から――“咲莉那の霊力”を感じるのだ!」