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休み時間、いつものようにノンストップでトマトジュースを飲んでいると、一度も話したことのない隣の席の戸成さんが突然話しかけてきた。
「藍原さんってそんなにトマトジュース好きだっけ?」
質問の意図が分からず首を傾げると、彼女は英語のプリントを解きながら適当に続ける。
「前はトマトジュースなんて全く飲んでなかったじゃん?急にハマり出した理由何かあるのかなーと思って」
理由、あるにはあるが、どんな反応をされるか分からないから話していいか迷う。それに彼女はそこまで返答に興味がないように見えたので、
「……別に」
私は前に向き直って、僅かに開きかけた口を再びストローにつけた。
「えー冷たっ」
苛ついた声が聞こえて、少しだけ顔を伏せる。けれど流し込んだ液体の甘酸っぱさが脳全体に染み渡って、すぐに周りなんて気にならなくなった。自分だけの優雅なトマトジュースタイムの再開だ。
帰宅後、トマトゼリーを食べながらごろごろソファに転がって午後のニュースを眺めているだけで、あっという間に7時になっていた。時の流れは早い。そろそろ夕食を食べようと冷凍のグラタンを温めていると、静かな部屋にチャイムが響き渡った。そう、今日は水曜日、吸血の日だ。
ソファで癖がついていないか洗面所で軽く髪を確認してから、小走りで玄関に向かう。だがドアの向こうにいたのは宅急便だった。見知らぬおじさんとばっちり目があって顔が熱くなる。
そういえば今日は月に一度トマトジュースが送られてくる日でもあった。受け取ったダンボール箱は今回も重い。ぎっしり詰め込まれた100個分のトマトジュースをじっと見つめて、こんなに好きになるなんて思わなかったな、と今更のように思う。
シュウさんが来たのは2時間後の9時だった。ちょうどお風呂上がりだったので結局髪がびちゃびちゃのまま出てしまった。
「はほー、ははっへ」
「な、なんて?」
シュウさんの困惑した表情でトマト味のチョコが口に入っていたことを思い出し、すぐに飲み込む。
「やっほー、入って」
「なんだやっほーって、こんばんはだろ」
真顔でツッコみながら靴を脱いで、当然のようにふらりとリビングに入っていくシュウさん。玄関の鍵は閉めないし、靴の向きは揃えないし、コートを脱がないままソファの真ん中に座る。仕事で疲れているとはいえ行儀が悪い。むっとした私は横から体当たりした。
「そこ私の場所。もっと端に寄って」
「あぁ、はい……」
シュウさんは重い腰を上げ、三人分ほど離れた端っこにちょこんと座った。そこまで離れてとは言っていない。
それからお互い一言も発しないまま、いつの間にか5分が経過していた。この時間は何だろう。こないだシュウさんから貰ったトマトチョコの残りを食べ終わって、ちらりと横を見ると。シュウさんは死んだ目でぼーっとテレビを見つめていた。番組内の笑う場面でも微動だにせず、そもそもテレビの内容が入ってきているかも怪しい。傍から見ると結構怖い。
「血、吸わないの」
声をかけると、我に返ったようにコートを脱ぎ始めた。吸う前は流石に脱ぐらしい。
「はいはい、今吸いますよ……」
そっちから血を吸いに来たくせにその言い方はおかしいと思ったが、今は特別に何も言わないであげた。こちらから近付いていってシュウさんを背に座り、パジャマの襟を捲る。首元を晒すのは最初は恥ずかしかったが、数え切れないほど血を吸われてきた今ではもう慣れた。
……わけではない。シュウさんの唇が当たって、自然と身体がびくりと跳ねる。それを誤魔化そうとテレビに視線を移し、学者たちの難しい討論に集中しているふりをする。
「ん?」
するとシュウさんは何かに気付き口を離した。
「すごい水が垂れてくると思ったら、もしかして風呂上がりか?」
なぜ今まで気付かなかったのだろう。
「見たら分かるでしょ、パジャマ着てるよ」
「確かにパジャマっぽいとは思ったが……お前ソファも背中もびしょ濡れだぞ、ちゃんと髪を拭け」
そう言われても面倒だからやりたくない。まるで父親のようにいちいち注意してくるのも鬱陶しい。
「ほらそこにタオルあるだろ」
「いらない、自然乾燥させるからいい」
「頑固だな、拭いてやろうか?」
わしゃっと髪に手を差し込まれて心臓がどきりとする。反射的にその手を振り払いタオルを被った。けれど素直に言う通りにするのは負けた気がして嫌なので、適当に擦って拭いた真似をした。
「はい、拭けたから早く血吸って」
「どこも拭けてないぞお前……」
呆れたように溜息をつきながら、シュウさんは首筋に噛み付いた。鋭い歯の先端が柔らかい肌を突き刺して血管まで侵入してくる。ピリピリとした痛みが電流のように全身に伝わって、頭のてっぺんから指先が痺れた感覚がする。以前こんにゃくで噛む練習をしてくれたおかげで痛みは最小限になっているものの、毎回細めの針で注射をされているようなものだし、時々やけに痛い。でも吸血とはそういうものだから仕方ない、とパートナーとして我慢してあげている。
それにそこまで嫌なわけじゃない。この痛みは私たちの関係を繋いでいるものだから、むしろこれからも味わっていたい。トマトジュースのように。今はそうはっきり言い切れる。
「……ごちそうさま」
シュウさんは口元についた血を拭った後、小さな傷口をそっと指先でなぞる。毎度行うその動作がシュウさんなりの気遣いなのかもしれない。
「うん」
振り返って直そうとした襟は、やっぱり赤く染まっていた。血をこぼさないでと何度言ったら分かるのだろう。
自分の血を見る度に、こんなに鮮やかな色をしているんだとびっくりする。人間の私ですらトマトジュースみたいで美味しそうに見えてくるから、血が大好きな吸血鬼の気持ちは尚更分かる。別に分かる必要はないが。
血を吸った後のシュウさんは元気が戻り、少しテンションが上がっている。立ち上がって意味もなく部屋をうろうろしたり、台所に立ち入って「夕食は何のトマト料理食べたんだ」と冷蔵庫の中を確認したり、私が部屋に移動するとなぜかついてきて勝手に棚を漁ったりする。迷惑極まりない。
今日も棚に飾っているお気に入り武器のマスコットを「なんだこれ」と手に取って眺めている。それに飽きたと思ったら本棚に並んだ本をぱらぱら捲って「なんだ、これもトマトジュースの本か」とつまらなそうに呟いている。何がしたいんだろう。
「そろそろ出て、お母さん帰ってくるから」
私が椅子でくるくる回りながらそう催促しても、「んー……」という曖昧な返事だけでなかなか帰らない。反対にほとんど喋らず3分で帰る日もある。心情がよく分からない。
「ん、これ何の本だ?」
一番奥に手を伸ばそうとしたので、慌てて腕を引っ張った。
「なんでもいいでしょ、早く出て」
「今の絶対少女漫画だよな、背表紙が可愛らしいピンクだったぞ」
「違う、うるさい」
揶揄うように笑うシュウさんを無理やり廊下に追い出す。
「二度と本棚に触れないで」
「はいはい、じゃあまたな」
「ん、おやすみ」
あまり目を合わせず素早くドアを閉める。危なかった。『ヴァンパイアと秘密のKiss』とかいう少々乱れた漫画をこっそり天音さんから借りているのがバレるところだった。バレれば「これは子供が読むものじゃない」と理不尽に取り上げられそうだ。そんなの精神年齢が子供のシュウさんが言ったところで何の説得力もない。それに人が読む本は大切な個人情報だ。いくらパートナーでもプライバシーの侵害は許さない。バタンと玄関のドアが閉まる音がして、僅かな緊張が解けていく。
けれどそうやって過保護になるほど、シュウさんが私を大切に想ってくれていることは確かだ。この何てことない日々をいかに大切に想えるかが、共存を続かせるポイントなのだ。
「……トマトジュース飲も」
さっき送られた中から新しい一本を取り出して、旗印のごとく机の上に置く。
好きになって良かった。なんてトマトの鮮やかな赤をなぞると、じんわりと胸の奥から嬉しさが込み上げてくるのが分かった。
今月もよろしくね、私の大切な吸血鬼さん。