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私が部屋に引きこもったのが、夕方ぐらいだった気がする。
それから、どれくらい時間が経ったのか――。
枕元に置いてあった端末代わりの簡易時計を見ると、針はきっちり朝の6時を指していた。
頭の奥で、じん、と鈍い痛みが鳴る。寝不足の頭痛というより、脳みそごと重くなっているような、そんな感覚。
右側にカレン。
左側にリシル。
2人とも、服も何も着ていない無防備な姿で、穏やかな寝息を立てていた。
白いシーツから覗く肌が、うっすら赤みを帯びているのが目に入る。
……まさか、一晩中?
脳が現実を理解することを全力で拒否しているのが分かった。
現実逃避したくなる気持ちをぐっと飲み込んで、私はそっと息を吐く。
ベッドから這い出るようにして起き上がり、2人を起こさないよう慎重に足を下ろす。
シーツがかさりと音を立てるたびに、カレンが小さく身じろぎするので、心臓に悪い。
部屋の隅、全身が映る姿見の前に立った。
首筋だけではなく、鎖骨のあたり、二の腕、腹筋の横、腰骨の上あたりにまで――噛み痕やら、吸われ過ぎてうっ血した痕やらが点々と散らばっている。
まるで誰かが適当にスタンプを押したかのような有様だった。
鏡越しに、自分の顔を見る。
唇の血の気が少し引いていて、目の下には薄いクマが出来ている。身体の中心がスカスカしているような、嫌な浮遊感。
……この頭の重さは、間違いなく貧血だ。
吸血された時の反動と、カレンの淫魔としての力で理性が焼き切られていたせいで、昨夜の記憶はところどころ飛び飛びだ。
濃い霧の中で断片だけが浮かんでくるような感じで、詳細はほとんど残っていない。
鏡を見ているうちに、視界の端に、尻のあたりの赤い痕が映った。
くっきりと残った歯形――形的に、絶対カレンのものだ。
「……後で覚えてなさいよ、ほんと」
自分の尻に向かって小声で呟いてから、ため息混じりに服を拾い上げる。
ついでに、何か妙なことをしていないか確認しておこうと思い、そっとベッドに戻る。
リシルが被っている毛布の端をつまみ、できるだけ音を立てないように、少しだけめくって覗き込んだ。
首回りには、うっすらと赤紫の痕。
背中のラインに沿って、点々と小さなうっ血。
太ももからふくらはぎにかけては、吸い跡と爪痕のミックスみたいな痕が散っている。
「……ごめんね?」
誰にともなく謝って、そっと毛布を戻した。
今さら何をどう取り繕ったところで、昨夜の惨状は変わらない。せめて直視するのをやめて心の平穏を確保しておく。
服を着込み、髪をざっと整えてからリビングへ向かう。
窓越しに外を見ると、庭で沙耶が座って目を閉じ、静かに呼吸を整えているのが見えた。
「おはよ、魔力の循環試してるんだね」
「……あっ、お姉ちゃん。おはよう~。この前カレンさんから教わったからさ、毎朝の日課にしてるの」
目を開けた沙耶の、少し眠たそうな瞳に、それでも芯の通った光が宿っている。
「流石私の妹……偉い……」
よしよし、といつもの調子で頭を撫でる。
撫でられ慣れているはずなのに、沙耶は相変わらず照れくさそうに目を細めて笑った。
そんな姉妹の時間をぶった切るように、庭を仕切る柵の向こうから、人影が2つ、ひょいっと飛び越えてきた。
「まーたイチャイチャしてるっすよ」
「沙耶ちゃんばかりズルいよねーっ」
まるで事前に打ち合わせをしてきたかのように、綺麗なタイミングで声が重なる。
ただ、七海の言葉にはいつもの軽さがあったが、小森ちゃんのほうは、抑揚が薄くて棒読み気味だった。
……さては、無理やり言わされたな?
「確かに七海の言う通り……よし、今度時間作るよ」
「いいんすか? やけに聞き分けのいいような……さては偽物……!?」
「七海は別にいいのかぁ。じゃあその分小森ちゃんに――」
「あーー! 嘘っす! 冗談っすよ!!」
食い気味で否定が飛んできた。
慌てふためく七海が、それっぽい理由を必死に並べ立てているのを適当にいなしつつ、私は小森ちゃんのほうへ歩み寄る。
こっちに戻ってきてから、まともに正面から見つめるのは初めてかもしれない。
肩のラインは華奢なまま。
目元も頬のあたりも、出会った頃とほとんど変わっていない。
「ぁの……そんなに見られると、恥ずかしいんですけど……」
「あぁ、ごめん……初めて会った時から全然見た目が変わってないように見えてさ……」
「そう! それ!!!」
小森ちゃんと話していると、後ろから勢いよく挟み込むように沙耶の声が飛び込んできた。
横からぬっと顔を出し、七海は沙耶の頭に顎を乗せてこちらの会話に混ざってくる。
「スキンケアとか何か秘訣があるっすか? それか老化を止める技能でも持ってるんすか!??」
「えっと、遺伝的な……感じかな? お母さんの家系が凄い童顔揃いで……」
「やっぱりかぁ、そうなると私は母さんみたいに愉快なババアの道を進むことに……」
七海の嘆き節に、思わず苦笑いが漏れる。
確かに母さんは年々、いい意味でも悪い意味でも“愉快なババア”になっていってる気がする。
私が居ない間にもっと騒が――もとい、パワーアップしていたのは、数日前の配信を見てよく分かった。
3人がああでもないこうでもないと盛り上がっていると、家の中から大きな欠伸の音が聞こえてきた。
それと同時に、玄関のドアが開いて――。
「ちょっ、カレンさん!?」
沙耶が目を丸くし、ほぼ反射でカレンを家の中に押し戻した。
何事かと思ってよく見れば、カレンは当然のような顔で全裸だった。
魔界であれば「強ければなんでもいい」の一言で許される光景だが、ここは日本だ。倫理観と治安という概念がまだ辛うじて生きている。
私は一瞬、本気で「何が問題なんだっけ」と考えてしまい、己の感覚が麻痺していることを実感した。
魔界では、人の形を取っている魔族自体が少ない。
服を着ているかどうかより、どれだけ強いかの方がよほど重要視される世界だ。
だから、服無しで廊下を歩こうが、戦闘後に裸のまま寝転がっていようが誰も気にしない。
ここで同じノリをやられると、確実に色々と誤解される。
カレンは首を傾げて、何が悪いのか本気で分かっていない顔をしていたが、やがて「あぁ」と何かを思い出したように手をぽんと叩き、そのまま素直に部屋へ戻っていった。
「そういえば先輩昨日どのぐらいダンジョン潰したんすか?」
「んー? そこからここまでの間にあるところ全部」
私は北側の山の方角から、少しだけ指を動かす。
全体のほんの少しくらいの範囲だ。
地図をまじまじと見てる点在しているダンジョンは山ほどあった。こんなにもよく増えたものだと、少しだけ感心する。
ちょうどその時、服を着込んだカレンと、毛布にくるまったリシルがリビングに姿を現したのが魔力で分かった。
沙耶が戻ってきて、私の袖を軽く引く。
「お姉ちゃん、何かカレンさんが皆に話があるって」
「おっけー。今行くよ」
全員でリビングに戻り、テーブルを囲んで腰を下ろす。
カレンが、やたらと真面目な顔をして両手を組む。そこだけやたら“王女”感があるのがずるい。
「ん。紹介、私の姉上……ほら、姉上。自己紹介」
「あっ、うん。リシルです……」
昨日とは打って変わり、借りて来た猫のように縮こまっている。
視線は落ち着きなく泳ぎ、声も小さくて、語尾がかすれていた。
どう反応していいか分からず、とりあえず拍手をしておく。
すると、皆も「とりあえず乗っとけ」と言わんばかりに同じように拍手を送った。
ぱちぱちという音が一頻り鳴ったところで、カレンがすっと手を上げて拍手を止めるよう促す。
……何だこれ、謎の発表会みたいになっている。
「ん、姉上がこっちに来た変遷……姉上、どうぞ」
「えっと……あれは私が権限を貰ってゲートを立ててこっちの世界を知ったときだったかな……」
リシルが、ぽつり、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
彼女の話によると――
人気のない場所を選び、魔界からダンジョンのゲートを繋いでこちらの世界を探索していたらしい。
時期的には、ダンジョンが現れ始めた本当に最初期。
まだ「ダンジョン」という単語ですら一般には認識されていない頃だ。
見たことのない建造物、人の生活の痕跡。
未知の文明に心惹かれ、ついそっちに気を取られて、肝心のダンジョンの管理は割と放置気味だったらしい。
「それでね、一回帰って……こっちの世界の人の実力じゃ倒せないボスを配置してもう一回来たんだけど……」
「確かにリシルの言ってた時期ならダンジョンの存在自体認知されてない時期だろうし、モンスターすら倒せない可能性もあるね」
「うん……なのに攻略されて無くなってたの……ビッグスライムのスラちゃんを配置してたから安全って思ってたんだけど……」
ビッグスライム。
どこかで聞いたような、嫌な既視感のある単語が耳に引っかかる。
私が顎に手を当てて記憶を探っていると、先に沙耶が手を挙げて口を開いた。
「あのっ、ビッグスライムって大きさ3mぐらいの大きい緑のやつですか……?」
「うん……スライム自体見つけにくいように背丈の高い草原をダンジョンにしたんだけどね……」
沙耶が、ゆっくりとこちらを振り向く。
私も同じように、沙耶を見る。
――あの、最初のダンジョン。
高い草が生い茂った草原。
姿が見えないスライム。
最後に出てきた、大きな緑色のスライム。
あのボス戦で、沙耶が放った炎を風で誘導して……。
胸の奥がじわりと熱くなるのを押さえ込みながら、沙耶が小さな声で耳打ちしてくる。
「これってさ、多分最初のダンジョンだよね……?」
「……多分そう。確かにあのビッグスライムは最初期のスキルとかの使い方が確立していない状況だったら倒せないモンスターだし」
ひそひそと話しているつもりだったが、どうやらカレンには丸聞こえだったらしい。
口元を押さえて、肩を震わせながら笑いを堪えている。
「っく……。ん、つまり、あーちゃんは姉上もこっちに閉じ込めてたってこと」
「いや、まだ決まってない。リシル、ゲートの繋いだ場所の特徴って覚えてる?」
「えっと……石がいっぱいあった。あ、こっちじゃあの石はお墓なんだっけ? それが沢山ある陰気なところ!」
「……ごめん」
脳裏に、あの時の景色が鮮明に蘇る。
墓地の陰から現れたゲート。
何も知らない顔で「行ってくるね」と笑った自分たち。
――間違いなく、あのダンジョンを潰したのは、私たちだ。
私は、正面からリシルを見据えて、素直に頭を下げた。