涼ちゃんと若井が帰ったあと。
スタジオには、元貴ひとりだけが残っていた。
照明は半分落とされ、機材のランプだけが静かに光っている。
元貴は、ふとキーボードの脇にある小さなランプに目を留めた。
「……あ」
朝、準備の流れで
録音ボタンが入ったままになっていたことに気づく。
涼ちゃんは、録音されたことに気づいていない。
完全に、無意識のまま。
元貴は一瞬ためらってから、再生を押した。
――カチ。
小さなスピーカーから、朝の音が流れ出す。
最初は、静かなフレーズ。
整っていて、丁寧で、いつもの涼ちゃん。
でも、しばらくすると音が変わる。
テンポが揺れ、
和音が重なりすぎて、
少しずつ、濁っていく。
元貴は、無言で耳を澄ませた。
そして――
ボン。
鍵盤を叩き押す、重たい音。
次の瞬間、
不協和音が、スピーカーから小さく漏れた。
「……っ」
元貴の喉が、詰まる。
そのあと、音は途切れ、
何かに体重を預けたような、
微かなノイズだけが残る。
元貴の脳裏に、
鍵盤を叩く涼ちゃんの指が浮かぶ。
「……俺たちが入ったのは、このあとだ」
音の中の“出来事”と、
自分が見た“現実”が、ぴったり重なる。
――伏せたまま動かない涼ちゃん。
――声もかけられず、ただ見ていた自分たち。
録音を止める。
これは、
偶然残ったデータじゃない。
涼ちゃんが、誰にも見せないつもりだった時間
そのままだった。
元貴は、再生ボタンを押し直すことはしなかった。
キーボードに手を置き、
そっと鍵盤を一つだけ鳴らす。
――ポン。
さっきの音と比べて、
あまりにも、普通の音。
「……聞いちまったな」
涼ちゃんは、知らない。
この音が、誰かに届いてしまったことを。
でも元貴は、はっきり分かってしまった。
あの瞬間、
すでに“起きたあと”だった。
元貴は、深く息を吐いた。
「次は……
見るだけじゃ、終わらせないよ」
スタジオには、
もう音は鳴らない。
でも元貴の中では、
朝の不協和音が、ずっと残り続けていた。
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