昼下がりの陽光が
柔らかく裏庭を撫でる中
喫茶桜の庭は
まるで誰かの記憶に
閉じ込められた絵画のように静かだった。
その静寂の中心に
藍色の着物を纏った時也が立っていた。
風に揺れる黒褐色の髪が肩にかかり
表情は穏やかなまま
彼は目を閉じて一言ずつ
確かな調子で言葉を紡いでいく。
「東に開きて風を読み 西に閉じて音を断つ
北に隠れて気を探り 南に降りて影を抱け
玄鳥の羽、天より借り受け
隠密なる眸となりて、彼の地を探れ──」
その声は風と一つになり
草花を撫で、空気の流れを変えた。
「急急如律令──」
掌の中から滑り落ちるように放たれた護符が
はらり、はらりと舞う。
陽光に透ける和紙が
時也の足元の影に滑り込むように溶け
静かに揺らめいた。
──バササッ
乾いた羽音。
次の瞬間
影から真っ黒な烏が一羽、また一羽と
這い出るように飛び立った。
その数は護符と同じだけ。
宙を旋回しながら
烏たちはまるで
生きているかのように空へと散っていく。
一羽が
時也の差し出した左腕に音もなく止まり
もう一羽が肩へと舞い降りた。
彼はただ静かに
式神の羽音に耳を傾けていた。
──カアアッ!
高く鳴いたその声は
清々しい昼の空を切り裂くように響く。
次の瞬間──
「きゃーー!お庭が荒らされちゃう!」
裏口の戸を開け放ち、勢いよく現れたのは
箒を手にしたレイチェルだった。
肩を怒らせ
今まさに
全力で威嚇しようとしたその足が──
時也の姿を目にした瞬間
ぴたりと止まった。
桜の木の下。
柔らかな陽に照らされ
藍色の着物を揺らす時也。
黒い烏たちを従えて立つその姿は
まるで幻想に紛れた古の陰陽師のようで──
凛として、あまりにも美しかった。
レイチェルはその場に立ち尽くしたまま
目を見開き
そして自分がさっき発した叫び声と
いかにも情けない攻撃体勢を思い出し──
顔を真っ赤に染めた。
「お騒がせ致しまして、すみません⋯⋯
視察用の式神なので、ご安心ください」
と、時也は何事もなかったように
優雅に一礼する。
烏の一羽が小首を傾げるように鳴く。
その肩に止まる姿さえも絵になっていて
ますますレイチェルは
恥ずかしさに頭を抱えた。
「⋯⋯な、なんで毎回
タイミング悪いの、わたしっ⋯⋯」
誰にも聞こえぬよう小さく呟きながら
彼女は箒を持ったまま
しばし固まるのだった。
そしてレイチェルは
まだ頬を赤らめたまま
箒の柄を胸元に抱きしめるように持ったまま
わずかに首を傾げる。
「視察用なら、もっと⋯⋯こう
可愛い小鳥にしてくれたら良いのに。
文鳥とか、インコとか⋯⋯
それで?なんの視察?」
時也は微笑を湛えながら
肩に止まった黒烏の羽をそっと撫でた。
「陰陽師にとって烏とは
切っても切れない縁があるのですよ。
黒羽は闇に溶け、声は厄を祓い
視は真を見抜く。
──〝覗き見〟にも、最適です」
さらりと、怖いことを言った。
レイチェルが少し引き攣った顔を見せると
時也はふっと笑って、そのまま話を続けた。
「ノーブル・ウィルは
まだ始まったばかりですからね。
今後、多くの支援者を迎え
多くの子供達を救っていく
組織となるでしょう。
──ですが同時に〝目障り〟と感じる者も
増えるかもしれません」
その声音には
先ほどまでの柔らかさから一転して
僅かに鋭さが含まれていた。
「慈善活動に支障がないように
背後から静かに見守るように──
それが、アリアさんからの指示でして」
レイチェルは「やっぱり⋯⋯」と
納得するように息を吐き
桜の花びらが風に舞う庭を見つめた。
「アリアさんって、言わないけど
全部わかってる感じよね。
あの無言の眼差し
ぜったい見逃さないっていうか」
「⋯⋯それは、僕も常々感じております」
穏やかな笑みを浮かべたまま
時也の瞳にはふと、奥に深い色が差した。
「この庭が平穏であること。
──それが、彼女の願いでもあるのです」
風が舞い、烏が一羽
くるりと旋回して空へと昇った。
その黒い影が
陽に溶けるように見えなくなるまで
時也は静かに、見送っていた。
黒い羽根がひらひらと
空からゆるやかに舞い落ちる。
風もないのに
羽根はまるで
意志を持っているかのように旋回し
桜の木々の間をすり抜けて
時也の足元へと吸い寄せられていった。
その光景の中で
時也は静かに宙を仰いでいた。
藍の着物に黒髪、肩に止まった一羽の烏。
そして
その頬にはごく僅かに柔らかな微笑み。
まるで
黒羽を神の使いのように見つめるその姿に──
レイチェルは思わず、ぞくりとした。
なぜだろう。
優しいはずのその笑みに
言葉にできない〝異質さ〟を感じたのだ。
優しさが──
あまりに深すぎて、底が見えなかった。
それはまるで
沼の水面に映った月のように静かで
そして掴めない。
(⋯⋯きれい。だけど⋯⋯
なんか、ちょっと、怖い⋯⋯)
レイチェルは知らず
背中に汗を感じていた。
時也の微笑は、本物だ。
けれどその背に
もし〝黒い翼〟が生えていたなら
彼は天使か、それとも──
「レイチェルさん?」
「っ──な、なに!?なにか言った!?」
「いえ。風が吹いて、髪に羽根が⋯⋯」
優しく手を伸ばして
レイチェルの髪から
そっと黒い羽根を摘まみ取る時也。
その仕草はあくまで優しくて
紳士的で、完璧だった。
──だからこそ
レイチェルの胸に残った震えは
簡単には拭えなかった。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!