松明の明かりが規則的に揺れ、闇の中を過ぎていく。秘密を囁くように時折火花が爆ぜる。煌々とした光は数十年、あるいは数百年を揺蕩っていた闇を容易く払い除けるが、黴臭い空気は久方ぶりの訪問者を歓迎するように地下深い空間に撹拌してゆく。
訪問者を拒む闇に挑むのは若い男だ。まるで剣を構えるように松明を握りしめている。若者は未知の空間に足を踏み入れた探検者というには荷物が少なく、しかし重装備だ。幾度か着用者の命を守った痕のある鋼の胸当てに小手、古びるとも輝きの増す分厚い革の手袋に脚絆。そして腰には一振りの抜身の剣が下がっていた。他の装備と違い、ただその剣だけはまだ若者の持ち物として馴染めていない。挨拶を交わす程度の隣人という具合だ。
男はただひたすらに歩いては隅々まで闇を払うべく松明をかざす。照らされるのは水の伝う石の壁、水の滴る石の天井、水の溜まる石の床。そして錆びた鉄格子。そこは遥か昔に打ち捨てられ、忘れ去られた古い地下牢獄だった。
「随分降りてきましたが、地下深くにもほどがありますね。じきに冥府の獣の臭いが漂ってきそうです」と男は独りごちる。「しかし噂に多少は真実味が増しました。よほどの何かを隠すのでなければ、これほどの構造物を造ったりはしないでしょう。ここに囚われていた者たちはただの罪人ではないはずです」
滅び去った国も等しく照らす地上の光すら全く届かない。もはやこの土地の最期を知る闇だけが地下深くに囚われている。
「鉄槌君。その噂の、何とかの、何とかってのはそんなにすごいものなの?」
フォーロックは確かに地下深くの僅かな火の明かりの中で一人きりだが、どこかから何者かが尋ねた。そしてフォーロックはこともなげに返事をする。
「なんにも覚えていないじゃないですか。亡都の不死刑囚ですよ」
「難しい言葉使わないで」
「使ってませんよ。まあ耳慣れない言葉ではありますが」
フォーロックは敵を刺し貫くような構えで突き出し燭台に残っていた松明に火を移す。期待薄だったが、地下牢獄の埃にまみれた松明はその本来の働きを思い出して明々とした光を投げかける。
「不死なんて本当に実現してるの?」
「貴女が言いますか」
「まだ死んでないだけでいつかは死ぬかもしれないでしょ、あたしだって」
フォーロックは華麗な松明捌きで次々に松明を灯していき、古い暗闇のもたらす圧迫と焦慮を押しのける。
「ところでそれってもしかして、あたしの剣技の真似をしてるの?」
「復習ですよ。教えを忘れないように」
「教えてないけど」
「教わるまで学ばないようではたかが知れています。得てして技とは盗むものですから」とフォーロックは得意げに言う。
地上と変わらない鉄格子の牢獄が並んでいる。囚人はいないか、いたとしても骨になっていた。
その有様を眺めながらフォーロックは講義する。「さて、真偽はともかく、噂の一つによると、地下牢獄に幽閉されているという噂の人物は手練れ中の手練れだったそうです。生前は、つまり不死になるまでは剣聖と謳われていたとか」
「へえ、剣聖? しかも不死? 丁度いいね」
「そうでしょう? 本当にいたなら約束守ってくださいね」
「そうじゃないよ。いいこと思いついたの。そいつに勝ったら弟子にしてあげる」
フォーロックはすぐさま反発する。「ちょっと待って下さい! 斬る者さんに相応しい伝説的な肉体を手に入れたら弟子にしてくれる約束ですよね!?」
姿なきシャイズは答える。「そうだったけど、見込みのない奴を弟子にしてもねえ」
「存在するかもまだ分からないのに」
「そうでもなさそうだよ」
開かれた空間へと出る。円形に鉄格子が並んでいて、その内側が牢獄だったようだ。その中心に戒めを体現する堅牢な柱があり、磔にされている者がいた。かの不死刑囚だろうか、と確かめる前にフォーロックは再び自身の剣筋を検めるように、辺りの松明に火を移す。
方々から光を投げかけられた不死刑囚らしき巨体は干からびた死体にしか見えない。襤褸布をかぶり、手枷をかけられ、鎖で柱に繋がれている。そして一振りの剣を握っていた。ところどころ刃毀れしているが不思議と錆びていない。
「死んでなお剣を握ってるなら剣聖に違いないよね。さて噂の不死刑囚なのかどうか」
「死んでるように見えますね。しかし剣を握っている辺り死んだふりかもしれません」
「他には何か噂はないの?」
フォーロックは文章を朗読するように噂を話す。「数多の人間を斬り殺し、その恨みと呪いを負って不死の悪鬼になったとか」
「別の仮説? 不死刑はどこにいったの? あてにならないなあ。まあ、ともかくどちらにしても頑丈そうではあるね。さっさといただこうか」
フォーロックは松明を空いていた燭台に預けて剣を抜き放つ。松明の明かりを照り返すその妖しい輝きは血に飢えた獣の瞳のようだ。そうして鉄格子へと近づくと軽く剣を振りかぶり、吐息とともに撫でるように斬り下ろし、流れを止めることなく振り上げた。数本の鉄格子が斬り裂かれ、石の床を鈍く叩く。
フォーロックは牢獄へと入ると倒れ伏す虜囚へと近づく。しかし半ばで足を止めた。
「息がありますね」と言ってフォーロックは剣を構える。「浅いですがこの目と耳は誤魔化せませんよ」
「ようやく気づいたか」とシャイズは知ったふうなことを言う。
「気づいていたなら言ってくださいよ」
「これも弟子入りのための試練だよ。もし気づかなかったら失格だったんだから」
「いくつあるんですか? 試練」
「いくつでもいいでしょ。まずは目の前のことを片付けなくちゃね」
不吉な軋む音は皮か骨か筋肉か。地下牢獄の最後の生き残りが剣を頼みに立ち上がる。真っ暗な眼球はしかしこちらをしっかりと見つめている。歯も舌もないのか、がらんどうな口から意味の生じない音が漏れる。
「ほうら、奴さん、やる気みたいだよ。この時を待ってたって感じだ」
シャイズの言う通り、不死刑囚は手枷のままに剣を持ち上げる。大男の、身の丈ほどの大剣だ。高々と掲げれば天井をも斬り裂くだろう。
「望むところです。いざ」
フォーロックは剣をしっかりと握りしめ、『車輪』の構えを取る。かつて『静止』に魔法の真髄を見出した魔術剣士恩寵の素朴な魔術だ。魔法使いたちの嘲笑したそれは、しかし鯨波の声や裂帛の気合にも邪魔されることなく、さらなる力を加える術として剣士たちに愛され、広く剣術に取り入れられた。
フォーロックの刹那の足運びが不死刑囚の懐に踏み入る。しかし横薙ぎに繰り出される大剣を受け止め、軽々と体ごと弾き飛ばされた。不死刑囚を繋ぎ止める鎖がじゃらじゃらと掻き鳴らされ、柱を何度も打つ。
不死刑囚はその巨体から想像を超える速度で振り下ろされた剣を軽々と持ち替え、遠心力に乗せた跳躍と共に落雷の如き一閃で床を叩く。
若き挑戦者もまた横ざまに跳んで躱すが、割れた石床から弾けた礫を浴び、傷に塗れる。その一片は瞼を切り、視界を妨げた。不死刑囚の虚ろな眼窩を見据えて『梃子』の構えを取る。古き魔術剣士の叡智によって五感が研ぎ澄まされ、主観時間が鈍る。
不死刑囚も弓をひくように剣を構える。フォーロックの鋭敏な神経を抜きにしても、予備動作どころか予告動作とさえ言える鈍重な構え、そして大剣の一突きが放たれる。飛ぶ矢の如き速度もさることながら少しも振れることのない剣筋がフォーロックの遠近感を狂わせる。
剣で受け止めて何とか大剣の軌道を逸らし、得た力を返すように振り抜くが、先手の仕掛けた狂いのために十全とは言えない甘い剣はあっけなく躱される。
「これまでの野盗だの剣士くずれだのとは違うみたいだね。降参なら死ぬ前に言いなよ」と師匠候補がどこからかからかう。
「死んでも言いません」と弟子志望はむきになって返す。
『楔』の構え。心臓が高鳴り、血流が滾り、筋が充溢する。振り向きざまに牙剥く大剣を膂力で斬り上げる。『螺子』の構え。一転、体全体がしなやかに捻じれ、振り下ろされた一太刀は不死刑囚を捉える。が、戦いに高揚する剣士にとっては薄皮一枚の怪我に等しい。
不死刑囚の体捌きは淀みもしない。
『斜面』の――。剣は右腕の半ばから共に弾き飛ばされた。フォーロックの剣と腕が吹き出す血に塗れて弧を描き、埃に塗れた牢獄を濡らす。
隻腕の若人は叫びと共に三歩後退し、背中から倒れた。
とどめを刺そうと近づいてきた不死刑囚はしかし足を止め、フォーロックの剣を虚眼で見つめる。
何の予兆もなく剣から手足が生え、金属質の女へと変身した。
「ちょっと待って。次はあたしとやろうよ。あたしはその体を使うからさ。不肖の、弟子じゃない男よりは満足させてあげられるよ」
不死刑囚は戦いを選び、数歩下がる。
「そう来なくっちゃね」シャイズは柄に巻かれた剣持つ犀の描かれた札を剥がし、フォーロックのもとに駆け寄り、その首筋に貼り付ける。「気絶しちゃって、情けないったら」
残った左手で剣を拾い、シャイズは構える。
「あんたは手枷、あたしは隻腕。多少は五分に近づいたかな」次の瞬間にはシャイズは不死刑囚の胸に背中を預け、長い年月を戒めた手枷を叩き切った。「これであんたが有利だよね」
不死刑囚の大剣の柄がシャイズに突きを見舞おうとするが突かれたのは己の腹だった。
「この鎖も斬っておこう」そう言ってシャイズは柱に繋がっていた不死刑囚の鎖を叩き切る。「あんたの不利は無しだね。負けても言い訳は無しだよ」
不死刑囚は己の内に渦巻く混乱を諌め、剣を振りかぶるがシャイズは軽々といなす。今なお精彩を欠かぬ不死刑囚の技が次々と繰り出される。
しかしほとんどの剣はシャイズに躱され、受け止めさせたなら上出来といった具合だ。
袈裟斬り。薙ぎ払い。突き。牽制。振り下ろし。足払い。
いなし。躱し。弾き。待機。回避。跳躍。
不死刑囚は身につけた技のどれもが通用しないことを思い知る。まるで蝶を追い、弄ばれる少年のように剣を振るっていた。
とうとうシャイズは不死刑囚の視界から消え去り、背後から首筋を狙って振りかぶる。が、しかし寸止めした。
「なんだ。フォーロック君、生きてたの?」とシャイズは微笑みを浮かべて言う。
「気絶しただけですよ」
フォーロックの体は剣を引いて、数歩下がる。不死刑囚もまたまるで死を恐れるように数歩下がる。
「戦場なら死んだのと同じでしょ」
「ただの試練で良かったです。伊達にシャイズさんの技を盗み取ってないんですよ。約束守ってくださいね。こいつに勝ったら貴女の弟子です」
「良いよ。それも一番弟子だね」
『斜面』の構え、反転の型。
不死刑囚が先んじる。単純な突進からの袈裟斬り。しかし天井を粘土のように、鉄格子を葦のように、床を紙のように斬り裂く。
が、フォーロックは寸前でかわし、不死刑囚の大剣の腹を剣で叩く。金属と金属が打つ、小さな鈴のような音がなり、それだけだった。
不死刑囚の勢いは止まらず流れるような身のこなしで斬りかかる。が、フォーロックを捉えられない。
一方でフォーロックの剣が再び大剣を叩くと鐘の如き音が地下牢獄に響き渡り、大剣を止める。
不死刑囚は仕切り直し、全身を捻じりあげての大ぶりの一振りを放つがフォーロックの剣は、堅く閉ざされた青銅の門に破城槌を打ち付けられたが如き音でもって弾き返す。さしもの不死刑囚もとうとう体勢を崩し、慌てて構え直す。元々毀れていた刃が更に穿たれ、結末を暗示する。
不死刑囚はまるで勲を約束された戦場の戦士の如く、気合の声に似た雄叫びをあげた。
フォーロックはそれに応えるように鬨の声を発する。
共に振り上げられる二振りの剣が薄暗い牢獄でかち合い、松明よりも眩いばかりの火花を散らす。そして長い年月を虜囚と共にあった忠義の大剣は真っ二つに斬り裂かれた。途端に不死刑囚の全身から力が抜け、倒れた。
「何? 降伏?」とシャイズが呆れたように言う。
「たぶん不死の魔術だか溜め込まれた呪いだかは剣の方にあったんじゃないですか?」とフォーロックが推測を述べる。「シャイズと同じですね」
「一緒にしないで」
フォーロックはシャイズの札を自分の首筋から剥がし、不死刑囚の手の甲に貼り付ける。
「どうですか? 動かせます」
「うん。問題なし。これでシャイズ流剣術道場を開けるよ」
「そんなの作るつもりだったんですか。まあ、良いです。約束を守ってくれるなら」
「ああ、もちろんだよ。あんたは今日からあたしの一番弟子さ」
「ありがとうございます!」
「そして免許皆伝だ」
「は?」
「今日からは師範代としてあたしの教えを広める手伝いをするんだよ」
「ちょっと待ってください。まだ教えるべきことがあるでしょう」
「ないよ。あんたはあたしの知ってる剣術を全て修めた初めての人間だよ。もちろん全て盗み取られてることはこれまでの戦いで知ってたし、さっきの戦いで残りの幾つかを確認したからね。おめでとう」
不死刑囚の大きな手が拍手し、フォーロックを祝福する。
どこか腑に落ちない様子でフォーロックは祝福を授かって言う。「……ありがとうございます。師匠」