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綺羅星瞬く夜も深まり、葉擦れ囁く森の中、身を潜める男がいる。溝鼠のように身を縮め、魚の腐ったような息を静め、黄色みがかった目を忙しなく動かして、緑がかった暗闇の奥を探っている。そして節くれだった手の中で木彫りの偶像を撫で擦っている。だから偶像はすり減って、もはや何を表しているのか他の誰にも分からない。
名を家守。その筋の者たちの間では名うての男だ。特に天に背を向ける者たちでも手出しするのが躊躇われる神殿を標的にするならばパッゴに任せた方が良い結果になると信じられている。
そのパッゴが、神殿泥棒のパッゴがしくじった。嗅ぎ慣れぬ土地のために勘が鈍ったのか、一番星よりも早く仕事を始めた焦りのためか、あるいは吐息の白む季節のために指がかじかんでいたからか、はたまた祈りにこめた念が足りず、梁上の法師神に見放されたのか。
標的たる乱暴者の街の神殿に忍び込む前に、外壁近くで傭兵らしき男たちに取り囲まれ、私刑を受ける前に囲みから抜け出せたものの、ご馳走を嗅ぎつけた蛇のように執拗に追われたために森の中へと逃げ込んだのだ。特に考えがあったわけではない。
パッゴは今まで捕まったことも見つかったこともなかった。いつも盗品を手慰みにしながら悠々と帰路についていたので、追われて逃げたこともなかったのだ。逃走の勝手が分からず、追手が見失う可能性に賭けて黒く染まった森の中へと飛び込み、傭兵たちが諦めるのを待つことに決めた。
しかし傭兵たちは諦めが悪かった。彼らの会話を聞くにどうやら盗人を捕まえれば神殿から報奨が出るらしい。
あちらへこちらへと人魂のように彷徨う松明の明かりからパッゴは必死で逃げ惑う。茂みの中に身を隠し、山毛欅の木の虚でやり過ごし、少しずつ森の奥へと退いていく。
ふと松明の明かりに囲まれていることに気づく。注意深くあったはずのパッゴは裏切られたような気分で混乱し、身をすくませ、徐々に近づいてくる足音から逃げるように頭を抱えて丸まった。他にどうすることも思いつかなかった。
甲高い悲鳴をあげて情けない命乞いをする。「お助けを! どうかお慈悲を!」
次の瞬間、何の予兆もなく眩いばかりの明かりに照らされ、不意を打たれる。それは強く目を瞑って、地面に顔を押し当てていてもなお眩むほどの眩さだ。もうお終いだ、パッゴがそう思った時、軽快に弦を爪弾く音が聞こえた。跳ねるような鼓を打つ音も聞こえた。弾けるような喇叭が吹き鳴らされる。軽妙で陽気な楽の音が無口で無愛想な森を浮つかせる。
パッゴはもはや何も考えられず恐る恐る顔を上げた。傭兵たちは実は楽団だったのか、などと能天気な考えが思い浮かぶ。
やはり何かに取り囲まれていた。傭兵ではない何かだ。何なのか分からない者たちが森にわだかまる闇の奥からやってきた。
人間の輪郭ではない。熟れた南瓜のように頭が肥大した者。山羊のような捻じれた角の生えた者。うじゃうじゃと生えた腕を外套のように纏う者。これらはまだ人間に近い姿だ。首のないのに劈く鳥や目玉に覆われた蛇、詐欺師のように笑む人面の熊もいる。その化け物たちは、しかし誰も迷い込んだ盗人に注意を払わず談笑している。
「去年の冬に酔っ払いを川に突き落としたぞ」「俺は収穫の前に芋を腐らせてやった」「あたしの悪夢を見ない子供はいないわ」という武勇伝。
「私を産んだのはかの魔女石楠花よ」「若い頃は土塊と戯れる戦士神の影を務めたんだ」「僕の棲み家は人のまだ知らない宝石の鉱床なのさ」という自慢話。
楽器を鳴らし、同時に歌い、同時に踊り狂う者。脚の多いいくつかの机に奇妙な形のいくつもの皿があり、むせ返るような香気の料理に舌鼓を打つ者。飽きることなく肩を揺らして楽しげに世間話する者もいれば、取っ組み合いの喧嘩になって傷だらけの者もいる。
魔性の饗宴だ。それはパッゴの故郷でも聞いたことのある与太話だ。普段は人の目に映らない時間、人の立ち入らない境界に身を潜める者たちが夜な夜な墓地や洞窟や森の奥に集って宴を催している、と。とはいえ多くは親の言うことを聞かない子供を躾けるための脅し文句で、パッゴもまた今の今までそう思っていた。
ともかく逃げなくてはならない。このままでは傭兵に捕まるよりも具合の悪いことになる。凍りついたかのように固まっていた体が解けてパッゴは這い退いていく。何者も地面に伏す惨めな物取りに注意を払っていない。こうして迷い込んだのは何かの間違いであり、招かれざる客は静かに宴を後にすればいいのだ。
パッゴの背中に何かが当たる。初めは木にぶつかったのだと思い、回り込もうと手探りするが、この森の山毛欅だとすれば妙に幹が太い。パッゴは過ちに気づき、ゆっくりと振り返る。
悲鳴は可聴域を超えて消し飛ぶ。異形の者たちの中でもとりわけ恐ろしい姿形が目の前に現れた。
樫の木のように太い胴体に豚のように短い手足。反して長い首は枝分かれし、人面が鈴なりにぶら下がっている。そのどの顔もにたにたと笑みを浮かべて恐怖に身をすくめるパッゴを見下ろしていた。
「おお、人間じゃないか。これは珍しい。嬉しいね。人間がもてなしを受けてくれるなんて。主催の饗す者だ。どうだい? もちろん宴を楽しんでくれてるね?」
パッゴは何か言おうと口を開くがぱくぱくと開けて閉めてするだけで言葉は出てこなかった。
「どうかしたのか? まさかお気に召さなかったのか? 今夜は特別に美味い料理を用意したんだ!甘酸っぱい芳香が鼻孔をくすぐる葡萄酒仕立ての鱈の炙り焼き。噛めば噛むほど肉汁の溢れる若鶏の扁桃揚げ。喉を締め上げ、胃を蕩けさせる仔羊の酸塊蒸煮肉! それにとびきりの酒! 葡萄酒だけではないぞ。脳を痺れさせる蜂蜜酒に心臓を打ち据える麦酒、魂を破裂させる生命の水! そして音楽家も名匠ばかりだ。我儘な子供を迷わせる合唱。欲張りな漁網を引きちぎる太鼓。祭司に疑心を吹き込む喇叭!」
やはりパッゴは何も言えない。
「やはり駄目なのか?」リンヴォンは、あるいはリンヴォンたちは悲しそうに言う。「いつもそうだ。人間たちはリンヴォンのもてなしを受けてくれない。皆逃げる。一体何でなんだ?」
リンヴォンがパッゴを覗き込むように屈み、沢山の顔と無数の目で哀れなこそ泥を見つめる。
「いや、それは」パッゴは何とか言葉を絞り出す。「もちろん、楽しげな宴でごぜえますよ。あたしみたいなけちな男には相応しくない盛大な催しってなもんで。料理は良い香り、音楽もなんだか良いやつで、もったいないくらいでごぜえます」
リンヴォンの顔たちはおかしそうに笑う。唯一つの顔だけが真面目な表情で言う。「嘘はよせ」
「滅相もない」
「リンヴォンは客人が楽しんでいるかどうか必ず分かる。言ってみろ、本当のことを。リンヴォンの何が悪い。この宴の何が悪い」
「滅相も、滅相もごぜえません」
リンヴォンの顔が一斉にため息をつく。「ん? 良い香り? まだ食べていないのか?」
パッゴは首を横に振ったが、それをどう受け取ったのかリンヴォンは料理の皿を一枚取り、匙とともに寄越す。深い皿に赤黒いかけ汁の仔羊の蒸煮肉が熱で泡立っている。芳しい香りが立ち込め、パッゴの腹が今気づいたかのように空腹を訴える。
とても逃げ出せる状況ではない。パッゴは覚悟を決め、地面に座り込んだまま蒸煮肉に口をつける。飲み込み、味わい、貪り、満たされる。
「美味いだろう?」リンヴォンは嬉しそうに言う。「もちろん人間だって楽しめる宴を開いているはずなんだ、このリンヴォンは。なのに、どうしてなんだ? 何が駄目だと言うんだ?」
夢中で蒸煮肉を平らげたパッゴの心は妙に浮足立ち、人間とすら打ち解けられない気質も何のその、目の前の化け物に少しばかり心を開いていた。
「無礼を承知で申し上げるならば」とパッゴが言うと、リンヴォンは真剣な眼差しで耳を傾ける。「他の客人の姿、とりわけ旦那の姿が恐ろしいんでさあ。もちろん旦那さん方は何も悪くはねえんですが、まこと人間とは弱く、臆病な質でして、身がすくんでしまうんでさあ」
「なるほど。一理ある。得てして彼奴らはそういうもので、此奴らはそういうものだ。だがなあ、人間よ。主人が姿を偽るなど有り得べからざることだ」
「そうでごぜえますね。……そもそもどうして人間などもてなしたいのでしょう?」
「人間ならば誰でもというわけではない。もてなしたい人間どもがいるのだ」リンヴォンの顔々は魔性たちに目を向ける。「今や魔性に卑しめられた此奴らも元は小さき神や眷属だったのだ。人間たちは大いなる神に鞍替えしてしまったらしい。祈りも捧げ物もなくなってしまったそうな。此奴らはそれを気にもしていないが、リンヴォンに優しくしてくれた此奴らこそが信仰されるべきなのだ」
「へえ」
「だから神官たちをもてなしたい。誰が信仰すべき存在なのか思い出させてやりたいのだ」
パッゴは首を捻り、確認する。「神官というと、フガの街の神殿の神官たちですか? 一体何人ほど?」
「全員だ。あの神に仕える者は全員、改めさせてやりたい」
窮地にあってパッゴのずる賢い頭に悪い考えが浮かぶ。リンヴォンの宴が催されている間、神殿がもぬけの殻になるならばそれほどありがたいことはない。もてなして、神官どもを酔わせてくれればしめたものだ。パッゴは改めて成功へと続く道を探るように悪知恵を巡らせる。
「なるほど。しかしあたしから言えることは他に何もごぜえません。素晴らしい宴です」
「リンヴォンの姿が恐ろしいことを除いて、か」
「へえ。あるいは上手くもてなせたとしても、そのお姿では旦那が信仰されるかもしれませんぜ」
「何だと?」リンヴォンは眉を寄せてパッゴを睨みつける。「恐ろしいと言ったのはお前ではないか」
「恐ろしいからでごぜえますよ。人間とはそういうものなのです」
「ううむ。ならば致し方あるまい」そう言うとリンヴォンの姿が変じる。まるで岩塊のような質感だが形は概ね人間だ。「これではどうだ?」
「お見事。それならば腰を抜かす者もおりやせん」
「腰を抜かしていたのか?」
「お恥ずかしい限りで」
それから数日かけてパッゴとリンヴォンは神官をもてなす宴を計画し、如何に招くか検討する。
リンヴォンの誇るもてなす力を信じればそれほど難しいことではない。ただ一人でも招き寄せれば、虜にさせられるという自信がリンヴォンにはあった。あとは芳しい料理と楽しげな音楽で誘い込むことができる。
当日はいつもより神殿の近くで、森の浅いところで宴が始まった。神官たち全員に招待状を用意したがのこのことやってくる者はいなかった。それでも香りと音が漂ってくると神官たちは訝しみ、傭兵たちを派遣した。しかししばらく待っても誰一人戻ってこない。様子を伺うように神官たちが一人、また一人と森の中に誘い込まれた。そうするともはや罠にかかった狐だ。信心深き神官たちは料理に夢中になって、酒に酩酊し、音楽に合わせて踊り狂った。とうとう最後の一人、神官たちの長が森の奥に消える。
その全てをパッゴは神殿の裏手の暗がりから眺めていた。リンヴォンには神官たちを連れてくると嘘をついて、神殿が空っぽになる時を静かに待っていたのだ。
パッゴは神官たちを嘲笑うように正面から侵入する。今までで最も難しかったが、今までで最も易しい仕事だ。誰の目を気にすることもなく、松明を掲げさえして、パッゴは堂々と厳かな神殿の通廊を進み、目当ての至聖所の扉の前に到る。新たな神の尊い偶像と、何より貴い翠玉がそこに安置されているはずだ。
それは神殿の最奥であり、再び魔性の饗宴のどんちゃん騒ぎが聞こえてきた。リンヴォンは上手くもてなせているようだ。
陰に生きてきたパッゴとて特に邪なところのないリンヴォンを騙すことには気が引けた。罪悪感が少しばかり胸に爪を立てたが、それでも仕事をおざなりにするわけにはいかない。裏稼業においても信用は第一なのだ。
重い扉をゆっくりと引く。もちろん中にも明かりなどないのだが、松明の光を受けて翠玉があらん限りに秘めた輝きを溢れさせた。パッゴは達成感に浸るのもそこそこに、用意していた革袋に翠玉を詰め込む。
そのまま逃げる前に、簡単な仕事で生まれた余裕のためか、生まれつきの悪戯心のためか、翠玉を奪われ、これから信仰も奪われるという哀れな神をひと目見てやろうと思い、明々と燃える松明を掲げた。
一斉に無数の顔が見つめ返す。樹木のような体に枝分かれする首、そして顔、顔、顔。
パッゴは悲鳴を上げて腰を抜かし、盗る物も盗り敢えず、這々の体で逃げ出した。