「……そうだな。お金があっても俺は幸せじゃなかった。どちらかと言うと取れるから取っただけってのもあるが」
陽翔は事も無げに淡々と告げたが、百子はそれが空元気のように聞こえて再び首を振る。
「だめよ、陽翔……お願い、私の前では強がらないで。本当は裏切られて悲しかったんでしょ? 苦しかったんでしょ? 陽翔、どうか溜め込まないで。ひょっとして……私が元彼にされたことを思い出して泣いたから?」
陽翔の頬がひくついた。
「……百子の方が酷い仕打ちだったと思ったからな。泣きたいのは百子の方なのに、俺が泣いてどうすんだって思ってた……しかも俺は俺のためにあの証拠映像を見せただけだったし……百子の復讐の代理ならスカッとしたんだろうが」
百子は一度下を向いたが、陽翔の腕をぎゅっと掴んでしっかりと彼と目を合わせた。瞳の奥がいつになく燃えている。
「陽翔、私の悲しみと比較しなくてもいい。だって陽翔の悲しみは陽翔だけの物だから。そこに『誰か』は入らないの。だからお願いよ……陽翔……私の前でだけはちゃんと感情を出して……私や他の誰とも比較しないで、自分のために泣いて……お願いよ。陽翔がそうやってずっと悲しみとか辛いのを抱えてるのを見ると私も悲しい……」
陽翔は自分の足元が酷く頼りなく、少しでも動けば崩れそうな心地すら覚える。実際に陽翔の体からは力が抜けてそのまま百子を押し倒してしまった。百子は突然視界が天井を写したことに驚いたものの、陽翔の少し乱れた髪を何度も撫でる。陽翔が百子のパジャマを掴む手が震えていたので、百子は彼の手にそっと自分の手を置く。彼女の胸の辺りがじんわりと温かくなり、それが少し冷たくなって彼の心音が緩やかになる頃に、陽翔は掠れた声で話し始めた。
「俺は……それなりに元婚約者のことを気にかけてたつもりだった……燃え上がる恋をした訳じゃなかったがな。でもそれが良くなかったのかもしれない……俺が仕事が忙しくなって、あんまりあいつに会えなくなったくらいの頃に、あいつが他の男の腕にしがみついて歩いてるのを見て、俺はあいつに声も掛けられなかった。その場から逃げたが、どうやって帰ったのかも覚えてない。俺はあいつに休みの日を偽って、不貞の証拠を少しずつ集めていった……やりたくなかったが、証拠を見せたら反省するかという期待もあった。でも……あいつに証拠をつきつけても、あいつは真実の愛を見つけたとか妙なことを口走るだけだった……! しかも不倫相手も既婚者で……! 最初から不誠実な相手なのに真実もクソもあるかよって……今ならそう思える。俺はそれで目が醒めた……醒めた筈だったのにな」
百子は口を引き結び、眉を寄せれるだけ眉間に寄せた。彼の話が百子の想像以上に悲惨だということもあるし、その時の彼の気持ちを想像しただけで、彼の元婚約者に対して胸の奥から怒りがせり上がってきたからだ。
「陽翔、話してくれてありがとう……本当に何て人なのかしら! 人との約束を破っておいて何も思わないの?! 信じらんない! そんな人と縁が切れて本当に良かったわ。今なら私も陽翔の気持ちが分かる。私、何ならその人の舌を引っこ抜いて喉を潰してやりたいし」
百子のいまだかつてないほどの低い声に、陽翔はぎょっとして彼女を見た。憤怒にきらめいているその瞳は彼の方を見ていない。
「百子、それはいくらなんでも……」
「あら、嘘ついた口は厳重に罰しないとだめじゃない」
憤怒でギラつく瞳がしっかりと陽翔を捉え、さらにとんでもないことを言ったため、陽翔は百子に覆いかぶさり、強引に彼女の唇を自分の唇で塞ぐ。
「言ってみただけじゃないの……実際やるかは別なのに」
唇が離れたので百子は顔を横に向け、罰の悪そうな顔でぶつぶつと告げたが、陽翔は大きくため息をこぼす。
「その割には目が|本気《マジ》だったぞ……」
陽翔はヒヤヒヤしながら百子の額にキスを落とした。まさか百子がここまで自分のことで感情を大きく動かすとは思ってもみなかったのだ。そのことが何だか無性に嬉しく、彼は頬にも唇を押し当てた。
「こんなこと言うのも何だけど、俺のために百子が怒ってるの、すげー嬉しかった。俺はまだあいつに恨みがあるが、そのおかげで百子と会えたのも事実だからな。感謝はできないにしても、悪いことじゃないのかもしれん」
百子は一瞬ポカンとしていたが、陽翔の首に両手を回し、そのまま彼に触れるだけの口づけをした。彼が一度体を起こし、百子を抱き上げて膝の上に乗せたので百子はさっと顔を赤くしていたが、彼の首に腕を回した。
「そうだ、陽翔……ちょっと聞きたいことがあって……」
歯切れの悪い百子に陽翔は首を傾げたが、迷わずに続きを話すように促すと、百子は言葉を選んでいるようでゆっくりと話し始めた。
「あのさ、例えばだけど……その人が陽翔に謝罪してきたら許す?」
「いや、許せねえな。許せる訳がない。今更謝られたって、俺のあの時の気持ちが消える訳でも何でもないからな。むしろ謝られても迷惑だ。謝罪するなら俺が証拠を突きつけたあの時しかないだろうし……いや、その時に謝られても結果的に俺を裏切ってるから許せないか」
即答だった。こんな質問をしていて何だが、百子だって同じ気持ちになってしまう。だがこれで百子は何となくだが、陽翔が復讐を終えても苦しくなった理由が腑に落ちた気がするのだ。
「……やっぱりそうなのね。陽翔……陽翔はきっと元婚約者を責めてるんじゃなくて、証拠を突きつけた時に自分が言いたいことを言えてなかったから、その時の自分を責めてるんじゃない?」