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ゆずき
「またね〜」
高い無邪気な声と駆け出す足音とランドセルが背中で揺れる音、車が走り去る音。締め切ったカーテンの隙間からは日差しが僕を暴き立てるように差し込む。3時を告げる時計。それらは僕をベッドへ押し付け、「なぜここにいる」と詰め寄る。怖い。やめて。僕は亀のように布団にくるまって、ただ日が落ちて行くのを待っていた。希望で膨らんでいた通学カバンはすっかりくたびれて、重い教科書と参考書がしずんでいた。床には空欄のプリント、マルが一つのすっからかんの答案、片手で下から数えられる成と留年をちらつかせる成績表。いつからこうなってたっけ。少なくとも受験生になるときは希望でいっぱいだった。それをエネルギーにして毎日勉強して、なんとか高校生になった。受験番号を見つけたときは、それはそれは嬉しかった。入学して、やっぱり希望を消費して毎日過ごすうちに、とうとうガス欠をおこした。学校へ行くこと、勉強すること、朝起きること、お風呂に入ること、ご飯を食べること、トイレに行くこと、息をすること。だんだんできないことが増えていって、今じゃ布団の中でずっとのろのろ日が落ちるのを待ってはやっと来た夜にも責められてまた一日の浪費を嘆いていえた。段々と僕はこの鬱々とした者たちをやっつける必殺技を考えるようになっていた。
スマホで「それ」が近所でできる場所を探してたら、いつの間にか暗くなっていた。外では近所の学校で部活が始まっているみたいだ。あ、野球部が打った。吹奏楽は今頃コンクールの曲を合わせてるみたい。これ、どっかで聴いたことあるような。いや、ちがうっぽい。似たような曲だな。僕でもできるかな。やるとしたら数年ぶりだけど。いいな、楽しそうだな。余計に虚しくなって、また涙が頬を伝う。やっぱり、僕はここにいるべきじゃない。僕はきっと人間じゃないんだ。じゃなきゃここまで世界と合わないことの説明がつかない。よし、きめた。今晩ここを発とう。ここじゃないどこか、もしくは僕じゃない誰かになろう。たった一つ、その方法がある。何を持っていこう。何がいいかな。せめてお気に入りの服で、お気に入りに包まれて出発しよう。ああ、楽しみだ。
「ご飯よ。でておいで」
母親が不安そうに声を掛ける。確かに、最期に食べるのも悪くない。最期にみんなの顔を見ておくのもいいかも。そっと扉を開けると、ホッとした顔で母親が見つめてくれた。ああ、やっと笑った。最期に笑った顔が見られた。少しだけ、嬉しかった。リビングに出るとだしのいい匂い。ご飯は大好きな親子丼だった。今までのように、ちょっとだけつゆ多め。たくさんは食べられないけど、少しずつ味わって、噛み締めた。またこの味が食べられたらいいな。その時は僕じゃないかもしれないけど。
「ごちそうさま。おいしかった。ありがと」
これが最期の言葉かもな。でも、それくらいがいいや。
時計をみると真夜中へ刻々と刻んでいるところだった。外からは静かな雨音。家族の寝息すら聞こえてくるほどの静寂。その静寂を壊さないように、そっと玄関を閉める。さよなら、ありがとう。こんなに心が軽いのはいつぶりだろう。ふと思い立って、昔遊んだ公園に立ち寄る。ブランコから落っこちたこと、鬼ごっこしたこと、水飲み場でのいたずら。砂場では泥まみれになって落とし穴や泥団子を作った。川にもなったし、お家にもなった。だんだん大きくなって、サッカーをするようになったころ、だんだんと僕はお荷物になっていった。何をやってもどんくさくて不器用で、チームでは端数の人数合わせになっていった。そこまで思い出して、辛くなって思い出すのをやめて歩き始める。夜のまちは僕を不思議そうに遠巻きに見つめる。でも、僕は一人、誰にも見張られることなく、暴かれることもなく、気ままに駅へと向かっていた。段々と雨でもともと少ない体力が削られなくなってきたころ、ようやく目的地の駅についた。最終まで後少し。改札に入って、ホームに立つ。一番うしろの車両のドアが開くあたりに立つ。段々と電車の音がしてきたのを確認して、僕は一歩ずつ歩みを進める。薄い靴底の下からは、点字ブロックが止まれと背伸びする。それにつんのめりながらも、ホームのその先へ一歩踏み出す。ふっと目を閉じると、空気の最期の抵抗と電車が空気を押す感覚が伝わってくる。その2つの風が時間を稼いでいるけれど、もう電車はすぐそこ。ふっと笑みが溢れた。
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