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赤く瑞々しい林檎を積んだ荷車のごろごろという音が聞こえる距離を保って、ベルニージュは夕暮れの影のように静かにしつこく買い占め女の後をつける。
朝からマデクタの街を巡って、あれだけの量を買い占めているのだとすれば、店舗や行商人の売り場を把握しているに違いない。上手く尾行して先んじて買ってやろう、とベルニージュは企んでいた。
ベルニージュは、古くから光の当たらない生業の者たちが巧みに利用してきた追跡の魔術を援用する。
人通りの多い大路で何食わぬ顔をして買い占め女に近づき、その影を左足で一度踏むと女から離れる。そして左足で地面に文字を書きながら邪な呪文を唱える。その呪文は不埒者の過去を暴く強力な力を秘めている。それは犬にしか聞こえない秘密の言葉で狩人の守護鳥、不老の鷹を称える歌であり、大切な家畜を奪われた者たちが野獣を呪う言葉が組み込まれ、また闇に紛れる盗賊を追う者たちが己を鼓舞する願掛けと対を成していた。それらが【追跡】を中心に渦巻く。
ベルニージュの心の中へ買い占め女の足跡が忍び入る。魔導書の衣が触媒になったために、街の外の足跡まで押し入ってきたので、呪文を付け加えて締め出す。女の足跡を把握し、記憶にあるこの街の地図と照らし合わせ、買い占め女が行く先を予見する。そうしてまだ買い占め女が向かっていない地区の市場を特定した。
実際に買い占め女は苦労しいしい荷車をひいて、そちらの方角へまっすぐに進んでいる。ベルニージュは女のひく荷車を追い越して、その地区へと急いだ。
まさか林檎を先んじて買うためだけに魔導書を使って尾行する者がいるとはあの女も思うまい、とベルニージュはほくそ笑む。どうせならば逆に林檎を買い占めてやろうか、と悪い企みを考える。そんなことをすれば道義的にも経済的にもユカリに叱られそうだが。
確かにその地区にも市場があり、行商人がおり、林檎があった。ただし普通の市場ではない。奇妙に捻じれた真鍮の器具や怪しげな色形で時に喚く動植物、あるいはその一部が粗末な台を並べただけの売り場に並んでいる。朝露に濡れた乾かぬ羽根や光を灯す緑色の肝、様々な大きさの硝子の発条。
ここは世にも不思議な品々が会する魔法使いのための市場だ。ベルニージュが見つけた林檎は、いかにも魔法使い然とした古ぼけた長衣を身に纏った老婦人が取り扱っていた。どうやら自家製の魔術を売っているらしい。
「この林檎はどういうものです?」とベルニージュは老婦人に尋ねる。
見たところは普通の林檎と変わらないように見えるが、この市場にあって普通の林檎と変わらないわけがない。
老婦人はかわいい孫にでも語り聞かせるように目尻に皴を集めて話す。「私の類稀な秘術を込めた魔法の林檎よ。詳しい製法は教えられない門外不出の魔術なのだけれど、お掃除にとても便利な力が込められているわ」
「それはとても素敵ですね。お一ついただけますか?」
老婦人はゆっくりと首を横に振る。「ごめんなさいな。林檎はもう全て売約済みなの。でも同じ魔法の橙があるからね」
ベルニージュは歯噛みする。先回りどころか、前々から予約されていたのだ。
「ごめんなさい。林檎が欲しいんです」とベルニージュは食い下がる。
老婦人は変わらない表情でベルニージュを見つめて言う。「あんたもかい。林檎が欲しいなら八百屋に行きな」
有無を言わさぬ言葉にベルニージュは言い返そうとした言葉をぐっと飲みこむ。相手はただ林檎を欲した者に売っただけだ。
ベルニージュが踵を返そうとすると、目の前に買い占め女がいた。家の周りをうろつく不審者を見るような眼差しでベルニージュを見下ろす。ユカリほどではないが、この女もまた背が高い。
「林檎が欲しいんです?」と女は見ず知らずの他人に向けるような親し気な微笑みを浮かべて言った。
ベルニージュは睨みつけないようにして、刺々しくならないように答える。「ええ、まあ」
「林檎、美味しいですものね」
「そうですね。包み焼とか大好物です」
「見ての通り」女は荷車を指し示す。そこにはあいかわらず山のように林檎が積んである。「この街の林檎は私が買い占めてしまいました。早い者勝ちというやつです」
悪気がなければ隠す気もないようだ。隠せるものではないが。
ベルニージュは心穏やかであるかのように話す。「そのようですね。林檎、美味しいですよね。まあ、すぐに必要なわけでもないので、お気になさらず」
それだけ言ってベルニージュが立ち去ろうとすると買い占め女に呼び止められた。
「まあ、待ってください。どうやらもうこれ以上、荷車に林檎が積めそうにないんです。運ぶのを手伝ってくださったなら、いくつかお譲りしますよ?」
親し気を通り越して馴れ馴れしい笑みを浮かべて女は言った。
ベルニージュは買い占め女の企みを見抜こうとその赤茶色の瞳を見つめるが、何も見つからなかった。
「ワタシが労働を提供し、貴女が林檎を提供する。対等な取引という事ですね。分かりました。お引き受けいたしましょう」
「ええ。その通り」女は細い首を曲げて頷く。「私はクオル。魔法使いです。貴女のお名前を聞いてもいいです?」
「いいですよ。ベルニージュです。林檎が好きです。よろしく」
買い占め女はベルニージュの後ろの老婦人に顔を向ける。「という訳で予約しておいた林檎、いただけます?」
老婦人から買い取った沢山の林檎を、おまけに貰った籠に入れて持ったベルニージュは、クオルの引く荷車の後をついていく。クオルはこの寒々しい季節にはとんと見ることのない玉の汗を流している。
ユカリだったら押すか引くかして手伝うのだろうな、とベルニージュは思った。
ワタシだったら押すか引くかして邪魔したいくらいだ、とベルニージュは思った。
「馬車をね、停めてるんです。大通りの方にね」とクオルは息を切らせながら言った。
この街を南北に貫く最も大きい通りのことだろう。ベルニージュも今日一度だけ横切った。
林檎が山積みになった馬車を想像してベルニージュは言う。「馬車ですか。この荷車はどこかで借りたんですか?」
クオルはぐらぐらと揺らすみたいに首を振って否む。「私物ですよ。これも積み込みます」
「荷車を馬車に?」
「大きいんですよ。私の馬車。特製です」
クオルは黒く長い髪が汗に濡れて肌に張り付いて、まるで幽霊のような出で立ちになっている。
舗装は平らかだが、荷車はやけにがたがたと揺れている。林檎が今にも零れ落ちてしまいそうだ。
ベルニージュはため息をつき、車輪の心棒を覗き込む。いくつかの魔術が施されているが、どれもがたが来ているようだった。ごくごく細やかなまじないを囁きかけ、多少はましにする。
しかしクオルはまるで気づいていないようだった。そもそもが貧弱すぎるのだった。それに魔法使いだとは言っていたが、おそらく魔法の力も感性も弱い。
しばらくして大通りにたどりつくと、クオルは道の端で立ち止まった。見たところ停車している馬車の姿はない。
「休憩? 馬車はどちらの方向にあるんですか?」
「ああ、いえ、はあ、えっと、ああ」クオルは息が乱れて声を出すのも辛そうだった。「もうすぐ来ます。少々お待ちください」
クオルの言う通りにしばらく待っていると、大通りの北の方から石畳を叩く爪の足音と車輪の音が聞こえる。ベルニージュはそちらに目を向けると、言葉の代わりに感心のため息をついて赤い瞳をさらに輝かせる。まるで家屋のような巨大な馬車が走って来ていた。圧倒された人々が慌てて道を譲る。そうでなければ何もかもを踏み潰してしまいそうだ。