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ずっとどこかで自分の居場所がここではないというような感覚が司にはあった。
仲の良い友人はいるし、家族仲も悪くない、スポーツや勉強だって人並み以上にできる自信があった。でも、何に対しても熱中できないし、深い情を持つことができなかった。自分は冷たい人間なのかもしれない、そう思っていた。
しかし、約十四年というさして長くはない人生の中でこの先これ以上に自分の感情を揺さぶられることはない、と直感的に思うほどの物に出会ってしまった。それがフィギュアスケートというスポーツと夜鷹純という一人の人間だった。
◇◇◇
その日は日中、学校もあって疲れているはずなのに司はなんとなく寝付けなかった。同じ部屋で眠る兄弟達を起こさないようひっそりと部屋を抜け出して、何か面白いものはないかとつけてみた居間のテレビ。しかし、そこに映されるのは深夜帯のネットショッピングや売れない芸人たちのお世辞にも面白いとは言えないバラエティ番組、大昔の映画の再放送で、興味を持てずに適当にザッピングしていた。その中でふと司が目に留めたのは、二年前のオリンピックで金メダルを取ったというフィギュアスケート選手の青年の特集だった。
映し出されたのは長いまつげに縁取られた月のように金色に輝く瞳が印象的な、美しい顔立ちの青年だった。後ろに撫で付けるようにセットされた黒髪に一筋走る白い髪、全身黒色の衣装の中で照明の光を受けてまばゆく光るスパンコールがやけに目に付く、と思ったら、もうその滑りから視線を逸らすことが出来なかった。スピードが出ているはずなのに優美で、いっそゆったりとすら見える繊細な指先の表情。細身の身体からは想像ができないほど力強く、高く跳び上がり、重力など存在しないと錯覚させられるくらい軽やかに難なく氷の上に着地するジャンプ。フィギュアスケートのことなんて何一つわからないが、ただただその美しさが心に強く刻み付けられ、目が離せなかった。
極めつけは、鋭い色を宿した瞳が画面越しにこちらを見つめた時だった。瞳孔が大きく開いた瞳は黒目がちで先程までの金色の印象は薄かった。だが、その視線を受けて司は背筋がぶわりと粟立ったようになった。今まで感じたことのない、身の置きどころのないような感覚に、司は自分の身体が作り変えられてしまったようで落ち着かない気分になった。しかし、テレビの前を離れるという選択肢は存在せず、司は夢中で一つも取りこぼしが無いように流れていく映像をテレビにかぶり付いて見つめていた。そして、見入っているうちに自分もこんな風に氷の上で己の身体を自在に操ってみたい、と湧き上がってくる気持ちは無視できない程に大きく膨らんでいった。
気付いた時には番組は終わっていて、深夜の放送終了を表すカラフルなモザイクがそこにはあった。仕方なく部屋に戻ったが、結局、布団に潜り込んでからも興奮のあまり寝付けず、画面の光が漏れないように布団の中でこっそりとスマートフォンでフィギュアスケートのこと、そして先程の青年、夜鷹純のことを調べ続けた。
分かったことはフィギュアスケートを始める適齢期を自分はとっくに過ぎていること、とてもお金のかかるスポーツだということ。そして、夜鷹純は出場する大会全てで金メダルを取り続けるという伝説的な記録を残しながら二十歳という若さで惜しまれつつも突然引退して、その後は表舞台に姿を現していないということだった。
司の家は困窮している訳ではないが、司も含めて男四人の子供達がいる家庭にフィギュアスケートを習うような金銭的な余裕はないことはまだ子供の司にも分かっていた。年齢的にも経済的にもフィギュアスケートを始めるのは厳しいこと、ならせめても、と思った夜鷹純の生の演技を見るという希望も叶わないと知り、司は落胆しながら朝方にやっとのことで眠りについた。
しかし、司はわずかな希望を捨てきれなかった。
遅咲きのトップアスリートは世の中に多くはないが少なからず存在する。そして司自身、運動能力に多少の自信があった。幼い頃から一度見た動きは大抵再現することができたし、スポーツは人並み以上にできると自負している。ただ、金銭的な事情からから習い事をしたいとは親にはなかなか言い出せず、結局なけなしのお小遣いを握り締めて放課後にスケートリンクに通う日々を送っていた。
それから司は学校以外の時間のほとんどをスケートために注ぎ込んだ。暇さえあれば夜鷹純の動画を再生して、リンクに通えない日は人気のない公園で見様見真似で踊ってみたりもした。スケートの基礎は図書館で借りた教本とインターネットで調べた知識を総動員して少しずつ形にはなってきた。
だが、それは全くの初心者から多少滑れる程度になっただけで競技者としてのレベルには到底達していなかった。司自身もそれは痛感していた。もしかしたら自分にはスケートの才能があるかもしれない、独学でも才能があって努力を積み重ねれば心優しい誰かにそれを見出してもらえるかもしれない。そんな子供らしい甘い考えは一人でもがいている中で粉々に打ち砕かれかけていた。
正しく導いてくれる人が必要だとこの数ヶ月で司は嫌というほど思い知っていた。それでも諦めきれずリンクに通い続けたのは、夜鷹純への憧れと氷の上の世界への渇望が司を突き動かし続けていたからだった。
「ねえ、君」
フェンスにもたれてお手本にしている動画と先程、自分を撮影した動画を交互に見比べていると見知らぬ男が声を掛けてきた。時々こういう大人がいるのだと司はこの数ヶ月で学んでいた。純粋に一人で頑張っている司へ親切心からアドバイスをしようとしてくれる人だったり、ただ自分の知識をひけらかしたいだけの人だったり。この人はどちらだろうか、できれば前者だとありがたいんだけどな、と司は無視することもできず男の方を振り返る。立っていたのは大学生くらいの年齢だろうか、軽薄そうな笑みを浮かべた若い男だった。
「男の子だからどうかなって思ったけど案外可愛い顔してるじゃん。こんな公共の場でフェロモン匂わせて、大胆だなぁ」
どうやら今まで出会ったどのタイプとも違うらしい。それは直感的に分かるのだが男が話している言葉の意味が何一つ理解できなかった。独特の男の雰囲気にとにかく気持ち悪い、この場から逃げ出したい、それだけが司の頭の中で渦巻く。下卑た笑顔で司に伸ばしてくる手に「ひッ……!」と引きつった声が漏れる。助けを求めようと周囲を見渡すが、人の多い夕方のリンクでは皆、自分のことに必死で司の異変には気付いていないようだった。避けようと思ってよすぐ後ろにはフェンスがある。逃げられないと諦めかけたその時、
「何してるの?」
第三者の声が聞こえてきた。リンクサイドには黒尽くめで、もう日も落ちかけている時間だというのにサングラスを掛けた男が立っていた。ともすれば不審者に見えないこともないが、不思議と嫌な雰囲気を感じない黒尽くめの男に、とにかく助かった、と司がほっとしたのも束の間、両者は司を挟んで言い争いを始めた。
「お兄さんもこのフェロモンに引き寄せられたクチ?たまんないよな?」
「その下品な口を閉じなよ。彼は僕のものだよ」
「あぁ!?先に目ェ付けたのは俺だろうがよ!」
「僕はここに来る前から彼を知っている」
「マーキングもしてねぇ癖にそんな言いがかりが通じるかよ!?」
「はぁ……埒が明かないな。もういいや、君も斑類の端くれなら僕の顔くらい見覚えがあるよね」
深く溜息をついた黒尽くめの男が仕方ないと言わんばかりの態度でサングラスを外す。その顔を見て先に司に絡んできた男は急に態度が大人しくなった。
「なっ……お前……!?」
「これでもまだ足りない?」
そう呟くと急に場の空気がじっとりと重たくなったように感じた。言いようもない威圧感を黒尽くめの男から感じて司はその顔を直接見ることができなかった。それは先程までケンカ腰だった男も同じだったようで何事か捨て台詞を吐きながら、司の傍から逃げるように遠ざかって行った。
司は二人の男に挟まれて、結局何も出来ずにオロオロと行く末を見守っていただけだったが、どうやら黒尽くめの男が助けてくれたようだ。男が逃げると不思議と空気がふっと軽くなり、司はお礼を言おうとようやく黒尽くめの男の顔を見上げる。
そこにはこの数ヶ月司がずっと追いかけ続けた男が立っていた。二年前のオリンピック、そして引退しているのでそれ以前の動画だけだが、繰り返し見ていたそれよりは少し痩せて髪も伸びているように見えるが、そこに立っているのは間違えようもなく夜鷹純その人だった。
「ぇ…………よ、夜鷹、純……!?」
「なんだ、僕のこと知ってるんだ。なら話は早いね」
信じられない状況に司は混乱し、今自分が立っているのは慣れない氷の上だということをすっかり失念していた。そして驚いた拍子にうっかり足を滑らした。
夜鷹も目の前で足を滑らした司に驚いて一瞬遅れて手を差し伸べたが、その手を司は掴み損なった。やばい、と司が思った時には背中から頭にかけて鈍い痛みが襲った。したたかに打ちつけた頭は脳が揺れるような衝撃だった。そのせいか慌ててリンクに降りてきた夜鷹の姿に重なって大きな鳥の影が見えた。
頭を打つと幻覚まで見えるようになるんだっけ、とまとまらない思考でよく分からないことを考えながら視線だけを横にずらすと一般滑走で滑っている人々が全員猿に見えた。いよいよやばいかもしれないと、夜鷹に視線を戻すとやはり鳥の影は消えずにそこにある。せめて最期くらい推しの顔をはっきり見させてくれよ、と謎の憤りを覚えながら司の意識は静かにブラックアウトした。
◇◇◇
目が覚めると視界には見知らぬ天上が広がっていた。ツンと鼻を突く独特の匂いと、おぼろげながら蘇ってきた意識を失う直前の記憶で、ここは病院かと思い至る。視線を巡らせるとどこかのホテルの一室だと言われても疑わないくらい広い部屋に司は一人のようだった。家の煎餅布団よりも明らかに上質なマットレスは寝心地が良いが、こんな上等な個室に入るだけのお金は司の家にあるはずが無い。意識を失っている間だけの措置ならば早く回復したことを知らせなければ、とどうしていいかも分からず取り敢えず身を起こす。あれだけ派手に転んだ割には打ち付けた背中が僅かに痛むだけでそれ以外は至って健康そのものだった。部屋の外に誰かを呼びに行けばいいのだろうか、そう言えば病室ならばナースコールが置いてあるはずだとぐるぐると考えながらベッド回りへ視線を向ける。その時だった。
「目が覚めたの?」
声がした方を向くと病室の入口と思われるところに黒尽くめの男、いや夜鷹純が立っていた。夜鷹の姿には意識を失う前と変わらず鳥の影がダブって見えて、実はまだ夢の中にいるのか、頭を打って気がおかしくなってしまったのかと司はぼんやりとその影を見つめていた。
「気分は?どこか痛むところは?」
矢継ぎ早な質問に気圧され、聞きたいことはたくさんあったはずなのに司は戸惑いながら「いえ、大丈夫です……」と答えることが精一杯だった。
「そう、良かった」
始めて顔を合わせた時から夜鷹の表情は少なかったが、今はどこか安堵しているように見えた。
「医者を呼んでくるからまだベッドから動かないでいて」
それだけ告げると夜鷹は結局病室には立ち入らずにすぐに踵を返してしまった。
次に夜鷹が帰ってきた時には初老の医師と年若い看護師と一緒だった。そして、医師はワニに看護師はネコのような動物の影がかさなっていた。やはり頭を打った拍子にどこかおかしくなってしまったのだろうか、と不安に思いながら診察や経過の説明、簡単な入院生活の案内についてを聞いていく。
この部屋はリンクでの事故に責任を感じた夜鷹が費用を持っていること、そして医師の見立てでは司は頭を打った際に一時的に気を失っていただけでそれ以外は至って正常だと教えられた。しかし、ならばこの目に見えている世界は異常ではないのだろうかと思うが、医師や看護師の話に割って入って質問するタイミングはなかなか訪れなかった。
「これが、最後。そしてこれからの明浦路さんにとって一番大事な話です」
一通り説明が終わったかと思ったが、医師が改まって居住まいを正して話し始めた。気付けば看護師は部屋から居なくなっており、室内には司と医師、そして夜鷹の三人だけになっていた。何を言われるのだろうかとドギマギとしながら医師の次の言葉を待つ。
「明浦路さんは斑類、という存在をご存知でしょうか?」
斑類、司の記憶が正しければリンクで夜鷹がそんな言葉を発していた気がする。だが、それが意味するものが何なのかは分からずゆっくりと首を横に振った。
「そうですか……ではやはり先祖返り」
医師は低い声でぼそりと何事か呟いた後、司の知らなかったこの世界の理についてを説明し始めた。この世界の人口の七割は類人猿から進化した猿人、残り三割の猿以外の動物の遺伝子を持って進化した斑類と呼ばれるのだということやその生態について簡単に語った。そして、何故か猿人だった司が突如、斑類として目覚めたのだと説明した。
あまりに突拍子の無い話に司の脳内は混乱しきっていた。意味が分からない。いっそリンクでの出来事から全てがドッキリだと言われた方が良かったかもしれない。
「その、猿人だった人が俺みたいに急に斑類になることってよくあるんですか?」
身に起きた変化は到底すぐに受け入れられるものではなかったが、せめて同じような体験をした人間がいれば少しは気持ちも楽になるかもしれない、と司は僅かな望みをかけて医師に問い掛ける。
しかし、医師の答えは“NO”だった。
「いいえ、私も斑類の医師としてそれなりに働いてきましたが実物の先祖返りを見るのは初めてです」
「先祖返り……?」
「はい、ごく稀にですが、明浦路さんのように猿人として生活していた人が何らかの拍子に後天的に斑類として目覚めることをそう言います。今回は頭を強く打ったことがトリガーになったかもしれませんし、それ以前に何かきっかけがあった可能性も否定できません。もしかしたら明浦路さんのご先祖に斑類の方がいたのかもしれませんね。原因ははっきりとは分かりませんが、これから明浦路さんには斑類として生活していくために専用の施設でトレーニングをしてもらうことになります。表向きはこの病院で怪我の療養をしているということにして」
「じゃあ俺が今見えている動物みたいなものが魂元……?」
「そうなりますね。先祖返りの力がコントロール出来ていない今、必要以上に見えてしまっているようです。ちなみに私は何に見えますか?」
「ワニ、に見えます」
「正解です。私はワニの特性を持つ蛟に分類される斑類です。先祖返りは重種よりも強い力を」
「それで、あの……家にはいつ帰れますか?」
「基本的な斑類としての知識や魂元、明浦路さんの中のヒト以外の動物の精神、のセーブを身に付けて、社会適応能力テストというものに合格することができれば帰ることはできます。期間としてはおおよそ半年程度でしょう。ただ、斑類であることを隠し猿人の中に溶け込んで生活するのは生態も違いますし困難が多く……」
「ねえ、そのことについてなんだけど」
黙って二人のやり取りを聞いていただけだった夜鷹が急に話に割り込んできた。司を助けた恩人とはいえ、そういえば家族でもない夜鷹が何故、デリケートな話をしている病室に残っていたのだろうと司は首を傾げる。
「適切なコーチングが受けられる環境なら必ずしも施設に入る必要は無いんだよね?」
「ええ、そうですが……」
「なら僕がこの子を引き取るよ」
え、と司が声を上げるのとほぼ同時に医者も驚きの声を漏らした。
「重種の僕が手ずから魂元の扱い方を教えるんだ、不足はないはずだよ、知識の方もね。生活面も責任を持って面倒を見るし、夜鷹の家の力をもってすれば先祖返りを保護して囲い込もうとするうるさい連中も黙らせられる。それに、」
話の途中で夜鷹が言葉を区切る。医者と話していた夜鷹の視線が司に向けられる。月のように静かな、それでいて確かな輝きを持つ金色の瞳に真っ直ぐに見つめられて司に緊張感が走る。
「スケート、やりたいんでしょ?」
予想外の言葉に司は目を丸くした。スケートは確かにやりたい、だがそれが今の話となんの関係があるのだろうか。疑問に思いながら僅かに首を傾げて金色の瞳をじっと見つめ返すと夜鷹の口が続きを紡ぐために開かれた。
「施設に入れば当然、テストに合格するまで自由に外出はできない。もちろんスケートもできない。だけど僕の庇護下で斑類としての生き方を学ぶというなら僕が君にスケートも教えてあげる」
司にとっては思ってもみない提案だった。
どちらにせよ斑類としての新しい生き方を受け入れ、適応しなければ司に自由に生きる権利はない。ならばスケートのできない施設よりも夜鷹の下でスケートのできる生活を選ぶのが良いに決まっている。さらに、夜鷹の言葉を信じるのならば、司の憧れである夜鷹が直々に司のスケートのコーチをしてくれるというのだ。この提案に乗らない手はない。しかし、夜鷹には全くメリットのない、司に都合の良すぎる条件ばかりで、それが逆に司の中に躊躇いを生んだ。
「夜鷹、さんは、その……なんで俺にそんなに良くしてくれるんですか?」
生まれた疑問から目を逸らしたまま夜鷹の手を取ることも、上手くオブラートに包んで尋ねる事もできず、司はありのままの疑問を夜鷹にぶつけた。
すると、夜鷹はわずかに顔を顰めたかと思えば、医師の方を振り返ると「ここから先はプライベートな話だから席を外してくれる?」と鋭い視線と口調で半ば無理やり医師を追い出した。
医師が病室を出ていくと夜鷹はベッドの脇においてあった椅子に腰掛けて、深い溜息をついた後ゆっくりと口を開いた。
「君を引き取って斑類としての教育をすることもスケートを教えることも嘘じゃない。ただその代わりに僕の願いを一つ聞いてほしいんだ」
「願い……」
重々しく話す夜鷹にどんな要求をされるのかと司は息を詰めて次の言葉を待った。
「そう、君には僕の子供を産んでほしい」
「子供!?俺、見ての通り男ですけど……」
至極真剣な表情の夜鷹の口から飛び出した予想だにしなかった言葉に、司は最初、自分の聞き間違いか夜鷹の言い間違いかと思った。が、そうではないらしい。素っ頓狂な声で聞き返した司に夜鷹は当然だと言うように肯定した。
「さっきの説明で斑類が猿人に比べて数が少ない原因は繁殖力の低さだって説明があったよね?」
夜鷹の言葉で司は先程の医師の説明を思い出して戸惑いながらも頷く。斑類は猿人に比べると繁殖力が極めて低い。そしてその性質は軽種よりも重種、階級が上がれば上がるほど顕著になる。そして、軽種と重種が交われば高確率で生まれる子は軽種となるらしい。斑類にとって階級は絶対で、とにかくどの家も重種の子供が欲しいのだと言う。
「それを少しでも解消するために僕達斑類は同性間でも子供を成せる技術を生み出したんだ」
だから司でも子を産めると言うのだ。俄には信じがたい話だが、もはや斑類や猿人といった話からしてあり得ないことが今日は起こり続けているのだ。同性で子供が作れるくらいわけもない、のかもしれない。
「でも……なんで俺、なんでしょうか?」
司は当然の疑問を口にした。
司は夜鷹を数ヶ月前にテレビで見て知ってからずっと憧れていていた。だが、夜鷹にとって司はタチの悪いナンパから助けただけの初対面の子供だ。何故、司との間に多大な金銭や労力を支払ってでも子供を成したいと思うのか理解できなかった。
「……君が先祖返りだからだよ」
少し躊躇うような素振りを見せてから夜鷹は話し始めた。
「先祖返りは猿人と斑類両方の特色を持つ。つまり猿人並みの強い繁殖力を持つ斑類だ。しかも、先祖返りは重種よりも階級が上だ。重種と交われば生まれる子は必ず重種になるという訳。そして、僕の家は絶滅寸前の鳥の斑類である翼主の家系。家を存続させるには後継ぎが必要だ。生憎僕は一人息子、しかも重種でね。成人しても子供の一人もいない。でも君との間に子を設けられればその問題も解決できる。しかも子供は必ず重種となれば家も安泰だ。だから僕は君が欲しい」
「そんな身売りみたいな……それに生活の面倒だけじゃなくてスケートまで教えてもらうような価値、俺にあるんでしょうか?」
スケートにかかる費用は莫大だ。もし司が望むように選手として氷の上で生きることが出来るとするならば尚更だ。夜鷹家の念願の跡継ぎの子を産む可能性が司にあるとして、生活費だけでなくスケートのコーチに費用までとなるとどう計算しても釣り合わないような気がする。
「斑類の間ではこういった契約関係は一般的だよ。繁殖力の低さを補うためや、階級の高い子を産んで家の力を強めるために金銭で種や腹を買ったり、ね。種なら一千万、腹なら五千万が相場かな。でも君は先祖返りだから、希少だしもう少し値が張るのかな」
「ごっ……!?」
聞いたこともないような額に司は目を白黒させる。
「つまり、君のここ胎には今、少なくとも五千万の価値があるってこと。僕が君にここまでする理由、理解できた?」
ここ、と言って夜鷹が布団の上から司の下腹部辺りを指差す。
「未成年に手を出すような趣味はないから君が成人するまで……そうだな、二十歳のオリンピックまで、僕は君のスケートのコーチをするし、生活の面倒も見る。その代わり、君はそれまで誰のものにもならないし、その時が来たら僕の子供を産むと約束してほしい」
再度、司に同意を求める夜鷹の言葉を司は慎重に頭の中で整理していく。司が成人するまで大体あと六年。その間、私生活もスケートも夜鷹に頼りきりになる代わりに誰にも身体を許さず、夜鷹の子を産む。
夜鷹の話の五千万円と言うのが正しいのならば、この取引は荒唐無稽に見えて、案外理に適っているのかもしれない。それに夜鷹の思惑がはっきりすれば司がこの提案を飲まない理由がなかった。
「分かりました。スケート選手になれるんだったら覚悟を決めます」
「そう、僕の指導は厳しいからね。これからよろしく、司」
挑戦的に僅かに口の端を吊り上げた夜鷹が手を差し出す。その手を司は迷いなく真っ直ぐ夜鷹の目を見つめながら強く握り返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
「これからよろしく」と夜鷹は言ったが、事はそう簡単には運ばなかった。
司はまだ未成年、ましてや義務教育課程の真っ最中で何をするにも保護者の許可が必要だった。だが、猿人の司の両親に「今日からあなたの息子は斑類として生きます。そのために夜鷹純という強い力を持った斑類の家に引き取られることになります」と伝えることもできず、伝えたからといって信じてもらえるはずもなく、司の両親と夜鷹の交渉は難航し、処遇はなかなか決まらなかった。
なかなか退院が決まらず、もどかしい思いをしている司への配慮からか、特別措置として病室で斑類についての基本的な知識を身に付けるために講義を受けることができることとなった。
夜鷹が自ら司の面倒を全面的に見る、と豪語したので司はてっきり夜鷹が直接教えてくれるものだと思っていた。だが、夜鷹は司を引き取るにあたって色々とやらなくてはいけないことがあるらしく、どこからか自身の代わりとなる人材を連れてきた。
名前を金弓美蜂と名乗ったその人は、子供の司にも丁寧に接するその姿勢と、豊富な知識を惜しみなく、分かりやすく教えてくれる講師としての優秀さで、司は数回講義を受けた頃にはすっかり信頼を寄せていた。
「では、今日は魂元とそのコントロールの方法について学んで行きましょう」
怪我をしたことへの考慮もあってか、病室で行われる一日二時間に満たない講義だったが、それにも司が慣れてきた頃、座学ばかりだった講義に魂元のコントロールという実践的な内容が加わった。
元気良く「分かりました!」と返事をする司の隣に夜鷹がいるのが当然といった顔をして座っていた。多忙故に美蜂に講義を任せたはずの夜鷹は、蓋を開けてみれば何故か必ずと言っていい程、講義に同席していた。最初は威圧感のある夜鷹に戸惑っていた司と美蜂も、座っているだけであまり口を挟んでこないので今では全く夜鷹を気にせずに講義を進行していた。
「明浦路さん、魂元について知ってることを教えてください」
「はい、えっと……ヒトが持つ動物の魂のこと、ですよね?」
「そうです。猿人であれば猿、斑類であればそれぞれの特性を引き継いだ動物の魂を持ちます。猿人はこの魂元を認識することができないので斑類の存在を知ることがないのです。そして魂現という言葉もありますが……こちらは実際に見て頂いた方が早いですね」
今までの講義の内容を思い出しながら司が辿々しく質問に答えると、美蜂はそれに頷いたあと丁寧な言葉で説明を補足していく。そして、目を閉じてふっと体の力をかと思うと人の姿だった美蜂があっという間に大きなヘビへと姿を変えた。
「ひっ…………!!」
ニョロニョロとした生き物が苦手な司はいきなり現れた大蛇に驚いて、思わず近くに座っていた夜鷹の腕にしがみついた。夜鷹の長い指が司の目元を覆い「大丈夫だよ」と低く落ち着いた声で諭される。
「すみません、驚かせてしまいましたね」
美蜂の声で夜鷹の手がずらされゆっくりと視界が明るくなる。宥めるように夜鷹に頭を撫でられ、視線を向けるとそこにはもう大蛇の姿は無かった。
「俺の方こそ、すみません……」
「ヘビは苦手ですか?」
気遣わしげに尋ねる美蜂に司は遠慮がちに頷く。
「司、魂元が出てる」
「えっ!?」
夜鷹の言葉に慌てて司が尻と頭を抑えると、確かにそこにはふさふさとした長い毛並みの尻尾と三角のピョコリと立ち上がった耳が生えている感触があった。
司の魂元を見て美蜂は驚いたように目を見開き、夜鷹は不機嫌そうに眉を顰めた。
「明浦路さんの魂元は、」
「犬神人。中間種のゴールデンレトリバーだよ」
「いや、でも……あれは」
「ゴールデンレトリバーだ」
納得できないと言いたげな美蜂の言葉を遮り、夜鷹が鋭い眼光で威圧する。大人二人の不穏な空気に司が不安そうにキョロキョロと二人の顔を見比べると、美蜂が根負けしたように「そうですね」とだけ小さく漏らした。
切り替えるように一つ咳払いをすると、美蜂いつもの調子で講義に戻った。
「想定外でしたがちょうど良かったです。私が先程見せたもの、そして今の明浦路さんのように魂元が何らかの拍子に身体の外側へ現れることを魂現といいます。今回は特別に見せてみましたが、本来は魂現は猿人の感覚で言うと裸になることに相当するほど恥ずべきことです。なので、まずはトレーニングでコントロールの仕方を身に付けていきましょう」
それが斑類として一般社会でこの先生きていくための最低条件だと言われ、司は退院を待つ間の時間のほとんどをこの技術を身に付けるために費やすこととなった。
退院の許可が下りたのは司が入院してからそろそろ二週間が経とうとしていた時だった。
魂元のコントロールもほぼ問題なく行えるようになった頃、ようやく司の両親と夜鷹との間で話がついたらしい。
特別な許可により、退院前に久しぶりに顔を合わせた家族に司は懐かしさは感じても、どこか自分とは違う、異質な存在に感じて不思議とこの先の離別への悲しみは湧いてこなかった。
司の両親の話によれば司はスケートリンクで事故にあい、しばらく意識不明だったということになっていたようだった。夜鷹は事故の直接的な加害者ではないが一端を担っていることへの責任、そしてたまたまリンクで見かけた司の中のフィギュアスケートの才能を見出したことで、多額の金銭を司の両親に渡す代わりに司の親権を放棄し自分の手元で育てられるようにしたいと申し出たらしい。男ばかり四人の子供を抱えて、生活が苦しい司の両親にとって提示された金額は魅力的なものだったが、息子を売るような行為への罪悪感からか、しばらくは渋っていたようだった。だが、フィギュアスケートを始めるには遅すぎる司の年齢を考えると遅れを取り戻すためにコーチである夜鷹の元で寝食を共にするのが効率の面でも良く、優秀な後継を育てることは夜鷹にもメリットがある、そして司もそれを強く望んでいるのだと主張すると、両親は最後には「息子をよろしくお願いします」と頭を下げたそうだ。
息子への申し訳なさもあるのか、言い訳をするようにうっすらと涙を浮かべて言葉を並べ立てる両親を司はどこか冷めた気持ちで見つめていた。それでも今まで育ててもらった恩もあるので、ひたすら謝罪と幸せになって、という言葉を繰り返す両親に努めて笑顔で「気にしてないよ、今までありがとう」と離別を告げた。
そう、気にしていないのだ。
今、司の心を占めているのはこの先に待っている憧れの人の傍で氷に全てを捧げることのできる生活だった。
◇◇◇
あっさりとした両親との別れを終えて退院した司が向かったのは夜鷹の自宅だった。夜鷹が呼んだタクシーの中で司は今後への期待と、多少の不安を胸に抱いていた。
夜鷹は悪い人ではない、ということは入院生活の中でも実感していた。司の両親とのことや様々な手続きで多忙な筈なのに、可能な限り病室にほとんど毎日顔を出してくれた。しかし、本を読んだり勉強をしたりする司の近くにむっつりと黙ったまま座っているばかりで、もともと無口な質なのか、今後の“契約”のために見舞いに訪れているだけなのか分からなかった。司が話しかければ「うん」「そう」「へぇ」と短い相槌は返ってくるし、微笑むような表情を見せることもあるが、自発的な話は必要最低限だった。
“契約”があるのでそう簡単には追い出されるようなことはないだろうが、それでも上手くこの先やっていけるのだろうかという不安は司の中に常にあった。
タクシーの中でも夜鷹は一言も発さず、窓の外を眺めているが、その横顔はいつもよりも険しく見え、司の不安は大きくなっていた。
斑類の重種というのは特別な能力や権力を持ち、名家の出身であることがほとんどだ。夜鷹も例に漏れず由緒正しい血を引き、莫大な資産と力を持つ家を継ぐべくして産まれた人間だった。
流石というべきか、タクシーが止まったのはその家の名に恥じぬ高級マンションのエントランスだった。最上階のワンフロア全てが夜鷹の住まいらしい。
夜鷹に連れられてエントランスの中へ足を踏み入れた瞬間、ふわりと爽やかでいてどこか落ち着く香りが鼻をくすぐった。明らかに家にあるものとは違う柔らかな毛足の絨毯の感触、周りを見渡せば、シンプルながら品の良い調度品、ロマンスグレーの髪を撫でつけたコンシェルジュだという物腰の柔らかな紳士いる。カードキーをかざすだけで目的の階まで自動的に運んでくれるエレベーター等々、見たことの無いものばかりの光景に、無言のままずかずかと足を進めていく夜鷹の後ろで司は文字通り住む世界が違うとはこういうことを云うのかと圧倒されていた。
玄関の前までくると夜鷹は一度立ち止まった。
鍵を持ったまま固まる夜鷹に何事かと司が見上げるが背後からはその表情を窺うことができない。
「部屋、散らかってるけど気にしないで」
少しの無言の後、夜鷹はそれだけ言うとカードキーをドアにかざした。
入口のドアをくぐるとゴミ一つ落ちていない美しい大理石の玄関には2足の黒い革靴が並んでいるだけだった。先程の散らかっている、という発言はなんだったのだろうかと思いながら、司は履き古して薄汚れた、そろそろサイズアウトしそうなスニーカーがどう見てもこの場にそぐわなくて、まごつく。夜鷹に「上がって」と急かされたので仕方なくなるべく端の、目のつかなそうな場所に揃えて脱いだ。
玄関から真っ直ぐのびる廊下の左右にはいくつかドアがあり、通り過ぎる度に夜鷹が「ここが風呂」「トイレはこっち」と簡潔に言葉を足していく。
多くを語ろうとしない夜鷹に、一度で覚えようと司が必死に説明を頭に入れながら後をついて歩いてると気付けばリビングにたどり着いたようで、急に立ち止まった夜鷹の背中に司は危うく衝突するところだった。
「部屋が散らかっている」と夜鷹は言ったが、豪奢なエントランスにシンプルながら美しい玄関、長い廊下にそんな様子はなく、夜鷹なりの謙遜だっのだろうかと考える。きっとこの先にあるリビングもさぞセンスが良くて美しい部屋なのだろう、と期待して顔を上げた司の目に入ったのはそこかしこに散乱する段ボールとヒビ割れたテレビの液晶画面だった。
「ぇ…………」
辛うじてソファーやダイニングテーブルといった一般的な家具、そして何故か部屋に鎮座するグランドピアノも確認できるが、目に入ってくるのはどうにも荒れ果てた印象だった。思い描いていたものとはまるで違う光景に素直な司の口から思わず声が漏れる。その声にマンションに入ってからずっと前を歩いていた夜鷹が振り返り、久方ぶりにその金色の瞳と視線が合う。
夜鷹の視線に司があっ、と思った時にはもう遅く、両手で口を押さえるが、出てしまった声はもう取り返しがつかなかった。気分を害してしまっただろうかと上目に夜鷹の表情を窺い見るが、普段通りの無表情で、その奥で夜鷹が何を考え、感じているのか司には推し測ることはできなかった。
「荷物、あそこに適当に置いて」
ふい、と顔を背けた夜鷹に、怒ってはいないのかと内心安堵して、司は慌てて手に持った荷物を指示された場所に持っていく。指定されたのはリビングのすぐ隣にある部屋のようだった。荷物といっても司の持ち込んだ物は、あの倒れた日にスケートリンクに持ち込んでいた財布やスマートフォンの入った貴重品のは入ったバッグと両親との面会した際に家から持ってきてもらった当座の着替えや手放したくない物が入ったキャリーケースだけだったのでさっさと部屋に入れてしまおうとリビングとを仕切るドアを開ける。
「ここ、司の部屋にする予定だから」
ドアを開いた司が部屋を覗き込むとそこはリビング同様、いやそれ以上に無造作にたくさんの段ボールが積み上げられていた。
「あの、この荷物は……?」
「ああ……ここにも使ってない荷物が置いてあるんだった。司の両親との話し合いが思った以上に早く終わったから家のことまで手が回らなかった……いや、これはただの言い訳だな」
司に話しているようでどこか独り言ちるような雰囲気の夜鷹の声には少し沈んだ響きを感じて、司はわざとらしく明るい声を上げる。
「俺、部屋なくても大丈夫ですよ?うちでも兄弟が多くて一人部屋なんてなかったですし!適当なところに荷物と布団だけだけ置かせてもらえれば大丈夫です」
あはは、と笑ってみせるが夜鷹の顔色は曇ったままだった。体裁を気にするタイプなのかもしれない、と司は気まずい空気をどう打破するかを必死に考える。
「子供がそんな気を使わなくていい。部屋は余ってるんだ」
そう言って夜鷹の手のひらがくしゃりと司の髪をかき混ぜた。口調はぶっきらぼうだがその手付きや言葉には司を気遣うような優しさが滲んでいて。やっぱり悪い人じゃないんだよな、と不思議とじわじわと司の胸の奥も温かくなった。
「明日にでも業者に処分なり片付けるなりさせるからもう少し部屋使うのは待ってて」
「なら、使わせてもらいますね」
夜鷹の気遣いを無碍にするのも何か違う気がして、司が素直に頷くとそれでいいと言わんばかりに夜鷹が「ん」と満足そうに短く返事をした。
「ゲストルームもあるけど似たような状態だから今夜は取り敢えず僕の部屋で我慢して」
そう言うと夜鷹は司の置いた荷物をさっと持ち上げて司を置いて歩き出してしまう。慌ててその背中を追い掛けると大きなベッドが鎮座する部屋に辿り着いた。他の部屋のように段ボールが置いてあったり荒れている様子はないが、ベッドとモニターの置かれたデスクセット以外ほとんど家具がなく、生活感を感じさせないシンプルな部屋だった。
「ベッドの広さは十分だと思うから。遅いし今日はもう寝よう」
夜鷹の都合で司の退院は特例的に夜間だった。夕食も入浴も病室で済ませてしまっていたので、部屋着に着替えればもういつでも就寝できる状態だった。しかし――
「えっと…………」
夜鷹が早く寝ろと指し示すベッドは一つしかない。てっきり客用布団を敷くだとか、簡易ベッドのようなものがあるのだと思っていた司はまさかの同衾の提案に戸惑う。
夜鷹は司をただの子供だと思っているのか、一つの布団で寝ることに何も考えていないようだが、思春期真っ只中の多感な時期の司の方は憧れの相手、そしていつか子供を作ることになる相手といきなり文字通りベッドを共にする展開はさすがに気持ちがついていかない。必要以上に意識してしまい、恥じらいや戸惑い、様々な感情が胸の中を渦巻き返事に詰まる。
「……嫌なら僕がソファーに行くから」
「っ、それはダメです!」
反射的に出た司の声の大きさに夜鷹が驚いたように僅かに目を見開く。いきなり、しかも夜に大声を出すなんて、と司はハッとして一度口を噤む。恥ずかしいだけで嫌な訳ではない。けどできるなら別々に寝たい。そう上手く伝えられる言葉はないかと司は言葉を探して、先程よりも小さな声になるように気を付けて口を開く。
「えっと、夜鷹さんのお家で、ベッドなのにソファーで寝かせるなんて申し訳なくてできないです。身体にも良くないし……」
「その家主の僕がそれでいいって言ってるんだけど」
「えっと……それに、一緒に寝るのは、まだ、その……ちょっと、恥ずかしいかなぁ、って思ったり?」
「将来の予行演習だと思ってなれなよ」
「…………」
司が必死に絞り出した言い訳もああ言えばこう言う、といった具合に即座に夜鷹にやり込められ、言葉に詰まると沈黙が訪れた。どうしようか、そう思ったその瞬間、ぐぅ、と司の腹が小さく鳴った。
――なんでこんなタイミングで!
空気を読まない自身の身体に司は羞恥に赤面しながら慌てて腹を押さえるが、当然目の前にいる夜鷹にもその音はしっかりと届いていた。
「お腹空いてるの?」
「いや、その……えっと、」
夕食は病院でしっかり完食したのに意地汚く空腹を主張する身体を認めるのが恥ずかしくて目を泳がせる。
「誤魔化しも嘘もいらない。答えて」
先程から口ごもってばかりで答えようとしない司に苛ついたのか、夜鷹の纏う空気が一気に重くなる。その鋭い視線と言葉に耐えかねて司は渋々頷いた。
「少しだけ、ですけど……」
そう素直に司が答えればふっと部屋の空気が軽くなった。だが、夜鷹は思案するような顔のまま「そう」と呟くと黙ってしまった。
沈黙に耐えかねて司が口を開きかけた時、先に夜鷹が動き始めた。ベッドルームに入ったときと同じように無言のまま部屋を出ていく夜鷹に、その感情の変化が全く掴めず混乱のまま司も黙ってその後ろをついて歩いた。
リビングを通り抜けてキッチンに入ると夜鷹は真っ直ぐ奥にある家電の前まで進んで扉開けた。一見、冷蔵庫のようにも見えるそれは、扉が一つしかなく、流れてくるヒヤリとした冷気からして冷凍庫のようだった。何か食べ物を出してくれるのだろうか、と扉を開けたままその前に佇む夜鷹を少し離れた場所から眺める。手持ち無沙汰な司は辺りをキョロキョロと見回すが、冷蔵庫どころか鍋も食器も炊飯器すら置いていない生活感のカケラもないキッチンは雑多で物にあふれた生家とは大違いでなんだか落ち着かなかった。
しばらく冷凍庫の前に立っていた夜鷹が乱暴に音を立ててそのドアを閉めるとチッ、と舌打ちを一つした。夜鷹はくるりと身体の向きを変えると、ついてきていると思ってなかったのか、司の姿を認めると少し目を丸くしてからすぐに視線を逸らした。
「……ごめん、これしか無かった」
短い付き合いだが、珍しく歯切れの悪い様子で差し出してきた夜鷹の手にはラップに包まれた何かが乗っていた。
「これは……?」
「低温調理した鶏むね肉」
思わず司が尋ねると、いたって簡潔な回答が返ってきた。素材と調理法で返ってくるとは思わなかったので、低温調理した鶏むね肉、と司が心の中で復唱して言葉を咀嚼する。つまりコンビニで売っているサラダチキンのようなものだろうか、と司は自分の中でアタリをつけた。
全く我慢できない程の空腹ではなかったし、小腹が満たせればおにぎりだろうがカップ麺だろうが菓子パンだろうが何で も良かったので、夜鷹が申し訳無さそうに鶏肉を差し出してくる理由が分からず、内心首を傾げながらも司はありがたくそれを受け取ることにした。しかし、司が夜鷹の方へ手を伸ばすと夜鷹は何とも言えないような顔をして手を引っ込めた。
「あの……」
くれると思った物を直前で引っ込める、子供のイタズラのような行為をする夜鷹司は困惑しながら上目で見つめる。気まずそうに逸らされた視線は相変わらず交わらないままだったが、ようやく重々しく夜鷹が口を開いた。
「これ、食べたいの?」
「はい」
「美味しくないって慎一郎くんとエイヴァ……僕の友人とその奥さんにも言われたんだけど、それでも?」
念押しするような夜鷹の態度に戸惑いながらも司は頷く。他に食べ物が無いのなら仕方がないし、腹が膨れればそれで良かった。家では仕事で多忙な両親に変わって司や兄が料理を担当することもあった。今でこそ食べられる味になったが、最初の頃は失敗もあって酷いものだった。それを思えば大抵の物は美味しく頂ける気がしたからだ。しかもそれを調理した人が憧れの人物であれば尚更。
「…………分かった。温めるから座って待ってて」
「ありがとうございます!」
少しの躊躇いの後、夜鷹がため息をついてついに折れた。キッチンを出て、リビングのソファーと少し迷ってからテーブルとセットになったダイニングチェアに腰を下ろした。傷の全くない美しい木目のテーブルやすぐ近くに置いてあるグランドピアノの物珍しさに目を奪われていると、キッチンからピーピーと電子音が鳴り、程なくして夜鷹が姿を現した。
正面に腰掛けた夜鷹が水の入ったペットボトルとラップに包まれたままの鶏肉を司の前へ置く。
「悪いけど皿もカトラリーもないからそのまま食べて」
「え、あ、はい、ありがとうございます……でも、あの、夜鷹さんは普段どうしてるんですか?」
皿どころか箸も、冷蔵庫すらない夜鷹の食事事情が気になり、失礼かもしれないと心の片隅で思いながらも好奇心に負けて司は尋ねた。
「基本的に食事は嫌いだから摂らない。タンパク質とサプリで栄養補給をしてる」
「へぇ……」
基本的に外食なのだろうか、となんとなく予想していた司は予想外の答えに、なんと答えればいあのか分からず曖昧な相槌しかできなかった。サプリとタンパク質、おそらくこの鶏肉がそのタンパク源なんだろうと司は手元に視線を落とす。
「必要な栄養素さえ摂れればいいから味は二の次だし、興味がない。だから、普通に食事を楽しめる司はそんなもの無理に食べなくてもいいのに」
ふてくされたような態度で夜鷹は自身の胸の前で腕を組んだまま、どこかぼやくような口調で漏らす。
「いっ、いただきます」
美味しくない、食べない方がいい、先程からしきりに繰り返される言葉に怯むような気持ちが頭をもたげるが、それを振り払うように司は手を合わせてからラップを剥いた鶏肉を手に取りかぶりつく。
「…………」
率直に言えば味がしなかった。
薄味とか塩味や旨味が足りないとかそういうレベルではなく、とにかく味が無かった。しっとりとした舌触りと弾力がありながらも柔らかい肉質の鶏肉は、きっと品質のいい物を使っているだろうことが司にも感じられた。味付けさえあれば最高の食事になっていただろう。せめて、塩か醤油でもかけられたら、そう思いながら無言で一口目を飲み込むとそれを待っていたかのように夜鷹が「分かったでしょ?」と呟く。
夜鷹の視線はテーブルの辺りを見つめたままで司の方を見つめることはなかった。
忠告を聞かない子供に呆れているのだろうか、と先程から不機嫌さをかくさない夜鷹に不安が乗募る。
「……美味しいですよ?」
「世辞はいらない」
夜鷹の機嫌を損ねてしまうのが怖くて気遣った言葉を掛けるが、ピシャリと跳ね除けられてしまう。ますます眉間のシワが濃くなっていく夜鷹に、失望されたくなくてどうしたものかと司の中に焦りが生まれる。
初日から夜鷹と険悪なムードになんてなるつもりなんて司には当然無かった。が、荒れた部屋に声を上げた、一緒のベッドは嫌だと駄々をこね、半ば強制的にだが、お腹が空いたと食べ物をもらった挙句美味しくないと態度に出してしまった、夜鷹の不機嫌の理由に司は心当たりがあり過ぎた。
挽回する策も思い浮かばず、とにかく手の中の鶏肉をもそもそと食べ進めることしか出来なかった。
「ごちそうさまでした」
完食した司が手を合わせると夜鷹は信じられないような物を見る目で司を見た。
「……全部、食べたの」
夜鷹の問いに頷くと、「そう」と答えらまた視線が外されるが少しだけ夜鷹の険しい雰囲気が和らいだ気がした。そこでふと、司は夜鷹の瞳が怒りよりも不安に揺れているように見えた。
そして、タクシーに乗った時からずっと夜鷹の不機嫌そうな雰囲気は感じていたが、それが怒りとして司に向かうことはなかった事に気が付く。
もしかして、と司は表情を探るように夜鷹の顔を注意深く見つめる。その刺さる視線が煩わしいのか夜鷹は司の方をちらりと見たあと、観念したように深くため息をついた。
「もう分かったでしょ?」
唐突な夜鷹の言葉に司はきょとんとしてその顔を見つめる。
「僕はスケート以外何もない」
心の内を吐露するように静かに吐き出されていく言葉に司はやっぱり、と思う。
夜鷹が言ったように司の退院は慌ただしく決まった。もともと怪我も体調も問題なく、本来はすぐ施設に入る予定だったところを夜鷹が自身の手元に引き取るために無理矢理病院に留め置かれていたにすぎない。司の両親の了解が取り付けられればすぐにでも退院する予定だったが、交渉は難航し、長引くことが予想されていたところで急に両親が翻意した。
恐らく、夜鷹は時間の掛かりそうな交渉の間に部屋を整え、司を迎え入れるつもりだったのだろう。その当てが外れ、準備が終わらないうちに司の退院が決まってしまった。“夜鷹純”に憧れの目を向ける司に理想とは程遠い姿を見せ、幻滅されてしまわないか不安で、そして事が上手く運ばないことに少し不貞腐れていたのだろう。
――不器用で、でも優しくて、少し可愛い人
まさか夜鷹純相手にそんな風に思うことがあるなんて、と考えるとなんだか可笑しくて、司の口元は無意識に緩んでいた。
「何笑ってるの」
夜鷹がぶっきらぼうに尋ねる。ともすれば冷淡に見える態度も、今の司には拗ねているようにしか見えなくて胸が奥がキュッとなるような気がした。
「俺、どんな夜鷹さんも好きですよ」
考えるよりも先に口に出ていた。好き、よりも尊敬している、や憧れている、の方が適切だったかもしれないと後から思うが、これが今の司の自然と出た素直な気持ちだった。
「生意気」
夜鷹はハッとしたように目を見開いた後に、少し目尻を下げて柔らかなに笑い、対面に座る司に手を伸ばしてぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜた。その手つきは口調に似合わず優しくて妙に心地良い。司はずっと張っていた気が一気に緩み、移動の疲れや腹が満たされたことも相俟って緩やかに夢路を辿っていく。
「司……ねえ、司?」
ガタリ、と椅子を蹴飛ばして立ち上がる音や夜鷹が掛けくる声は聞こえてるが、司はもう返事をするのも億劫になっていた。
「はぁ……仕方がないな」
どこか遠くでそんな声が聞こえたと思ったら、ふわりと身体が宙に浮く感覚がした。抱き上げられたんだ、重くないかな、抱っこなんて幼稚園生の頃以来かもしれない、夜鷹さんなんだかいい匂いする、ふわふわとした気持ちでまとまらない思考のまま、心地良い揺れに身を任せて司の意識は完全に夢の世界へと旅立っていった。
すごく幸せな夢を見た気がした。
まだ幼い司がこれまた今より年若く見える夜鷹に手を引かれて氷の上を滑る夢。気まぐれに鳥のように軽やかなジャンプを夜鷹は跳んでみせる。
「じゅんくん、すごいね!」
はしゃぐ司を見て夜鷹は目を細める。
「司もすぐ跳べるようになるよ。だって司は僕の――」
そこで夢は途切れて司はハッと目を覚ました。実家とも病院とも違う、見知らぬ天井に一瞬ここがどこか思い出せなくて混乱する。
ぼんやりとしていた頭が覚醒してきて、ここが夜鷹の家だということを思い出す。それから、咲夜は夜鷹と話している途中で不覚にも眠ってしまったことも思い出し、夜鷹がベッドまで運んでくれたのかと思うと恥ずかしいやら申し訳ないやらで司は複雑な気持ちだった。
くよくよしていても仕方がない、と気持ちを切り替えるように大きく伸びをして寝返りを打つ。そして、目の前に広がる光景に心臓がドッ、と跳ね上がった。
寝返りを打った司のすぐ隣には夜鷹の寝顔があった。
整った顔立ちは寝ていても健在で、その顔に惚れ惚れすると共に危うく声が出そうになる。慌てて口元に手をやって声を抑えるが、その甲斐なくふるりと長いまつ毛が揺れてゆっくりと夜鷹の瞼が持ち上がる。
「起きたの……」
掠れた声に話し掛けられるまで司は間近に見る金色の瞳孔に見惚れていた。ハッとして夜鷹の問いかけにブンブンと頭を上下に振る。
「……僕はまだ寝る。司もそうしたら?」
「いえ、俺は……」
「そう……夕方人が来る。インターホンが鳴ったら出ずに僕を起こして」
それだけ言うと夜鷹はまた瞼を閉じてとろとろとまどろむ。一人取り残された司は慣れない夜鷹の家での過ごし方も分からず、結局また夜鷹の隣に寝転んだ。しばらくは夜鷹の寝顔をじっくりと見つめたりしていたが、気付くと司もその隣でまどろんでいた。
夜鷹の言う通り夕方にインターホンが鳴った。
その音で目を覚ました司は、言いつけ通りに夜鷹を起こした。夜鷹はインターホンに向かって何かを二言、三言、話すと引っ越し業者のような作業服姿の男達が家に入ってきた。社会適応能力テストを受けていない司はまだ基本的に外出は制限されていたし、夜鷹や美蜂のような保護やコーチングを目的とした人以外との接触は禁じられていた。
夜鷹の部屋の中からそっと外の様子を窺うと、 男達はテキパキと部屋の中にあった段ボールや壊れたテレビを回収していに、今度は司の部屋にすると言っていた場所にベッドや机などの家具を運び込んでいった。そしてテレビも真新しい物に変わり、冷蔵庫も運び込んで作業が終わるとあっという間に帰っていった。
またたく間に、司に人生で初めての一人部屋が出来たのだが、寝室が別れてからも夜鷹は度々司のベッドに潜り込んでくることがあった。
夜型の生活をしている夜鷹は司がぐっすりと寝入っている朝方にベッドに入ってくるので、司は毎度起き抜けに夜鷹の美しい顔を至近距離で浴びることになった。毎回、心臓に悪いと文句を言うが、「体温が高くて司の隣はよく眠れるから」と褒めているのかいまいちよく分からない理由でいつも煙に巻かれては、またベッドに潜り込まれることを繰り返していた。
しかし、その事を除けば夜鷹との生活には不満もなく案外快適なものだった。
夜型の夜鷹が起き出す夕方までに司は通信制の中学の課題やオンライン授業を済ませたり、社会適応能力テストに向けての講義を受けたりしていた。結局、夜鷹は「スケート以外の事を人に教えるのは無理だ」と言うので病院に来ていた美蜂が引き続き夜鷹の家まで通って司を教えることになった。
そして、時間があれば家事や身の回りのことをした。夜鷹はそんなことはしなくていい、と言っていたが、昔から家の事は手伝っていたので大抵のことは出来たし、ただ世話になっていることへの申し訳なさがあった。何よりロングスリーパーの夜鷹が起きるまでの時間が長すぎて、一人でただ家に居ることに耐えられなかった。正直に理由を伝えれば司の気が紛れるなら、と渋々といった体だったが許された。もちろん、司も学業やスケートの傍らで家事をするので足りない部分は夜鷹が家事代行業者を頼むことで補ってくれた。
夜鷹が起きてからは家の中にあるトレーニングルームでストレッチやトレーニング、氷の上でなくても行える姿勢のチェックやジャンプ練習、バレエなど多岐にわたって夜鷹からみっちりと仕込まれた。
を一緒にした。夜鷹はその後、リンクの貸切に赴くことが多かったが、まだ公共の場への外出の許可がない司はそれを見送ることしかできなかった。夜鷹の帰りを待ちながら、家にある過去の様々なスケート選手の動画を見たり、趣味半分、芸の肥やしにするためが半分で映画や本を見て眠りに就く。司の日常はその繰り返しだった。
そんな日常に変化が訪れようとしたのは司が夜鷹と暮らし始めて一月程経った時だった。美蜂からとうとうテストを受ける許可が出た。
「来月、社会適応能力テストがあります。少し早いですが明浦路さんは座学も真面目に取り組んでいますし、根源のコントロールの吸収も早いので来月のテストを受けてみましょうか。これに受かれば外出も自由にできますよ」
美蜂の言葉にやっとこの時が来た、と司は目を輝かせて頷いた。テストに受かれば外出ができる、つまり夜鷹と共にリンクに行くことが出来る。
リンクでの事故から三ヶ月。最初は病院、その後は夜鷹の家で司は自由に外出もできないまま悶々とした思いを抱えながら過ごしていた。
便利な世の中なもので、夜鷹にも自由にしていいと許可されていたのでネット通販を駆使して、日々の日用品や食料、娯楽の調達には困ることは無かった。トレーニングもレッスンも今までの自己流のものを思えば格段に良い環境を与えられている。だが、やはり心は氷を渇望していた。
夜鷹とリンクに行けばその滑りを間近に見られる、直接指導してもらえる、そんなことを想像しただけで司はワクワクした気持ちが抑えきれなくなっていた。
「明浦路さん、魂元が出かかってます」
美蜂に指摘されて司は慌てて尻と頭に手をやる。幸い耳は出ていないようだったが、尻の辺りにふさふさとした豊かな毛に覆われた尻尾を感じた。それは無意識のうちに司の気持ちを表すようにブンブンと左右に揺れていた。意識を集中して気持ちを落ち着かせるとやがて尻尾はスッと消えていった。
魂元のコントロールがついていないと思われてテストを延期にされたらどうしよう、と司は不安に襲われながらちらりと講師を見遣る。美蜂は困ったように少し笑ってはいたが「感情の昂りにはもう少し気を付けていきましょう」と言うだけだった。
「司はペーパーテストは大丈夫そうだけど実技が不安だな。素直すぎる性格も考えものだね」
「純さん!」
「まあ耳が出なかったのは及第点かな」
ようやく起き出してきた夜鷹がリビングに現れ、くしゃりと頭を撫でられる。口では厳しいことを言っているが、夜鷹の口角は僅かに上がっていて、司の頭を撫でる手付きも優しいものだった。
共同生活の中で夜鷹と司の関係性も少しずつ気安いものになり、夜鷹はこうして度々司の頭を撫でることがあった。子供扱い、実際のところ子供なのだが、されているようで司は少し不満に思いながらもその優しい手のひらが触れる度にどこかドキドキするようなそわそわするような気持ちになった。
また、夜鷹の呼び方も変化した。もともと夜鷹のことを名字で呼んでいた司だったが、この先外に出ることを考えると一緒に生活しているのに名字で呼ぶのは不自然ではないか、と夜鷹に指摘されたからだ。それから司は「純さん」と呼ぶようになっていった。最初はなんとなく名前を口にすることに照れ臭さもあったが、こちらは慣れてしまえば案外なんてことはなかった。
「びっくりした時とか嬉しい時はたまに魂元が出ちゃうけど、俺だって最近はコントロール出来てるんですよ!」
夜鷹の言うように感情表現が素直すぎるところがある司はその感情に引き摺られるように魂現することが度々あった。だが、斑類としての生活に少しずつ慣れてきたこともあり最近では頻度が減っていた。胸を張って自信有りげに司は言い返すが、夜鷹は信じられないとでも言うように怪訝そうな顔で片眉を上げた。
夜鷹は司の魂元が外に出ることを極端に嫌がった。最初は斑類の感覚として魂現は裸になるようなもの、と教えられたこともあり、夜鷹はマナーに厳しいのかと思ったが、そういう訳でも無さそうだった。むしろシャワーの後に身体もろくに拭かず、裸のままリビングに現れる困った癖が治らないのは夜鷹の方だった。
一度、何故魂現をそこまで嫌がるのかを直接尋ねてみたが、「とにかくダメ。僕以外に魂元を見せないで、特に耳は」と頑なに魂現を禁止されるだけで理由を明かしてくれることはなかった。
夜鷹は秘密が多い、と司は思う。
あのリンクでの出会いは偶然だったのか、司の魂現を嫌う理由は何か、そして、時々夜にリンク以外のどこにふらりと出かけているのか。
本人は誤魔化せていると思っているのかもしれないが、夜鷹はあまり隠し事が上手ではないようだった。司と夜鷹の出会いは偶然にしては出来過ぎていたし、司の魂現に夜鷹は露骨に嫌な顔をする、リンク以外に出かけた日も知らない匂いをさせ、それを司に気取られないようにかいつものように一緒に寝ようとしない。
確実に何かがある、そう思うが、司も夜鷹の秘密に立ち入る勇気はまだなかった。
「そこまで自信があるならしっかり合格してね」
完全には司の言葉を信じていない様子の夜鷹に司は少しムキになり、「絶対に一発で受かりますから!」と声を張り上げた。
◇◇◇
「司、いつまで準備してるの」
「今行きますっ!」
夜鷹の声に司がドタバタとスポーツバッグを掴むと小走りで玄関に向かった。そこには既に革靴を履いた夜鷹が待っていて、早くリンクに向かいたいのか司の準備ができるのを今か今かと待っていたようだった。
いつもは落ち着きのある大人なのにスケートの事になるとどこか子供っぽい、そんな考えが頭を過ぎり思わずくすり、と笑いが溢れた。そんな司を見て夜鷹は不機嫌そうに眉根を寄せる。それを見て司は慌てて居住まいを正すと誤魔化すようにニコリと笑って「お待たせしました!」と明るく声を上げた。
司は先日のテストに無事合格し、晴れて自由な外出の許可が下りた。今日はとうとう初めての夜鷹とのスケートリンクでの練習だった。やっと氷に乗れる、基礎のスケーティングから教えてもらえるのかな、ジャンプとかもしちゃったりして、そうしたらお手本ってやっぱり純さんが……などと想像を膨らませていたらいつの間にか出発の時刻になっていたのだ。
司は期待と少しの不安を胸に夜鷹の隣でタクシーに揺られながらリンクへと向かった。
リンクに到着し更衣室で着替えを済ませると、司はようやく渇望していた場所に戻ってくることができた、と実感する。リンクサイドで立ち止まり、大きく息を吸い込むと肺の中まで冷たい空気に満たされていくのが分かる。
整氷したてのまっさらな氷は照明の光を受けて白く輝いていた。一般滑走の人混みしか知らない司は、氷が全ての音を吸収してしまっているかのようにしんと静まり返ったリンクは初めて見た。その美しさに心を奪われているといつの間にかスケート靴を履いた夜鷹がまっさらな氷の上を勢い良く滑っていった。
夜鷹は氷の感触を確かめるように軽く流しながらリンクを一周すると、一瞬でトップスピードまで加速していく。倒されたエッジが照明を反射してキラリと光ったかと思ったら夜鷹の身体がふわりと跳び上がった。ぶれない軸とお手本のような空中姿勢、そのままギリギリまで閉じていた体は四回転きっちり回りきった瞬間にパッと開いて着氷した。重力を感じさせない軽やかな着氷は現役時代と寸分違わない美しさだった。むしろ以前よりも研ぎ澄まされているようにさえ感じた。
何度も何度も画面の中に見つめ続けた夜鷹純の代名詞とも言われた四回転ルッツを目の当たりにして、その美しさと感動に司の目の端にはじわりと涙が滲んだ。だが、もうこの人に憧れているだけではいけない、これから追い付けるようにならなくてはいけないんだ、と決意を新たにするように、司は夜鷹の見ていない隙に練習着の袖で乱雑に涙を拭った。
「司、早くおいで」
何度かジャンプを跳び、満足したのか夜鷹がリンクサイドを振り返って手招きをした。気持ちはすぐにでも飛び出していきたいのにそうする訳にもいかず、司は戸惑いながらその場に立ち尽くした。
だってこのままでは氷に乗れない。
「司?」
あんなにリンクに行くのを楽しみにしていたのに、リンクサイドから動こうとしない司に怪訝に思った夜鷹が近くへ滑り寄ってくる。気遣わしげな視線を投げてくる夜鷹に司は泣き出しそうになる気持ちをグッと堪えて口を開いた。
「あの、靴が…………」
アルバイトもできない中学生の司にとって、少ないお年玉やお小遣いをやり繰りしてスケートの教本を買ったりリンクに通うのがやっとだった。高価なスケート靴を買う余裕なんてもちろんなく、貸靴を使用し、練習着なんて上等なものはなくていつも学校指定の体操服を着てリンクに通っていた。幼い頃からスケートが日常にあった夜鷹にとってそんな生活は想像もできなかったのだろう。スケートをやる人間なら自分のスケート靴なんてもっていて当然だ、と。だから、荷物の少ない司のために練習着は用意していてもスケート靴の用意は無かったのだろう。
「靴?」
夜鷹が司の足元へ視線を落とす。司の足元は薄汚れたスニーカーだった。衣服や日用品なんかは持ってきた荷物に加えて夜鷹が存分に買い与えていたが、今まで外に出ることもなかったので靴だけはリンクで夜鷹と出会った日のままだった。
傷こそあるものの、ピカピカに磨き上げられた夜鷹の黒いスケート靴の履き古して薄汚れたスニーカー。この対比も司の情けない気持ちに拍車を掛けた。
「持ってないの?」
悪気は無いのだろう、夜鷹はただ疑問に思ったことを素直に口にしただけだ。でも今はその純粋さが残酷で司はとうとうポロリと一粒涙をこぼした。一度こぼれると堰を切ったようにはらはらと次から次へと涙が落ちていった。
夜鷹は司の涙に一瞬ギクリと身体を強張らせ、それから焦ったように「ごめんね」と呟いた。夜鷹のせいではない、と伝えたいが涙でしゃくりを上げる喉のせいで上手く言葉にならず、司はただ首を横に振ることしかできなかった。
「明日、靴を見に行こう」
夜鷹の言葉に今度は必死に首を縦に振る。それに少しホッとしたような息を漏らして、夜鷹は荷物の中からボックスティッシュを取って司に差し出した。遠慮なくティッシュを二、三枚引き出して涙を拭ってついでに鼻もかむ。少しすっきりすると司は急に小さな子供のように些細なことで泣きじゃくってしまったことが恥ずかしく感じて、俯いたままようやく出るようになった声で「……すみません」と小さく呟いた。
「もともといずれは僕の靴を任せてるメーカーに司の分も頼もうと思ってたところだし気にしなくていい」
フォローするように夜鷹は赤くなっている司の目元を優しく撫でると再び氷の上へ向かっていく。今夜はこのまま夜鷹の貸切時間が終わるまで見学だろうか、と夜鷹のスケートをひとり占めできる贅沢な時間への嬉しさと一緒に滑ることの出来ないがっかりとした気持ちが綯い交ぜになったまま離れていく背中を見送った。
氷に乗った夜鷹はくるりと司の方へ振り返ると再び「おいで」と司の方へ手を伸ばした。スケート靴が無いのにどうすれば、と戸惑いながら夜鷹に視線を向けるが、変わらず夜鷹は司を見つめたまま近付いてくるのをじっと待っていた。その手に、瞳に引き寄せられるように司は一歩ずつリンクの傍へ足を進める。氷に乗るギリギリまで近付くと夜鷹は司の前で少し屈んだ。何事かと思った時には司の身体は夜鷹の手に引かれて大きくバランスを崩した。ひょい、と身体が持ち上げられる感覚に驚きで反射的に夜鷹の首へ腕を回す。体勢が安定した感覚があり、そっと目を開くとすぐ近くに夜鷹の整った顔があり、また驚きに身体が固くなる。そして、自分が夜鷹に抱き上げられ、いわゆるお姫様抱っこをされていると気付き、密着している体勢も相まって一気に恥ずかしさがこみ上げる。
「純さんっ!降ろしてください!!」
「なんで」
「なんでって……こんなの恥ずかしいです!」
「誰も見てないよ」
「そういうことじゃなくって……!」
夜鷹は司の喚く言葉を軽く受け流しながら滑り始めてしまった。スニーカーを履いたままの司は土足てま氷の上に立つことは憚られて、この夜鷹の気まぐれが終わるまで自力ではリンクサイドには戻れないことが確定した。どうしようもない状況に司は潔く諦めて夜鷹に抱えられながら滑るというこの先一生訪れることは無いかもしれない機会を楽しむことにした。
「重くないですか?」
「全然」
細身に見えて、その実しっかりと鍛えられた無駄のない夜鷹の肉体は司を抱えたまま滑らかに滑っていく。
「風が冷たい」
夜鷹は軽く流しているだけのようだが、司が滑るよりも速いスピードで周囲の景色は流れていく。そのスピードのせいかせいか普段よりも頬を撫でる風が冷たく感じた。
「寒い?」
「大丈夫です!俺、平熱が三十七度あるんで!」
「そう、道理でいつも温かいと思った」
いつも、というのは夜鷹がベッドに潜り込んでくる時のことを言っているのだろうか、と考えていると徐々に夜鷹の滑るスピードが上がっていく。まだトップスピードではないのだろうが、司にとっては充分過ぎるほどの速さで、先程の比ではない勢いのある風が泣き腫らした司の顔に当たる。
「冷たくて気持ち良い……純さんくらいスケートが上手になったら俺もこの風を感じられるようになれるのかな……」
「そうかもね」
ほとんど独り言の、小声で呟いたつもりだった言葉に夜鷹からの返事があって驚いて思わずその顔をまじまじと見つめる。風を受けて流れる前髪の隙間から特徴的な白い髪が見えて、本当にあの夜鷹純の腕の中で、二人きりの夜リンクで、氷の上を滑っているのだと実感して、夢のようなこの現実にじわじわと嬉しさがこみ上げて頬が緩む。
夜鷹は司の視線に気付いたのか真っ直ぐに前を見つめたまま司の方を見もしないで「なに」と短く尋ねる。特に話題があるわけでもなかったがなんとなく司は思ったままを口にした。
「俺、この風の冷たさが好きです」
「……僕もだよ」
驚いたように一瞬表情が固まった後、夜鷹は柔らかく口元をほころばせる。その珍しい表情にどこか胸の高鳴りを感じながら、司はこの風を感触を忘れたくないな、と堪能するようにゆっくりと目を閉じた。
「これ持ってて」
ある日、唐突に夜鷹に差し出されたのは一枚の鳥の羽だった。司の手のひらよりも優に大きいそれは灰色がかった茶色と白が横縞の模様を描きながら先端に向かって色が徐々に濃くなっていた。一目見て美しい、と感じるが何故急に差し出されたのかが分からず、司は容易に手を出せずにそれを見つめた。
「これは……?」
「僕の羽」
「えっ!?」
魂元が鷹である夜鷹のにとって羽は大切な物ではないのか、と司は簡単に受け取って良いものかと少しうろたえる。
「これから一人で外出する機械もあるだろうからこれを肌身離さず持ち歩いて。多少の虫除けにはなる」
「虫除け……」
「またうっかり街中で魂現でもすれば先祖返りの君を求めて良くない輩が引き寄せられる。そうでもなくても斑類の性愛は猿人よりもずっと自由だ。面倒事に巻き込まれる可能性もある」
「これを持っていればそういった事が避けられるんですか?」
「絶対ではない。けど、翼手の重種は国内では僕の家だけだから。司がその関係者だとわかっていてわざわざ手を出す馬鹿はそうそういないよ」
夜鷹の家の力は余程強いらしい。それは病院での職員の対応だったり、端々に垣間見える年齢に見合わない財力だったりと今までもその力は薄々感じてはいた。だが、日本中の斑類から畏怖なり、敬意なりを集める程の家だとは司も思ってもみなかった。
たった羽一枚でそんな効果が、と驚きと共に羽を見つめたまま動けずにいると、受け取らない司に痺れを切らしたのか夜鷹が無理矢理に司の手に押し付ける。
「司が受け取らないなら捨てるから」
その一言が決定打となり、司は手にした羽を受け取ることにした。こんな綺麗なもの捨ててしまうのも、せっかくもらったのに活用しないのももったいないから、と誰にともなく心の中で言い訳しながら司は夜鷹の言いつけ通り肌身離さずこの羽を持ち歩くことになった。
自由な外出とスケート靴を手に入れた司の生活の中に、夜鷹と共に夜の貸切リンクに通うことが加わった。テストに合格したのが中学三年に進級する直前だったこともあり、外に出られるようになってからもわざわざ転校することはせず、学校の勉強は引き続き通信制で行うことにした。高校からは表向きは私立の名門校である斑類専門の高校に入学することが決まっている。
斑類に関するコーチングは今後も定期的に公的なテストがあるため、頻度は少なくなったが今も変わらず美蜂から教えを受けている。その分、空いた時間は家の事だったり、スケートの動画を見たり自主トレーニングをする時間に充てるようになった。最近では夜鷹が司の作る食事に興味を示すこともあり、家事の中でも料理が少しずつ楽しくなっていた。勉強に家事、スケートと慌ただしくも充実した生活に司は概ね満足していた。
ただ、一つだけ気に掛かっていることがあった。それは、司に斑類の友人がまだ一人も出来ないことであった。
自由に外出が出来るようになってから、司はフィギュアスケートのクラブに所属することになった。今後、大会に出るためにはバッジテストに合格しなくてはいけないし、バッジテストを受けるためにはどこかのクラブに所属しなくてはいけなかった。
これはフィギュアスケートを始めてみたいと思い、競技について調べ始めた司が最初にぶつかった壁だったのでよく覚えている。
スケート未経験で十四歳の司を選手志望として育てようとしてくれるクラブは無かった。良くて趣味の習い事程度のレッスン。そして子供には到底払えないレッスン料に結局諦めざるを得なかったのだ。ほぼ一年前の司はここで一つ目の挫折を味わったが、今は夜鷹のコネや口添えがあるからか、とんとん拍子にクラブへの所属が決まった。しかも、夜鷹に次ぐ日本男子の実力者とも言われる鴗鳥慎一郎が所属する名古屋でも名門のクラブだった。
さすがに、初級も合格していないような状態でクラブの練習に混ざることはできず、司は死に物狂いで夜鷹から与えられる全てを吸収し、破竹の勢いであっという間に五級まで合格した。その頃には夜鷹からも夜の貸切練習を疎かにしないことを条件にクラブの練習への参加も許可されるようになった。
展開の早さと所属クラブの名前に驚くと共に司の胸は期待でいっぱいだった。誰に師事するでもなくずっと一人で試行錯誤しながらスケートをしてきたので、スケートについて話したり切磋琢磨したりする友達ができるかもしれないとわくわくしていた。また、そのクラブは積極的に斑類を受け入れていてトップの慎一郎を始め所属選手のほとんどが斑類だという。ほとんど引きこもりのように過ごしていた司にとって知っている斑類と言えば、夜鷹と講師、そして病院の関係者くらいだったので、クラブの近い年頃の斑類と交流できるのも楽しみだった。
だが、現実はそう上手くはいかなかった。
「明浦路司です!よろしくお願いします」と元気良く挨拶をすれば、最初こそ誰もが司の人懐っこい笑顔に心を開いて「こちらこそ〜 」「よろしくね!」と笑顔を返してくれるが、少し距離が近付くと二言目には表情を硬くして「君って夜鷹家の関係者?」と尋ねた。そして、それを司が肯定すると「へぇ、そうなんだ……」と困ったような表情で遠巻きにされた。ひどい時には近付いて声を掛けただけで大げさに驚かれて距離を取られたこともあった。
司はどちらかといえば社交的な性格なこともあり、自然と周りに人が集まってくるようなタイプだったので、交友関係で躓くこと自体が始めてで非常に戸惑っていた。斑類だけならまだこの世界に馴染めていないせいで、気付かぬうちに粗相をしてしまっているのかもしれないと考えたが、猿人のクラブメイトにまで怯えられてしまう始末で、どうしたものかと頭を悩ましていた。だが、周囲の反応から考えるに、原因は十中八九、夜鷹に関係することは見当がつき始めていた。
そして、ある日、司は居ても立ってもいられず、夜鷹に直接切り出した。
「純さん、聞きたいことがあるんですけど……」
「なに」
タブレットを使ってスケート関係の動画を見ている夜鷹に声を掛けると一瞬、司の方へ視線をやるが画面からほとんど目を離さずに短い言葉で続きを促された。
「最近、純さんとの練習以外にもクラブの貸切練習に参加してるじゃないですか」
「うん」
「同年代の斑類の子も居るって聞いて、仲良くなれると思ってたんですけど全然友達が出来なくて……」
「それで?」
「意地悪されるとかじゃないんですけど、なんとなく避けられてるっていうか、みんな他人行儀な感じがして……大体そうなる前に『夜鷹家の関係者?』って聞かれるんですよ。純さん心当たりないですか?」
このまま友達一人もできないのかなぁ、とぼやく司に夜鷹は薄っすらと笑った。微笑む、なんて可愛らしいものではなく意地が悪そうな、にんまり、といった表現がぴったりと当てはまりそうな笑いだった。
「さあ」
司の視線を絡め取って目を合わせたまま、それだけを言うと、夜鷹はまたタブレットに視線を戻した。
一緒に暮らすようになり、少しずつ夜鷹の感情の機微を読み取ることに長けてきた司は、夜鷹の表情に、絶対に夜鷹は理由に心当たりがある、と確信していた。
問い詰めようと口を開きかけた司よりも先に話し始めたのは夜鷹の方だった。
「ところで、」
タブレットに向けられていた視線は再び司を捉えていた。金色の瞳は何度見ても特別な輝きを秘めいているようでその視線に晒されるだけで司は夜鷹に逆らえなくなるような不思議な気持ちになる。
「僕の羽は持ち歩いてるの?」
脈絡のない質問に司は戸惑いながらも頷くと夜鷹は「そう」と呟くだけで、もうこの話は終わったとばかりにタブレットの操作を再開した。
「美蜂先生は原因、分かりますか?」
月に一度となった講義の終わり際に司は尋ねてみた。クラブメイトに直接原因を尋ねる勇気があるはずもなく、かと言って夜鷹以外の斑類の知人もいないので、美蜂が最後の砦だった。
一通り現在の状況を話してみると美蜂は少し険しい顔をして逡巡するような素振りを見せる。政府公認の斑類の講師をしている美蜂でも難しい問題なのかと思ったが、黙ったのも一瞬ですぐに話し始めた。
「マーキング、ではないでしょうか?」
「マーキング……?」
「はい。斑類、特に重種においては縄張りやパートナーを自分の物だとアピールするためにフェロモンで匂い付けをすることがあります。それがマーキングです」
「俺、純さんからそんな事された覚えないですよ?」
「はい、ですが夜鷹さんは重種の中でもかなり強い力を持っていますし、明浦路さんは病室から今までのほとんどの時間を夜鷹さんと一緒に過ごしていました。それに、この家も元々夜鷹さんが暮らしていたものなので縄張りのようなものです。なのでこの家や夜鷹さんと過ごすことでフェロモンの残り香のようなものが明浦路さんに移っている可能性はあります」
美蜂はフェロモンによる匂い付け、と表現したが、これは全くの間違いではないが真実でもない。実際に行われているマーキングは自分の身体の一部を相手に渡す、もしくは精液などの体液を身体に擦り付ける行為、有り体に言えば性行為を伴うことがほとんどだ。翼手の夜鷹が身体の一部を司に分け与えるとすれば恐らく羽になる。しかし、鳥類の斑類である翼手が羽を相手に渡すとなればそれは求婚を意味する。まだ年端もいかない司相手にそのような事を行っているとは考え難かった。同時に後者も同様の理由で美蜂の中で可能性は却下された。ただ、本来のマーキング行為が行われていないのだとすれば、実際のマーキングがどういったものかを司に教えるべきかを考えて美蜂は迷い、それが少しの逡巡に繋がった。
「なるほど……なら猿人のクラブメイトにも怯えられるのは?あと美蜂先生は大丈夫なんですか?」
美蜂の話には説得力があり、納得はできるものの全ての疑問は解消されず、司はつい矢継ぎ早に疑問をぶつける。
「猿人は魂現のことは認識できませんが、フェロモンなどは本能的に感じられるようです。特に重種のものともなれば本能的な怯えが出るのはあり得るでしょう。あと、私も重種ですので夜鷹さんのマーキングがあったとしてもそこまで大きな影響は受けにくいです。実際にこうして家にお邪魔しても平気ですしね。それにもともとフェロモンを感じにくい体質のようなのでご心配なく」
「そうだったんですね……!じゃあ俺がこれからどうすれば皆に怯えられるずに済むんでしょうか?」
「そうですね……リンクに行く前はなるべく夜鷹さんとの接触を減らしたりシャワーを浴びる、あとは洗濯を別にする、などでしょうか?すみません、こういった事例があまり無く、良い解決策が思い当たらず……」
「俺の方こそ関係ない質問たくさんしてすみません!でも先生のおかげで解決できそうですっきりしました」
講義を始める前とは打って変わって晴れやかな表情になった司に美蜂も安堵の表情を浮かべる。
「少しでもお役に立てたなら良かったです。では来月の講義の予定ですが――」
美蜂を玄関まで見送りながら司は頭の片隅でマーキングの原因とその対策について考えていた。夜鷹と一緒に暮らしてはいるが、夜型の生活をしている夜鷹とは室内でのトレーニングやスケートのレッスン以外ではそこまでずっと一緒にいる訳ではなかった。当然、夜鷹のレッスンを休む訳にはいかないので、それ以外の匂い付けになるような行為について考えて、司はある事に思い至った。
――同じベッドで寝るのがいけないのかもしれない……!!
相変わらず夜鷹は司のベッドに潜り込む悪癖があった。もともと週に一、二回程度だったのに、徐々に増えていき、文句を言ってもやめる気のない夜鷹の態度に司が諦めると週のほとんどを司のベッドで寝るようになってしまった。
一度、「シングルベッドで男二人は狭いですし、いつか身体痛めますよ」と苦言を呈すると、夜鷹は「じゃあ僕の部屋で寝ればいいね。ベッドも充分広いし」と言って半ば無理矢理、司を自分の部屋で寝るように仕向けた。その態度から夜鷹が譲歩するつもりはないということを悟り、無駄に言い争ったり、意地を張って自室のベッドで寝てもどうせ夜鷹の方が潜り込んでくるのだから狭い思いをするなら諦めて、さっさと夜鷹の部屋で寝る方が快適のでは、と思ってしまったのだ。実際、夜鷹の部屋のベッドは広いし、もう同衾すること自体に対しては抵抗は薄れていた。
そんな理由で最近の司はほとんど自室では眠らなくなっていた。寝床なんて最もプライベートな場所を共にしていればフェロモンの匂いが移るのも当たり前だよな、と司は自身の斑類への理解の足らなさに反省していた。
――とにかく、今夜からは純さんと寝るのを避けるぞ!
そう決意した司はひとまずダメ元で夜鷹に直談判してみた。
「あのぉ、純さん俺今夜からは自分の部屋で一人で寝ようと思って、」
「なんで?」
「なんか、クラブの子達に怯えられてて……もしかしたら純さんの匂いが移っているせいかもって、」
「嫌だけど」
断られると予想はしていたが、全て話し切る前にさっくりと断られてしまった。とりつく島もない夜鷹の態度に正攻法ではやはり無理かと諦める。
ならば次は、と司は寝る支度を整えて自室に入る。内鍵がかかることは昼間のうちに確認していたので音が鳴らないようにそっと鍵を閉めた。物理的に夜鷹が入って来れなければ同衾することにもならないだろう、と司は「司の隣は温かいし寝付きが良くなる」と分かりにくいが嬉しそうに語っていた夜鷹の言葉を思い出して胸が痛む気がしたがそれを振り払うように一人、布団に潜り込んだ。
しかし、目を覚ますと隣には夜鷹がいた。しかも司を抱き枕のようにその腕の中に抱き込んで。司はすっかり失念していたが、この家は夜鷹の持ち家で、当然、家主ならどの部屋のマスターキーも持っている訳で。つまり司が鍵を掛けたところで夜鷹にとっては何の障害にもならなかったのだ。
対話で解決しようとしてもダメ、物理で防ごうとしてもダメとなると、司は考えていた最終手段を実行することにした。
それは夜鷹が寝る前に司が起きてしまうというものだった。
もともと、夜鷹は夜が明ける頃に寝て夕方に起き出すような生活をしているので、司が夜明けとほぼ同時に起きてしまえばスケート以外で関わる時間も、ベッドを共にする時間も無くなる。
急に生活リズムを変えれば夜鷹に訝しまれるかと思ったが、丁度バッジテスト六級の受験を目前に控えている司にクラブから朝練にも参加したらどうだ、と誘いがあったのでそれを理由にすることにした。
「ねえ、どこ行くの……」
朝5時過ぎ。季節はすっかり冬に変わって、まだ外は真っ暗だった。微かなアラーム音で起床することに成功した司がゆっくりとベッドを降りると、やはり隣で寝そべっていた夜鷹に声を掛けられる。
枕元には夜鷹が使っていたであろうタブレットやワイヤレスイヤホンが散乱している。タブレットは動画の再生途中で、この分だと恐らく夜鷹がこの部屋に来てまだ十分も経っていないだろう、と当たりをつけ、作戦が上手くいっていそうな様子に小躍りしたくなるのをグッと堪える。
「朝練ですよ」
「…………なんで」
意外と寝穢いところのある夜鷹はもう半分意識が眠りに引っ張られているのかいつものような言葉のキレは無い。
「もうすぐ六級のテストがあるのでクラブのコーチが朝練も誘ってくれて」
何度も頭の中でシュミレーションしていた通りに平然とした声で答える。嘘ではないが、後ろめたい気持ちがあるのでそれを気取られないように慎重に言葉を紡ぐ。
「ふぅん……」
引き止められはしないかとドキドキしながら夜鷹の返事を待つが、吐息のような相槌をして夜鷹は目を閉じてしまった。
外出を許されたのだろうか、曖昧な夜鷹の返事は司を悩ませたが寝てしまったのなら朝練も行っていいのだろうと勝手に解釈して、大きな音を立てないように注意深くリンクに行くための準備を始めた。
司が朝練にも通うようになり一週間程が経ち、事態は少しずつ好転しているように感じた。司が夜鷹の匂いを付けないように徹底したのが功を奏したのかは分からないが、少なくともクラブのNo.1である慎一郎が海外遠征から帰ってきた影響は明らかにあった。
慎一郎は昔からの友人である夜鷹から司の事を聞いていたのか、司の顔を見るなり「君が明浦路司くんだね、純くんがお世話になっています」と深く頭を下げた。初対面の、しかも日本のトップ選手に出会い頭に頭を下げられ、司はそれはもう慌てた。それに、夜鷹に世話になってはいるが、世話をした覚えもない。「俺、何もしてないです!むしろ純さんにはお世話になってばかりで……」と顔の前で手を振るが、慎一郎はそんな司を柔らかい表情で見つめて、「いえ、司くんが純くんと出逢ってくて本当に感謝しているんです」と微笑んだ。
そんな二人の様子を眺めていたクラブの面々は、人格者であり、憧れの慎一郎が認めて頭を下げる明浦路司という人間への認識を改め始めていた。そこに本来の司の明るく人懐っこい性格とスケートへの情熱、その類稀な才能を見せられれば、打ち解けるのにそう時間は掛からなかった。
練習時間が増え、多くの人と関わる中でたくさんの技術を吸収しながら司のスケート技術はますます磨かれていき、友人と呼べる関係の人物も増え、ハードな日々だが何もかもが順調に進んでいるように思えた。
その一方で、夜鷹は不調、というよりも不機嫌そうな日が続いていた。今まで司を湯たんぽ代わりにしていたので寝付きが悪く睡眠不足気味なのだろうと司は思っていた。実際、夜鷹の目の下のクマはいつもより濃く見えたし、ぶすっとした態度でいることが多かった。司と出会ってから改善してきていた食生活もサプリとプロテインに逆戻りし、ほとんど吸っていなかったタバコもまた本数が増えている。それに家の事で忙しいのか昼のうちから出かけたり、厳しい顔でタブレットを見つめていることが増えた。
なんとなく夜鷹の機嫌の良くなさやクラブの練習にも積極的な司を面白くなく思っていそうな節を感じてはいたが、スケートやクラブに通うことが楽しくて夢中になっていた司は夜鷹から不満を直接伝えられないことを良いことに、見て見ぬふりをしてしまっていた。むしろそれが少し後ろめたくて、夜鷹を避けるようにしてさえいた。
六級のテストに受かるまで、そんなつもりでいた朝練は、無事六級に合格した後も続いていた。
だが、とうとう夜鷹からストップが掛けられた。
「司、一回上がって」
いつもの夜の貸切練習中、夜鷹に呼び止められて司は素直にリンクサイドへ上がっていく。今は曲掛け練習の最中だった。六級に合格し、いよいよジュニアの大会への出場資格を得た司はデビュー戦に向けて、夜鷹や夜鷹と交友関係にある振付家、レオニード・ソロキンにより授けられた振付のブラッシュアップの真っ最中だった。その曲掛けの途中で突如として夜鷹はブツリと曲の再生を止めて司をリンクサイドへ呼んだ。
足を止めた瞬間、汗が噴き出し身体が火照るように熱い。何かしてしまっただろうかと不安な気持ちなせいか頭がぼーっとして、身体も重く感じた。ゆっくりとリンクサイドへ滑っていくと、リンクサイドに立つ夜鷹は険しい顔をしていて、その隣に立つレオニードも苦笑とも何とも言えない表情で肩をすくめて見せた。
「純さん……俺、何かしましたか?」
不安気な顔で尋ねる司の額の汗を何も言わない夜鷹が素手で拭う。ひんやりとした夜鷹の手が心地良くて目を閉じて身を委ねると、ちっ、と苛立たし気な夜鷹の舌打ちが聞こえた。
「靴脱いで。帰るよ」
「えっ……?」
曲掛けの途中で止めるなんてよっぽどのことだ、と司が恐る恐る夜鷹に何事かと尋ねるが理由も分からず、さらに帰ると言われ司はますます混乱する。練習を切り上げて帰りたくなるほど司のスケートがひどい出来だったのだろうか、不安に揺れる瞳で夜鷹を見上げる。
「オーバーワークだ……」
苦々しい顔で呟く夜鷹が司の足元にしゃがんでスルスルと靴紐を解いていく。
「純さん、俺大丈夫てすよ?身体は丈夫だし今もどこも悪いところないです!レオニード先生もせっかくロシアから来てくれているのに……練習続けさせてください!」
夜鷹にスケートで失望されるのが怖くて司は必死に訴えるが夜鷹は全く聞く素振りを見せない。
「もっと早く止めるべきだった。どう考えても休養が足りてない。あんな生活無茶があったんだ」
「純さん聞いて!!」
噛み合わない言葉を互いにぶつけ合う。
しかし、帰り支度を進めていく夜鷹に司が語気を強くして呼びかけるとようやく夜鷹の手が止まった。
「……本当に自覚ないの?」
信じられない、という顔で見つめる夜鷹に司はたじろぐ。
「集中できてない、スケーティングの精度が低い、ジャンプもミスは無いけどクリーンでない、何よりそれを司自身が自覚してないのが一番の問題だ」
夜鷹の鋭い指摘に司が押し黙る。全く気付いていない訳ではなかった。朝から少し身体が重いような気はしていた。だが、連日の睡眠不足の中で練習を続けていたせいだと思っていた。
「司、」
呼びかける夜鷹を見上げるとまた夜鷹の顔が近付いて髪をかき上げた額が司の額に触れる。ひやりとした肌がやはり気持ち良い。体温の高い司に比べれば夜鷹の身体はいつも冷えて感じたが、ここまで冷たかっただろうか、と考えてから司は自分の体温のほうが高いのだと気が付いた。自覚するとどっと身体の熱さと重だるさに襲われるような気がした。
「やっぱり熱がある」
ほとんどゼロ距離で呟く夜鷹の顔にドクン、と心臓が跳ねた。早鐘を打つ心臓は熱のせいだけではないとぼんやりする頭の片隅で自覚し始めていた。
「帰ろう」
そう言うやいなや夜鷹は司の身体をコートで包んで抱え上げた。レオニードが茶化すようにヒュウ、と口笛を吹くのを夜鷹が一睨みして黙らせる。
「司、ごめんね」
夜鷹が歩き出して駐車場へと向かう途中、ぽつりと呟いた。何に対しての謝罪か分からなかった。むしろ勝手に意地を張って無茶をして迷惑を掛けた自分の方が謝るべきなのでは、と熱で朦朧としてきた頭で「俺も、」とだけ返事をすると夜鷹が緩く首を横に振った。
「六級に合格するまでは無理をしてでも練習したい気持ちも分かったから見守っていた」
でも、と夜鷹は苦々しい顔で一度言葉を区切る。
「それ以降は僕以外のスケーターや斑類との繋がりを求める司が面白くなくて君から無意識に目を逸らしていた。だからこうなるまでオーバーワークにも気付けなかった。全部僕のくだらない嫉妬のせいだよ」
――何か大切なことを言われている気がするけど、純さんの話す言葉が耳には届いても頭に入って来ない……
ゆらゆらと揺れる夜鷹の腕の中は夜鷹自身の匂いと少し苦い煙草の香りが混じって心地が良い。熱のせいもあってか急激に睡魔が襲ってくる。
夜鷹の話をきちんと聞かなくては、と思うのに、こんな風に抱えられるのは初めて夜鷹の家に行った日と、一緒にリンクに行った日と三回目だ、と思考が制御できずに取り留めのないことばかりが頭に思い浮かぶ。
「司」
夜鷹が反応のない司を心配するように呼び掛ける。その声も表情も切なく歪んでいた。
――この人の不器用だけど優しいところが好きなんだよな……
ふと胸に沸いてきた想いに司は唐突に、神様のように憧れていた人も不器用な一人の人間だと認識して、そして自分はその人に恋しているのだと気付いた。
――俺って純さんの事が好きだったんだ
こんな状況で急に自覚したことがなんだか可笑しくて少し笑いが漏れる。怪訝な顔をする夜鷹を残して司は夜鷹に身体を預けて瞼を閉じた。