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朝食を食べた後は、徹さんと2人で不動産屋を回ることにした。
今までだってお兄ちゃんと出かける事はあったし、大学時代には彼氏だっていた。
それでも、こうして徹さんと過ごす時間はどこかが違う。
「どうする、もう少し回ってみるか?」
不動産屋を2軒周り3カ所ほどアパート見てから近くの喫茶店に入った。
「私は、最初に見たところがいいかな」
最寄駅から病院まで電車で1本だし、駅からも徒歩で10分ほど。
新しくも広くもないけれど家賃も手頃で条件は悪くない。
「俺はもう少し回ってみたらと思うけれど?」
「そうかなあ」
予算の上限がある以上、いくら見て回ってもあまり変わらないと思う。
それよりも早く決めて引っ越しの準備をしたい。
「そんなに急いでも良い事は無いぞ。今はあまり収入が多くなくても、これから先きっと増えてくる。目先の条件にとらわれて妥協するよりも先を見据えて長く住めるところを選ぶべきだ。どうせなら、アパートよりもセキュリティーのしっかりとしたマンションにしたら?」
「マンション?」
研修医の私の給料からするとちょっと贅沢な気がする。
けれど、徹さんの言う通りこれから先忙しくなれば引っ越しをする時間がなくなっていくかもしれない。
うぅーん。
悩みどころだな。
***
「とにかく、新居探しはこのくらいにしてアパートに行ってみよう。解約の手続きもあるし、警察に届け出も出さないといけないしな」
確かに、今やらなくてはならないことはたくさんある。
でも、
「できたら今日のうちにアパートを決めたい」
それが本心。
勝手にルームシェアをして、保証人になったのも気づかずに、借金取りに追われ住むところを失い、初めて会った男性の家に転がり込んだ、みっともない私。
今のままではお兄ちゃんに話せない。
「なぜそんなに急ぐ?」
「それは・・・」
「俺のことは気にするなって言ったよな?」
声を低くして私のことを見る徹さん。
「うん」
でも、イヤだ。
男の人の優しさに甘えて、ホイホイとマンションまでついて行く女になりたくない。
これ以上誰かにすがって生きたくない。
「なあ、大丈夫か?顔色が悪いぞ」
「うん、平気」
体調が良いとは言わないけれど、疲れれば倦怠感が出るのはいつものことだし。
私の体はいつもそんな感じだから。
「じゃあ、行くか?」
徹さんが立ち上がる。
「はい」
私も席を立ち、徹さんを追った。
***
午後になって、自分でも体調が良くないことに気がついた。
とにかく体がだるいし、時々頭もボーッとする。
動くのがおっくうで、できることなら横になりたい。
一言で言うと、体に酸素が足りていない感じ。
元々心臓が弱い私は疲れが溜るとこんな症状が出る。
今回の原因は何だろう?
アパートに残した荷物をまとめ、解約の手続きをして、警察に向かう車の中でそんなことを考えていた。
一番の原因は寝不足だと思う。
昨日はあまり寝られなかったし、一昨日だって小さな発作を起した後で眠ってはいても疲れはとれなかった。
そして、ストレスも大きな要因。
仕事上のストレスかもちろん、住むところを失った不安も大きい。
「なあ?」
「ん?」
真っ直ぐに前を見たまま声だけかけられて、私も答えた。
「何か食いたい物とかある?」
「え?」
少し前にお昼を済ませたばかりだし、夕食までには随分時間もあるのに。
徹さんの意図がわからず、私は運転席の徹さんを振り返った。
***
「今日はこのまま帰ろう。夕食は出前でも取るか?」
「え、何で?」
予定ではこの後警察に行って被害届を出す事になっている。
出来れば、その後も不動産屋を何件か回ろうと思っていたのに。
「疲れただろ?」
「私は・・・平気」
「嘘つけ。顔色悪いぞ。唇も紫になってる」
うわ、鋭い。
医療関係者でもないのにチアノーゼを見抜くなんて。
でも、
「大丈夫だから。このまま行きましょう」
私はどうしてもアパートを決めたい。
今日を逃せばまたいつ休めるかわからないから、少々無理をしてでも契約まではしておきたい。
「ダメだ。帰るぞ」
徹さんの中では決定事項らしく、キッパリと宣言されてしまった。
でもなあ・・・
「どうしてもダメ?」
ちょっとかわいく言ってみる。
「ダメ」
はあー。
お兄ちゃんなら効果あるんだけれど、さすがに徹さんには無駄かあ。
それじゃあ、
「止めて」
「へ?」
ちょうど信号で止り、ブレーキを踏んだ徹さんが私を見る。
「1人で行くから、近くで降ろして」
こうやって1日徹さんを連れ回しただけでも申し訳ないんだから、後は自分で行こう。
大丈夫。すでに何件か下見をしているし、贅沢言わなければ住むところは決められる。
「行かせるわけないだろ」
冷たい表情で前を向いたまま、ハンドルを握る徹さん。
「でも、私は行くの」
今日中にアパートを決めて引っ越しの手配をしたいんだから。
じゃないと、いつもでもお兄ちゃんに秘密を持ったままになる。
それっきり、徹さんは黙ってしまった。
車は止る気配もなく、マンションへと向かっていた。
***
カチャッ。
無言のままマンションの駐車場まで帰ってきた私と徹さん。
車のエンジンが止るとともに私はシートベルトを外した。
バタンッ。
ドアを閉める音を気にすることもなく、車から降りる。
本来なら『ありがとうございました』の一言でも言うできなんだろうけれど、今の私はそんな気分じゃない。
大股で駐車場の出口に向かいながら、心の中で呟く。
一体何なのよ。
止めてって言ってるじゃない。
私は1人で行くって言っているのに、完全無視なんて酷くない?
そりゃあ2日間も泊めてもらって、今日だってせっかくのお休みを潰してしまって申し訳ないとは思うけれど、それでも
「オイッ」
いつの間にか追ってきていた徹さんに後ろから腕を掴まれた。
「何よっ」
掴まれた手を振り払いながら足を止めると、徹さんの険しい表情が目に入る。
嘘。
これは、怒ってる?
それも、かなり激しくご立腹の様子。
「どこへ行く気だ?」
「どこって、もう少し不動産屋を回りたいのっ」
どうしても今日中のアパートを決めたい。
研修医なんて激務で次にいつ休みが取れるかわからないんだから、出来ることは無理をしてでも進めたい。
「お前、バカか?」
「はあ?」
いくらお世話になっているとは言え、あまりの言葉にポカンと口が開いた。
「帰るぞ」
私の反応など無視して、徹さんは腕を引きマンションの入り口へ向かおうとする。
え、ヤダ、
「ちょ、ちょっと」
必死にもがき抵抗した。
それでも徹さんの腕が離れることはない。
それどころか、両肩をガッチリと掴まれてしまった。
***
「ねえ離して」
「イヤだ」
力ずくで逃げようにも、敵うはずもなく。
こうして叫んでいるうちに息まで上がってきた。
「私1人で行くから、お願い離してよ」
肩で息をしながら必死に足を踏ん張るけれど、体はマンションの入り口へと引きずられていく。
「徹さん、お願い。待っ」
苦しくて言葉が止った。
マズイな。
これって、発作の前兆。
「どうした?」
私の異変に気づいて徹さんの焦った声。
「苦しぃ」
「救急車を呼ぶか?」
「違ぅ、横になりたい」
そんなに大きな発作でないから、横になって薬を飲めば収まるはず。
だから、
「わかったから、ジッとしていろ」
そう言うと、膝裏と背中に手を回し抱き上げてしまった。
いつもなら恥ずかしくて抵抗するところだけれど、今はそんな余裕もない。
フウー、フウー。
少しでも酸素を取り入れたくて深呼吸を繰り返す。
けれど、苦しい。
目の前もぼやけているし、エレベーターの振動で気持ちも悪くなってきた。
ウッ・・・
ヤダ、吐きそう。
「お願い降ろして。徹さん、降ろしてっ」
「もう少しだから、待て」
少し足を早め、廊下を進んでいく徹さん。
無理、無理だから。
「もうダメ、吐く」
胃から食道に向けて上がってくる感覚。
ちょうどその時、部屋の前まで来た徹さんの足が止った。
それでもか抱えられたままの私は、着ていたカーディガンの裾で口を押さえることしか出来ない。
ウウウゥー。
もう最悪。
ここから今すぐに消えてなくなりたい。
***
徹さんに抱えられたまま部屋に入った。
「お願い降ろして」
カーディガンで押さえたとは言え私は汚物でまみれてしまって、気をつけないと徹さんまで汚してしまいそう。
それでも、
「ジッとしてろ」
一喝されれば、黙るしかない。
玄関から廊下を通りリビングに入って、やっとソファーに降ろしてくれた。
「待ってろ、水と着替えを持ってくるから」
私から離れ荷物を取りに行こうとする徹さん。
とは言え、こんな状態でジッとなんてしていられるはずもなく、私は体を起こし床に足を降ろす。
「バカ、寝てろ」
徹さんがソファーに戻そうとするけれど、
「離して、汚れるから来ないで」
力任せに押し返す。
こんな醜態は見せたくない。
出来ることなら今すぐここから消えてなくなりたい。
「いいいから動くな。言うこと聞かないと、病院へ連れて行くぞ。そうすればすぐに陣の耳にも入る。それでもいいのか?」
私の頬に手を当て、ジッと睨まれた。
「イヤ、です」
それは困る。
でも、今のこの状況は惨め過ぎる。
「医者ならわかるだろう。具合の悪いときは誰にでもあるんだ。だから、今は素直に甘えていろ。こんな状態のお前を放り出せるほど俺は鬼じゃない」
「徹さん」
「ほら、カーディガンを脱ごう」
「・・・うん」
徹さんに体を支えてもらい汚れてしまったカーディガンを脱ぐ。
幸い他に汚れはなく、部屋も徹さんも汚さずにすんだ。
「俺は車から荷物をとってくるから。念のためシャワーは朝にして、パジャマに着替えておいて」
そう言うとゲストルームに置いていたパジャマを持ってきてくれて、また部屋を出て行った。
***
「具合はどう?」
マンションに帰ってきてから1時間。
パジャマに着替えてソファーで横になった私に、徹さんが何度も声をかけてくれる。
「大丈夫。薬も飲んだし、もう苦しくない」
「そうか、良かった。でも、病院には行った方が良い。一昨日も苦しがっていただろ?」
「ぅん。そうだけど・・・」
病院へ行けば入院になるかも知れない。
そう思うからなかなか足が向かない。
今は疲れも溜っているし、たまたま症状が強く出ているだけでもしかしたらこのまま落ち着くかも知れない。
今までの経験からそんな希望もあって、つい無理をしてしまう。
「明日は仕事だろ?」
「うん」
明日は日曜だから外来はないけれど、病棟の勤務がある。
平日ほど忙しくはないはずだから、時間を見つけて溜った仕事も片づけるつもり。
「明日の朝まだ具合が悪ければ、休んで診察に行くこと」
「うっ」
返事が出来ない。
「いいね?」
ピッと指を刺され、
「ぅ、うん」
しかたなく頷いてみたけれど、私はきっと仕事に行くだろう。
何しろ、私は駆け出しの研修医なんだから。休んでいる余裕はない。
***
「ところで、陣に話すのか?」
一通りの片付けを終え、部屋着に着替えた徹さんが私の向かいに腰を下ろした。
「言わない」
と言うか、まだ言えない。
私が借金取りに追われて住むところもなくなっているなんて知れば心配をかけるだけだし、いくらお兄ちゃんの友人とは言え男の人のマンションに泊っている知ればきっと怒るだろう。
今出張中のお兄ちゃんに、余計な心配をかけたくない。
「じゃあ、俺も黙っておくよ。あいつも仕事のトラブルで大変そうだし、住むところが決まって引っ越しの手配が出来るまでは黙っていよう」
「うん。でもお兄ちゃんに聞かれたら、話すから」
どんな事情があってもお兄ちゃんに嘘はつきたくない。
言い訳に聞こえるかも知れないけれど、黙っていることと嘘をつくことは違うと思うから。
だから、
「わかった、好きにしろ。俺からは何も言わない」
「ありがとう」
本当に、徹さんには申し訳がないことをしていると思う。
今回のことがきっかけでお兄ちゃんとの仲がこじれてしまうようなことがあってはいけない。
そのためにも、体調を回復させて住むところを探さないと。
***
翌朝、私は早くに目が覚めた。
薬のお陰もあって、よく寝られた。
疲れも幾分とれた気もする。
でも、少し体が熱っぽい。
高熱ではなく微熱程度だけれど、怖くて熱を測ることが出来ないまま仕事に行く準備を始めた。
徹さんは、社長さんの迎えに駅まで行くから早めに家を出ると言っていた。
だから、出勤前に顔を合わせることはないだろう。
良かった。
昨日も散々『病院へ行け』って念を押されたから、熱が出たなんて言えば大騒ぎされるところだった。
さあ、仕事に行こう。
今日は日曜で緊急の出産でもない限り暇なはずだし、先輩達もいないから休み休み仕事が出来るはず。
なんとか今日を持ちこたえよう。
そうすれば、きっとなんとかなる。
体調が回復して、アパートさえ決めればすべてがうまくいくんだから。
こういう希望的観測は往々にして外れるとわかっていたはずなのに、私は信じてしまった。
この後、私は自分自身の読みの甘さを痛感することになる。