アラームが鳴る。久しぶりに聞いた機械音に、頭がズキズキと痛む。いつもは冬弥が静かにアラームを止めて、不器用ながらもオレの好きなものを作ってくれる。その気配で目が覚めて、いつも通りが始まる。でも、今日は違う。
体を起こす。隣のベッドは空っぽだ。冬弥はリビングで寝たままなのかと思ったが、すぐに昨夜オレが寝室のドアを乱暴に閉めたことを思い出す。そうか、冬弥は別の部屋で寝たんだ。
重い体を動かし、リビングへ向かう。冬弥は、ソファの上で、掛け布団を頭まで深く被って丸くなっていた。起きていない。
いつも通りじゃない朝。いつも通りの日常が壊れてしまったことへの、寂しさと苛立ちが同時に押し寄せる。オレは、昨日もらった薬を飲んだ。頭の中のざわめきが、少しだけ静かになる。
ふと、冬弥がソファの横に置いたままの、黒いリュックサックが目に入った。なぜか、ひどく気になった。オレは昨夜の怒りと、冬弥が何かを隠しているという疑念に突き動かされて、無意識にリュックに手を伸ばしていた。
ファスナーを開ける。中には教科書やノート、そして…
薄くて学校で配られた覚えのない大きめの封筒が、ファイルに挟まれていた。ただのプリントかと思ったが、触ってみると、しっかりとした紙質。オレは抜き取り、ためらいながらも裏返して、その封筒に書かれた文字を読んでしまった。
(『診断書在中』)
オレの指が、ピタリと止まる。頭の中が一瞬で凍りついたように冷たくなった。冬弥が、診断書?何の?まさか、昨夜のキスも、脅しも…?
オレは震える手で中身を取り出した。そこに書かれていた病名を見て、呼吸が止まった。
(『統合失調症』)
「…うそだろ…」
オレより、重い病気。歌えなくなるのが嫌だから、薬を飲んでいない。冬弥はオレの負担にならないように、これを隠していた。オレだから言えないと言ったのは、このことか。
オレが抱えてる鬱とは比べ物にならない。オレは冬弥を殴って、責めて、最低なことをした。オレが病気なのも知ってるのに、冬弥はオレを責めなかった。
オレは、診断書をファイルに戻し、リュックを元通りにした。冬弥は、まだ静かに眠っている。オレは、冬弥の横に座り込んだまま、どうしていいかわからず、ただただ自分のしたことの重さに打ちひしがれていた。
どのくらいそうしていたのか。でも、動かなきゃ、言わなきゃ、何も変わらない。
「…冬弥」
オレは、落ち着いた声を出そうと努力して、名前を呼んだ。
「…。」
…やっぱり返事はない。
「起きろよ、冬弥」
オレは、静かに冬弥の肩に手を置いた。昨日までの怒りは、診断書を見て以来、全て消し飛んでいた。今はただ、冬弥に話をしてほしかった。
「…オレ、もう怒ってねぇから」
そう言いながら、オレは冬弥を覆っている布団の端を、少しだけ引っ張った。
「…なあ、お前、病気のこと…なんでオレに言わなかったんだよ」
オレの声は、責めるというよりは、懇願に近い響きを持っていた。
「…。」
冬弥は布団に潜ったまま、返事をしない。沈黙が重い。オレは、昨日見た診断書に書かれていた病名と症状を思い出していた。この沈黙は、冬弥の病気のせいなのか、それともオレへの警戒心からなのか。
「…オレが、お前を責めて、殴って、最低なことをしたのはわかってる」
オレは、静かに言った。自分の手のひらを、じっと見つめる。
「でも、黙ってるのはずるいだろ。オレに隠すことで、オレが余計に苦しむってこと、考えなかったのかよ」
布団から顔を出さない冬弥に、オレの心の中の不安が再び鎌首をもたげる。
「なあ、言ってくれよ。あのキスのことも、病気のことも。全部、話してくれ」
「…。」
冬弥は、それでも何も答えない。オレの心臓は、ドクドクと不規則なリズムを刻み始めた。さっきまで抑え込んでいたはずの苛立ちと怒りが、再び頭をもたげてくる。
病気なのはわかってる。でも、この沈黙は、オレを拒絶しているようにしか感じられない。オレが、昨日の診断書を見ても、なお信用されていないんじゃないかという恐怖。
「いつまでそうやって、黙り込んでるつもりだ?逃げてるだけじゃねぇかよ」
オレは声を荒げないように、必死に抑え込んだ。しかし、言葉は鋭くなる。
「オレが、お前のために何ができるかなんて、考えてもみなかった。でも、オレのせいで、お前がこんなに苦しんでたなんて、知らなかったんだよ!」
沈黙。
「…頼むから、何か言ってくれよ。このままだと、オレがまたおかしくなりそうだ」
それでも、冬弥の体は動かない。その頑なな態度が、オレの限界を再び超えさせた。目の前がチカチカする。
「っ…ふざけんなよ!」
オレは、立ち上がってソファを蹴った。大きな物音と衝撃で、冬弥の体が微かに震えるのがわかった。
「お前のその沈黙が、オレを追い詰めてんだよ!オレが…どれだけお前のこと、心配して、愛してると思ってたか、知らねぇだろ!?」
感情は暴走し、口から止めどなく、ひどい言葉が飛び出す。精神が崩壊し、凶暴になる瞬間だった。
「どうせ、オレのことなんて、荷物としか思ってねぇんだろ!オレなんかいらねぇんだろ!」
「そんなにオレが邪魔なら、消えろよ!もう、オレの目の前からいなくなっちまえ!」
「このまま黙ってるなら、死ね!オレの苦しみなんて、知るかよ!」
涙が滲んで、視界が歪む。
「オレは、お前のことなんか、嫌いだ!お前の存在が、オレにとって一番の迷惑なんだよ!」
言い終わった後、オレは荒い息を吐きながら、自分が発した言葉の全てに、心底ゾッとした。体が制御できない。オレは、自分でも気づかないうちに、一番大切な人を、言葉でズタズタに傷つけてしまった。
「…。」
冬弥は、オレの吐き出した悪意に満ちた言葉の全てを、布団の中で受け止めていた。沈黙。それは、肯定なのか、それとも、ただ受け止めきれないほどの絶望なのか。オレは、自分がしてしまったことに、全身の血の気が引くのを感じた。
オレは、病気だからと言い訳をして、冬弥の心に修復不可能な傷をつけてしまった。冬弥がオレに病気のことを隠していたのは、オレに負担をかけたくなかったからだというのに、オレは、その配慮すら踏みにじった。
オレが投げつけた「嫌い」「死ね」「消えろ」という言葉は、オレ自身にそのまま突き刺さった。オレが一番恐れているのは、冬弥に嫌われること、オレが冬弥にとって迷惑な存在になることだ。自分で、その恐怖を現実のものにしてしまった。
「…っ、ごめ、…」
声が詰まり、謝罪の言葉すら、まともに口にできない。オレは、その場にへたり込んだ。頭を抱える。
オレは、冬弥がどれだけ苦しんでたか知らずに、自分の苦しみばかりを押し付けて、暴力まで振るった。オレこそ、冬弥にとって迷惑な存在じゃないか。
オレは、震える声で、絞り出すように言った。
「…冬弥。オレが言ったこと、全部、取り消す…最低なことを言った。ごめん。オレ、もう…どうしたらいいか、わかんねぇよ」
オレは、自分のしたことへの後悔と、冬弥の病気への恐怖で、涙が止まらなくなった。
オレの嗚咽だけが、部屋に響く。冬弥は、まだ布団に潜ったままだ。オレは、ただ泣くことしかできなかった。冬弥が、オレを許してくれるはずがない、そう思った。
「…冬弥…。顔、見せてくれよ…」
オレは這うようにソファに近づき、布団の端を掴んだ。
「オレは…お前が、オレより辛い思いをしながら、オレのために黙ってたこと…知ったんだ。それなのに、オレは…」
オレの涙が、布団に染みを作る。冬弥が、オレの存在を許してくれなくなるのが、何よりも怖かった。あの「嫌い」という言葉が、ブーメランのようにオレに返ってきている。
「…オレは、お前のこと、本当に愛してるんだ。だから…頼む、話してくれ…。オレが、どうしたらいいか…教えてくれよ」
オレは、冬弥の反応を、ただただ待つことしかできなかった。







