テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
その日の夕刻。
凪は小さな風呂敷包みを胸に抱え、将臣の部屋の前で立ち止まった。
襖の向こうから、紙をめくる静かな音だけが聞こえてくる。
「……将臣様」
静かに声をかけると、中から「入っていいぞ」と低い声が返ってきた。
凪はゆっくりと襖を開けた。
将臣は机へ向かったまま書類に目を落としていたが、凪の姿を見ると手を止めた。
「どうした。その荷物は」
凪は風呂敷を抱え直すと、まっすぐに将臣を見つめた。
「今日、実家へ行ってまいりました」
将臣は何も言わず、凪を見つめ返す。
「兄の遺品から……記憶を読みました」
将臣の指先が、ぴくりと跳ねた。
「兄は……将臣様を恨んではおりませんでした」
将臣は微動だにせず、言葉も発しない。
部屋に重い静寂が落ちる。
「それだけではありません。誰一人として……安藤軍医を恨んでいる方はいませんでした」
凪の絞り出すような一言が落ちた、その瞬間だった。
将臣の肩が、小さく震えた。そして、俯くと、唇を痛いほど噛み締めていた。
長い、長い沈黙が流れる。
やがて、掠れた将臣の声がこぼれ落ちた。
「……そうか」
その一言だけで、長年胸の奥に押し込めていた重い鎖が、崩れ落ちていくようだった。将臣はゆっくりと目を閉じる。
「桐谷が……そう……伝えたのか?」
凪が前を見据える。
「……はい」
「……ありがとう。伝えてくれて」
将臣は泣きそうなのに、どこか救われたように笑おうとしている──そんな顔だった。
凪も静かに、けれど哀しく微笑んだ。
「ですから……もう、将臣様が責任を負う必要はございません」
将臣は小さく息を吐き出した。
「ああ……そう言われると、少し楽になる」
その安らぎの表情を見て、凪はぎゅっと風呂敷を抱き締めた。
(今しかない──)
「……将臣様」
「ん?」
どこか穏やかな将臣の声。
凪は一度、長く息を吸い込んだ。
「もう……自由になってください」
将臣の表情が固まる。
「……自由?」
凪はゆっくりと頷いた。
「はい」
胸の奥がちぎれるほど痛い。それでも、頬を上げて必死に笑った。
「私たち──」
今度は、一度だけ短く息を吸う。
「離縁いたしましょう」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!