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ーー天界
かつて、釈迦如来は天界にある蓮の池を透かして血の池地獄で苦しむカンダタの様子を見た。
現代では違う。如来たちの住まう宮殿の一角。「瑠璃の間」の名で知られる会議室に設置された、子供用プール程もある半球状の水晶体を使えば、地球上のありとあらゆる事象が、全方位から均等に見えるように、このオブジェの内側から立体投影される。
如来、菩薩、明王といった仏法を守護する高位の仏たちは、「瑠璃の間」に集まり、車座を作ると水晶体が写し出す地上の様子を凝視していた。
あまりにも小さな棺にすがり付いて号泣する白人の夫婦。食糧の配給を求めてデモ行進する人々を催涙弾と放水銃で追い散らす治安部隊。ウィルス禍に関係なく、激しい空爆を受けてあちこちから火柱と黒煙を上げる砂漠の街……
「もう良い、止めよ」
大日如来の静かな一言で映写は止まった。
「見るに耐えぬ」タメ息とともに、偉大なる仏は、ゆっくりと頭を振った。
室内をぐるりと見渡した阿弥陀如来が、軽い口調で皆に宣言する。
「では、皆様。今日のところは、これでお開きということで」
その一言を受け、仏たちは一斉に立ち上がり、各々の職場へと戻っていく。誰かが、「長い時間、床に座っていたせいで腰に来た」と腰をさすりながら立ち上がり、別の誰かが「最近、膝の調子が悪い」と、話を被せる。
自分の職場へと続く長い廊下を、大日如来はゆっくりと進む。その後ろを、脇侍(きょうじ)である不動明王は静かに歩いていた。
こころなしか、主の顔色はすぐれないように見える。
太陽の化身、太陽そのものである大日如来は、究極の平等主義者だった。太陽は、この世の全ての者たちを平等に照らす。仏教徒であるなしに関わらず。富める者も貧しき者も、正しき者も悪しき者も、皆、平等に日光を浴びることができる。
あらゆる罪悪についても、大日如来は「誰が」行ったのかではなく「何が」行われたのか、を重要視していた。「罪を憎んで人を憎まず」を完璧な形で実践しているのだ。
子供が自分の両親を愛し、尊敬するように、不動明王も自らの主であり、師でもある大日如来を尊敬し、目標としていた。「ぼくも、いつかお父さんみたいなりっぱな大人になりたいです」という子供の作文のように、不動明王もまた、主と同じ位置にまで登りたかった。