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白波 灯
219
鬼霧宗作
303
ネックレスとカードを撮影し、元の場所へ戻した。
遼介に発見を悟られれば、ほかの証拠を消されるかもしれない。私は数日分の着替えを詰めた鞄を持ち、自宅を出た。
実家へ向かう前に、真帆へメッセージを送る。
『今日、会って話したい。遼介とのことを知ってる』
既読はすぐについた。返事が届くまでには十分ほどかかった。
『分かった』
待ち合わせに指定したのは、大学時代によく使った喫茶店。
窓際の席で待っていると、真帆は予定より二十分遅れて現れた。ゆったりしたワンピースの上から、鞄で腹部を隠している。
「千紘、どうしたの?」
「昨日、遼介とホテルにいた?」
真帆の指が鞄の持ち手へ食い込んだ。
「何の話?」
「電話の向こうで、あなたの声を聞いた。共有カードには二名分の予約も残ってる」
「私、体調が悪くなって……相談に乗ってもらっただけ」
「ホテルで一晩?」
椅子へ座ったまま、逃げ道を探すように店内を見回した。
私はテーブルの下で、スマートフォンの録音を開始した。真帆の診療内容を聞き出すためではない。妻として、不倫の事実を確認するためだ。
「お腹の子の父親は誰?」
真帆の唇が震える。
「航平だよ」
「だったら、遼介が父親のことを知っているのはなぜ?」
「千紘には分からないよ。妊娠すると不安になるの。医者に相談したくなることだって――」
「脳外科医の遼介に? あなたの夫より先に?」
私は鞄から、ネックレスとカードの写真を表示した。
『真帆ちゃんへ。来年は三人で祝おう』
真帆の顔から血の気が引いた。
「これは、あなたへの贈り物ね」
「……ごめんなさい」
「父親は遼介なの?」
「そう」
長い沈黙のあと、小さく頷いた。
予想はしていた。それでも、実際に口から聞くのは別だった。
喉の奥がからからに乾く。何か言わなければと思うのに、すぐには声が出なかった。
「いつから?」
「二年前」
「私たちが結婚して、一年後?」
「最初は一度だけのつもりだった。千紘が当直になって、三人で食事する予定がなくなって……遼介さんが一人で飲んでたから」
「あなたは、その頃には航平さんと婚約していたよね」
「結婚すれば終われると思った。半年くらい会わない時期はあった。でも、遼介さんから連絡が来て」
「連絡が来たら、夫がいても会うの?」
「忘れられなかったの」
二年間。
私と遼介の結婚生活は三年。そのうち二年を、二人は私の知らないところで重ねていた。
何も知らず、夫を信じていられた時間の方が短い。そう気づいた瞬間、足元が崩れる気がした。
「航平さんは、この子を自分の子だと思ってる?」
「妊娠したことは話した。すごく喜んでる」
「父親については?」
「まだ言えない。遼介さんが離婚したら、きちんと話すつもりだった」
「遼介は、私とは離婚しないと言ってる」
「嘘」
真帆の顔が上がる。
「私には、子どもが生まれるまでに離婚するって言った。病院の問題があるから、今すぐは動けないだけだって」
スマートフォンを取り出し、メッセージ画面を見せた。
『千紘とは医者同士の利害で繋がっているだけだ』
『親父の病院の問題が片付けば離婚できる』
『子どもが生まれるまで待ってほしい』
私の知らない場所で、私たちの結婚は何度も勝手に終わったことにされていた。
私だけが、まだ夫婦だと信じて暮らしていた。馬鹿みたいだ。
「昨日も、来年は三人で暮らすって言ってくれた」
「私には、真帆とは何の関係もないと言った」
真帆の手から、スマートフォンが滑りかけた。
「そんなはずない。この子がいるのに」
「子どもがいれば選ばれると思ったの?」
「そういう言い方しないで!」
真帆の声が店内へ響き、近くの客がこちらを見た。
彼女は口元を押さえ、声を落とす。
「千紘は、何でも持ってるでしょう。医師になって、遼介さんと結婚して、将来は病院まで継げる。私が一つくらい選ばれてもいいと思った」
「私は久世記念病院へ入ると決めていない」
「でも、選べるでしょう?」
「選べるようになるまでに、何もしていないと思ってる?」
父を亡くしたあと、母は働きながら私と莉央を育てた。私は奨学金を借り、眠る時間を削って医学部へ進み、医師になった。遼介との生活も、結婚しただけで完成したわけではない。
「私は、あなたから奪っていない」
「分かってる。でも、千紘の隣にいると、ずっと自分が下にいる気がした」
「だから私の夫を選んだの?」
「遼介さんが先に私を選んだの」
「航平さんは?」
「あなたは遼介に選ばれるために、航平さんへ別の男の子を育てさせようとしてる」
「そんな言い方……」
「違うなら、今日話して。遼介が離婚するかどうかより先に、航平さんが自分の人生を決められるようにして」
「そんなことをしたら、私は全部失う」
「私は何を失ったと思う?」
彼女の瞳から涙が落ちた。
「千紘は一人でも生きていけるでしょう。仕事もあるし、お母さんもいる」
「一人で生きられる人なら、裏切っても平気だと思った?」
「そうじゃない」
「遼介も、私は強いから大丈夫だと言った」
強いから大丈夫。何度そう決めつけられただろう。
強い人間は、傷ついても泣くなと言われているみたいだった。私だって痛い。裏切られれば、ちゃんと苦しい。
「次回から、あなたの担当は別の医師へ引き継いである。必要な医療は受けられる」
「私を見捨てるの?」
「医師として責任を持つために、担当を外れたの。友人としては、もう会えない」
「千紘、待って。私、どうしたらいいの」
「自分で決めて。遼介が選んでくれるのを待たずに」
店を出ると、冷たい風が頬へ当たった。鞄の重さが肩へ食い込む。泣けば少しは楽になるのかもしれない。それでも、今は足を止めたくなかった。
駅へ向かう途中、スマートフォンが震えた。
遼介からだった。
『真帆ちゃんを責めるな。悪いのは俺だ』
続けて、もう一通届く。
『ただし、離婚はしない。君も冷静になれば分かる』
謝罪に見せかけた二つの文章には、私の意思を尋ねる言葉が一つもなかった。
コメント
1件
うわ、これ読んでて胸がぎゅっとなった……。千紘が真帆に「私は何を失ったと思う?」って返すところ、めちゃくちゃ刺さったわ。強いから大丈夫って決めつけられるの、本人にしかわかんない痛みがあるよね。ラストの遼介からのメッセージ、謝罪のふりして「離婚しない」って一方的すぎて鳥肌立った。千紘、どうすんのかな……続き、めっちゃ気になる🔥