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最初の数日は、ハリーもそれほど深刻には考えていなかった。
ドラコがいない。
授業にも来ない。食堂にも現れない。廊下でも姿を見ない。
だが、それ自体はまれにあることだった。
マルフォイ家は何かと理由をつけてドラコを呼び戻すことがある。家の用事、親戚付き合い、父親の都合。どれもハリーには腹立たしいものばかりだったが、珍しいことではない。
だから最初の三日ほどは、ただ少しだけ気にした程度だった。
休暇だろう。
そう思おうとした。
前にもあった。連絡なしに家へ戻されることも、急に予定を変えられることも。
問題は、そのあとだった。
四日目になっても、何の便りも来ない。
五日目にも。
六日目にも。
たとえ急な帰宅であっても、ドラコは何らかの形で知らせてくる。短い手紙でも、行儀の悪い伝言でも、とにかく「生きている」と分かる何かは必ず寄越した。
それがない。
それだけで、胸のどこかに小さな棘が刺さった。
七日目の朝には、もうその棘を無視できなかった。
食堂で、ハリーは無意識に扉のほうを見ていた。
誰かが入ってくるたび、金髪ではないと分かってから視線を落とす。パンは皿の上で冷え、紅茶は手もつけないまま湯気を失った。
ロンがそれに気づかないはずがない。
「まだ戻ってないのか、マルフォイ」
その名前を口にされた瞬間、ハリーの肩がわずかに動く。
「……うん」
「手紙とかは」
ハリーは首を振った。
ロンが眉を寄せる。
ハーマイオニーはその横で、本から目を上げた。
「それは変ね」
その一言で、ハリーの胸の中の不安が少し形を持った。
変。
そうだ。変なのだ。
ドラコは不機嫌でも嫌味でも、とにかく何かしら寄越す。二週間も音信不通でいられる人間ではない。いや、いられないというより、そうする必要がある時ほど、逆に一言だけでも残す。
なのに何もない。
「マクゴナガル先生に聞いてみる」
ハリーは立ち上がった。
ロンが何か言いかけたが、ハーマイオニーが先に頷く。
「ええ。そうしたほうがいい」
⸻
校長室の前で待っている時間は、妙に長かった。
石像の前で名前を告げ、許可が出るのを待つ。
その数十秒のあいだに、ハリーは自分の手が少し冷えていることに気づいた。
中へ入ると、マクゴナガルは机の向こうで書類を整理していた。
ハリーの顔を見るなり、眼鏡の奥の目が少しやわらぐ。
「どうしたのです、ポッター」
「先生、マルフォイのことなんですけど」
その名前が出た瞬間、マクゴナガルの手がほんのわずかに止まった。
本当にほんのわずかだった。だが、ハリーは見逃さなかった。
「ミスター・マルフォイが何か?」
「ずっと戻ってきてないんです」
ハリーは一歩進む。
「家に呼び戻されたのは分かるんですけど、二週間近く何の連絡もない。先生、何か聞いてませんか」
マクゴナガルは静かにペンを置いた。
「私は、マルフォイ家から“当面欠席する”という連絡を受けています」
言葉は整っていた。
「それ以上の詳細は知らされていません」
ハリーは顔をしかめた。
「当面って、どのくらいですか」
「明記はありませんでした」
「でもおかしいでしょう」
声が少し強くなる。
「ドラコは、こんなふうに何も言わずに消えたりしない」
マクゴナガルはその言い方を訂正しなかった。
それだけで、ハリーはかえって落ち着かなくなる。
「先生、本当に何も知らないんですか」
しばらく沈黙があった。
やがてマクゴナガルは、慎重に答える。
「少なくとも、私が直接聞いていることはそれだけです」
そこで少しだけ目を細める。
「ただ、あなたが気にかけるのは理解できます」
理解。
その言葉は優しいはずなのに、今は何の足しにもならなかった。
ハリーは拳を握りしめた。
「じゃあ、誰なら知ってるんですか」
マクゴナガルはすぐには答えなかった。
その沈黙の長さで、ハリーは嫌でも悟った。
知っている人間がいる。
「……先生」
マクゴナガルは小さく息を吐いた。
「ミスター・スネイプなら、何か耳にしている可能性はあります」
ハリーは奥歯を噛んだ。
スネイプ。
よりによって。
この城の中で、今いちばん頼りたくない相手だった。
「ありがとうございます」
それだけ言って踵を返す。
背後でマクゴナガルが何か言いかけた気配がしたが、ハリーは止まらなかった。
⸻
スネイプを探すのに、それほど時間はかからなかった。
地下牢へ向かう階段。
その冷たさだけで、ハリーはますます苛立った。あの男に会いに行くだけで、どうしてこんなにも腹の底が重くなるのか。
魔法薬学教室の扉は開いていた。
中ではスネイプが、机の上の薬瓶を整理している。
「先生」
ハリーがそう呼ぶと、スネイプは顔も上げずに言った。
「ノックもなしとは、相変わらず教養が欠けているな、ポッター」
「今はそういうのいいです」
ハリーは一歩中へ入る。
「ドラコのこと、知ってるんでしょう」
そこで初めて、スネイプの手が止まった。
ほんの一瞬。
だが、それで十分だった。
スネイプはゆっくり振り返る。
その顔には、いつもの不愉快そうな冷たさしかない。
「ずいぶん直截だな」
「知ってるんですね」
「さて」
スネイプは薬瓶の蓋を閉める。
「何をもって“知っている”と言うのか」
ハリーは本気で殴りたい気分になった。
「言葉遊びしてる場合じゃない!」
怒声が地下牢の石壁へ跳ね返る。
「二週間です。二週間も何の連絡もない。マクゴナガル先生だって変だと思ってる」
さらに前へ出る。
「先生は何か知ってる。だったら教えてください」
スネイプは眉一つ動かさなかった。
「教える義務はない」
「義務とかじゃなくて」
「ならなおさらだ」
その即答に、ハリーは言葉を失った。
スネイプはひどく冷ややかに続ける。
「お前はいつもそうだな。知りたくなった瞬間に、世界のほうが当然答えるべきだと思っている」
視線が鋭くなる。
「遅い」
遅い。
その一言に、ハリーの胸が強く痛んだ。
「どういう意味ですか」
「考えろ」
「分かるように言ってください!」
スネイプはそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑いではない。もっと冷たい何かだった。
「分かるように?」
低く繰り返す。
「お前は“分かるように”されなければ、何一つ見ようとしないのか」
ハリーは息を詰めた。
言い返したい。
だが、今の自分にそれを完全には否定できない。
スネイプは机へ寄りかかる。
「ミスター・マルフォイの不在が気になる?」
その声音には、嫌になるほど底意地の悪い観察があった。
「結構。ようやく、世界がお前の都合どおりには回らないことを学び始めたらしい」
「先生!」
「騒ぐな」
ぴしゃりと言い捨てる。
「気に入らないなら、自分で考えろ。自分で調べろ。人の口から与えられる情報だけで満足してきた癖に、今さら焦るな」
ハリーは拳を握り、奥歯を食いしばった。
この男は知っている。
確実に。
知っていて、わざと話さない。ハリーがどこまで追い詰められるか見ている。あるいは、追い詰められるべきだと思っている。
「もし、ドラコに何かあったなら」
ハリーの声は、怒りと焦りで震えていた。
スネイプの目がすっと細くなる。
「“もし”?」
静かな声だった。
「その仮定をようやく口にする程度には、危機感が育ったようだな」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはお前だ、ポッター」
スネイプが初めて、はっきりと冷たく言い切る。
「欲しい時だけ答えを寄越せと喚くな。知りたければ、足を使え。頭を使え。お前が本当に知る気でいるのならな」
地下牢の空気が凍りつく。
ハリーは数秒、その場に立ち尽くした。
怒りで頭が熱い。だが同時に、その言葉の裏に一つだけ確かな事実があると分かる。
ドラコはただ休暇を取っているのではない。
何かが起きている。
スネイプがこの態度を取るということ自体が、その証拠だった。
「……最低だ」
ハリーが吐き捨てると、スネイプはほとんど愉快そうですらない表情で答えた。
「今さら評価が下がる余地があったとは驚きだ」
ハリーはそれ以上言わず、踵を返した。
扉を出る直前、背後からスネイプの声が落ちる。
「ポッター」
ハリーは止まらない。
それでもスネイプは続ける。
「探すのなら、遅すぎると思いながら探せ」
その意味を問う前に、ハリーは廊下へ飛び出していた。
⸻
その頃、ドラコは地下室で時間を失っていた。
最初のうちは、まだ日数を数えようとしていた。
壁の継ぎ目。食事が運ばれる間隔。扉の下から差し込む光の色の変化。そういうもので朝と夜を判別し、何日経ったかを頭の中で並べようとした。
だが、すぐに崩れた。
地下室には窓がない。
光は扉の隙間からしか入らない。食事は不規則だった。朝と思った頃に運ばれる日もあれば、ひどく遅れる日もある。水差しが新しいものに変えられる間隔すら一定ではない。
どこかで人の都合が働いている。
それが余計に気分を悪くした。
時間が輪郭を失う。
一日が長いのか短いのかも分からなくなる。目を覚ましているのか、浅く眠っているのか、その境界まで曖昧になる。
地下室の空気は冷たかった。
石の床の冷えが、ローブ越しにじわじわと体へ入ってくる。長椅子は硬く、まともに身体を休められない。眠ってもすぐ寒さで目が覚める。起き上がると頭が重く、立てば脚がふらつく。
最初の数日は、怒りが支えだった。
父への怒り。
家への怒り。
閉じ込められている状況そのものへの怒り。
それがあるあいだは、まだ体温があった。
だが、怒りは永く燃えない。
燃え尽きたあとに残るのは、妙に静かな疲労だった。
地下の向こうから、時々声が聞こえることがある。
父と母だった。
扉の外、さらに上の階か、あるいは廊下の向こうか。正確な位置は分からない。だが、確かに聞こえる。押し殺した声で言い争っている。
母の声は低く、張りつめている。
父の声は冷たい。
単語までは拾えない時もあるが、ときどきはっきり聞こえる言葉があった。
「行き過ぎです」
「黙っていろ」
「ドラコは――」
「甘やかすな」
「あなたは……!」
それだけで十分だった。
母は自分のことで父と争っている。
その事実に少しだけ救われる瞬間もある。だが次の瞬間には、それすら自分のせいだと思って胃のあたりが重くなる。
両親の声が遠のく。
また静寂が戻る。
何もできない。
それが一番きつかった。
ハリーへ手紙を書こうにも、紙も羽根ペンもない。
扉を叩いても、返事はない。
怒鳴れば虚しく喉が痛むだけだ。
ドラコはやがて、怒鳴ることもやめた。
どうせ届かない。そう理解するまでに、それほど時間はかからなかった。
代わりに、何度もハリーの顔を思い出した。
天文塔。
腕の中の温度。
「少しずつ覚えればいい」という声。
あれがなければ、たぶんもっと早く心が折れていた。
だが、思い出は現実の寒さを追い払ってはくれない。
喉が痛くなったのは、たぶん十日目あたりだった。
いや、もっと前かもしれない。後かもしれない。もう分からない。
最初は乾きだと思った。
湿った地下なのに、空気は奇妙に喉を荒らす。眠りが浅いせいもある。冷えもある。
だが翌日には、頭まで重くなった。
立ち上がると視界が少し揺れる。食事を口に入れても味がない。水が妙にぬるく感じる。
熱だ、と気づいた時には、もうかなり進んでいた。
それでも最初のうちは、意地で動いた。
長椅子から立ち上がり、壁に手をついて数歩歩く。倒れそうになってまた座り込む。そんなことを繰り返す。
動かないと、本当に終わる気がした。
だが身体は正直だ。
やがて、起き上がるだけで心臓が速くなる。視界が暗くなる。頭の奥がずきずきと痛む。汗が出るのに指先は冷たい。ローブを巻きつけても寒気が抜けず、逆に額だけが熱い。
それでも、誰も来ない。
食事は扉の前へ置かれるだけだった。
妖精の足音が来る。皿が床へ置かれる。去る。
それだけだ。
助けを求める声を出そうとしても、喉が焼けて長く続かない。返事もない。聞こえていないのか、聞こえていても無視されているのか、その区別すら今のドラコにはできなかった。
ある時、長椅子から立ち上がろうとして、そのまま床へ膝をついた。
石が冷たい。
立てない。
そこで初めて、本気で嫌な考えが頭をよぎった。
ここで倒れても、しばらく誰も気づかないかもしれない。
その可能性は、地下室そのものより怖かった。
ドラコは歯を食いしばった。
こんなところで死ぬのか。父の怒りと自分の不出来の間に挟まれたまま、何も言えずに終わるのか。ハリーに何も伝えられずに。
その恐怖だけで、数時間は意識を保っていた気がする。
だが熱は容赦なく上がった。
時間は完全に崩れた。
眠ったのか気絶したのか分からない。目を開けるたび、石床の感触だけが変わらずある。頭が痛い。喉が痛い。身体が鉛のように重い。
時々、扉の向こうで声がした気がする。
母かもしれない。
妖精かもしれない。
父の冷たい命令かもしれない。
でももう、判別する余裕がなかった。
ドラコは床に横たわったまま、浅く息をする。
起き上がれない。指先に力が入らない。額の熱が、自分のものではないように遠い。
ハリー。
その名前だけが、はっきりしていた。
会いたい。
一度でいいから。
声が聞きたい。
自分がここにいると知ってほしい。
その願いだけが、ぼんやりした意識の底でしつこく残る。
扉の鍵が回ったのは、そのあとだった。
最初は幻聴かと思った。
だが違う。金属の擦れる音。重い扉が開く音。光が細く差し込む。
ドラコはうまく顔を上げられなかった。
ただ、眩しいと思った。
「坊ちゃま……!」
屋敷しもべ妖精の声だった。
例の、あの夜うっかり口を滑らせた年老いた妖精だ。声が震えている。泣いているのかもしれない。
「坊ちゃま、お出しします、お出ししますから……!」
ドラコは返事をしようとして、喉からほとんど音にならない息だけを漏らした。
妖精が駆け寄る。小さな手がローブの肩を支える。冷たい指なのに、今はそれすらありがたかった。
「立てますか、坊ちゃま、どうか」
立てない。
だが、それを言うだけの声も出ない。
妖精は必死にドラコの身体を起こそうとする。
熱に浮かされた頭で、ドラコはようやく一つだけ理解した。
外へ出られる。
どうして今になってなのか。
父の許可が下りたのか。母が押し切ったのか。妖精の独断なのか。そんなことは何も分からない。
それでも、地下室の外へ出られる。
その事実だけが、薄れかけた意識の中で小さく光った。
扉の向こうから流れ込む空気は、地下室と大差なく冷たいはずなのに、ひどくましに思えた。
ドラコは妖精に支えられながら、ようやく敷居を越えた。
その時、身体のどこかが限界を思い出したのか、視界が急に白くなる。膝から力が抜ける。
「坊ちゃま!」
妖精の悲鳴が遠い。
ドラコは最後に一瞬だけ、地下室の暗さから解放された天井の灯りを見た。
それから、意識が深いところへ沈んだ。