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第3話:鉄のクジラと銀の芳香
【前半:微睡みの境界線】
アランの意識は、深い沼の底から浮かび上がるように覚醒した。
「マザーズ・クライ」の残滓が頭の奥で鈍く痺れている。右腕の黒い繊維は、リーザの適切な処置のおかげで、今は静かに沈黙していた。
「……っはは! 見ろよ、この彫刻。ただの箱じゃねえ、これは『本物』だぜ!」
冷たい鉄の壁に反響する、聞き慣れた野太い声。アランが重い瞼を開けると、そこにはランプの灯りに照らされたギリアムの横顔があった。彼はテーブルの上に、泥と油にまみれた「銀の箱」を誇らしげに置いている。
「ちょっとギリアム! 声が大きすぎるわ。アランが起きたらどうするのよ、もう」
三つ編みを揺らして振り返ったリーザが、腰に手を当ててギリアムを睨む。だが、その瞳は怒っているというより、呆れ半分、好奇心半分といった様子だ。
「おはよう、アラン。……まだ、身体は痛む?」
アランへ向き直った時の声は、先ほどとは打って変わって、春の陽だまりのように柔らかい。アランは短く「……別に」とだけ答え、上半身を起こした。
【後半:高価な無駄遣い】
「おいアラン、目覚めの一仕事だ。この箱の鍵を、お前のその『指先』でちょいと弾いてくれねえか?」
ギリアムがニヤリと笑う。厳重な鍵がかけられた銀の箱。一国の軍事機密でも入っていそうな重厚感だ。
アランは呆れたように息を吐き、変異していない方の手でピンを弄る。「……そんなことに力を使わせるなよ」
カチリ、と硬質な音がして、蓋が開いた。
ギリアムが息を呑み、リーザが身を乗り出す。金貨か、あるいは新型のウイルスか。
だが、溢れ出したのは、何年も何十年も閉じ込められていた、高く澄んだ「花の香り」だった。
「……茶葉?」
ギリアムが間の抜けた声を出す。中に入っていたのは、丁寧に密封された最高級の紅茶の葉だった。
「おいおい、命懸けで持ち帰ったのが、ただの枯れ葉かよ! 銃の一丁でも入ってりゃ景気が良かったんだがな!」
頭を抱えるギリアムを見て、リーザは我慢できずに「ぷっ」と吹き出した。
「あはは! 残念だったわね、ギリアム。設計図じゃなくて」
「笑うなリーザ! 命懸けだったんだぞ!」
「はいはい、わかったわよ。でもいいじゃない、これ、アールグレイよ。今のロンドンじゃ、ダイヤモンドより珍しいわ」
リーザは負けじと言い返すと、鼻歌混じりに古いケトルを火にかけた。
やがて、座礁した潜水艦の無機質な部屋に、場違いなほど優雅な香りが満ちていく。
「ほら、アラン。熱いうちに」
縁の欠けたティーカップが差し出される。アランはそれを受け取り、立ち上る湯気の向こう側にある「日常」を見つめた。
「……味は、普通だな」
「贅沢言うなよ! その一口で、俺の稼ぎが一日分吹き飛んでんだからな!」
「文句を言わないの。ほら、ギリアムの分は特別に濃いめにしてあげたから」
「……お、おう。気が利くじゃねえか」
ギリアムの不器用な照れ隠しと、リーザのいたずらっぽい笑い声。
窓のない鉄の壁の向こうでは、今も赤黒い繊維が世界を侵食し続けている。けれど、この香りが漂う空間だけは、誰にも侵されない聖域だった。
アランは熱い紅茶を一口啜り、心臓の奥が静かに解けていくのを感じた。
「……次は、もっとまともなブツを持ってこいよ、ギリアム」
「へっ、言ってろ。次は金塊でも詰め込んだ箱を拝ませてやるよ!」
下らない、本当に下らない会話。
けれどアランは、この香りと、どうしようもない仲間たちの声を繋ぎ止めるためなら、何度でもあの地獄のような外の世界へ戻れると思った。
それは、彼が「未完の黒」ではなく、「アラン・ヒューストン」として生きるための、静かな祈りだった。
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