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第二話「飼育の温度」
六月になると、雨が校舎を閉じ込めた。
昇降口の外は朝から灰色で、藤棚はとっくに花を落として、剥き出しの蔓だけが雨に濡れていた。灰次はその蔓を見るたびに、なんとなく自分みたいだと思った。何かに絡みついていないと、立っていられない植物。それ自体には幹も根も持たない、寄生する形でしか存在できないもの。
でも今は、絡みつく先がある。
それだけで、ずいぶん違った。
放課後の図書室に、藍は今日も来た。
傘を持たずに来たらしく、制服の肩が少し湿っている。灰次はそれに気づいて、何か言おうとして、やめた。藍に「大丈夫ですか」と聞くのは、なんだか変な感じがした。完璧な人間に向かって「大丈夫ですか」と言うのは、自分の方が上に立とうとしているみたいで、おこがましい気がする。
藍は何も言わずに隣に座って、今日は文庫本を出さなかった。
ただ灰次の方を見て、
「今日、何かあった?」
と聞いた。
灰次の手が、机の上でわずかに動いた。
今日は体育だった。バレーボールの授業で、チームを作るときに余った。先生が困った顔をして、じゃあ先生チームに入りなさいと言って、クラス中が笑った。先生も少し笑っていた。笑っていた気がした。たぶん笑っていた。
「……別に、何も」
「そう」
藍は疑わなかった。追わなかった。それがかえって、灰次の中の何かを緩ませた。
「体育が」と、気づいたら口が動いていた。「嫌いです」
「なんで?」
「チームを作るとき、いつも余るから」
言ってから後悔した。惨めすぎる。こんなことを藍に言うべきじゃなかった。引かれる。哀れまれる。どちらも嫌だ。どちらも——
「そっか」と藍は言った。「それは、しんどいね」
哀れみじゃなかった。怒りでも、励ましでも、アドバイスでもなかった。ただ「しんどいね」。その四文字が、灰次の胸のどこかに静かに落ちた。
「……はい」
「他には?」
他には。
灰次は少し考えてから、また話した。今度は上履きのことを。今朝は消しゴムのかすじゃなくて、カッターの刃が入っていたこと。怪我はしなかったけれど、素足で踏んでいたら、と思ったら手が震えたこと。
藍は聞いていた。
ただ、聞いていた。
それだけなのに、話し終わると灰次は不思議なほど軽くなっていた。体の中に溜まっていた何かが、少しだけ抜けていくような感覚。
「——藍は」と灰次は言った。「なんで私に話しかけたんですか。最初」
少し間があった。
「なんでだろ」と藍は言った。窓の外の雨を見ながら。「顔色、悪そうだったから」
「それだけですか」
「それだけ、かな」
嘘じゃないと思った。でも全部でもない気がした。でも灰次には、それ以上追う言葉がなかった。
藍が灰次の方を向いて、少し笑った。
「私がいるでしょ」
と言った。
「だから、まあ、なんとかなるよ」
なんとかなる、の根拠は何もなかった。藍がいたところで、靴箱にカッターを入れる人間がいなくなるわけじゃない。チームに入れてもらえるわけじゃない。家が変わるわけじゃない。何も変わらない。
なのに灰次は、その言葉を信じた。
信じてしまった。
葛城藍は、自分のことをよく分かっていた。
完璧だと言われることには慣れていた。成績は常に学年一位で、生徒会の役員で、先生からも同級生からも一目置かれている。でもそれは藍にとって、手段に過ぎなかった。完璧であることで、人が集まってくる。集まってきた人間が、藍に頼る。頼るうちに、離れられなくなる。
それが、好きだった。
正確に言うと。自分よりずっと弱い人間が、藍だけを見て、藍だけに縋って、藍がいなければ何もできないという顔をする瞬間が、好きだった。
醜い趣味だとは思っていない。これは藍の中では、一種の美学だった。壊れそうなものを、壊さずに手の中に持ち続ける技術。逃げ出せないように、でも逃げ出したいとも思わせないように、ちょうどいい温度で包み続けること。
標本を作るみたいに。
生きたまま、形を保ったまま、自分の手の中だけに存在させること。
今まで何人かそういう人間がいた。二年生のときの後輩で、親に虐待されていた子。隣のクラスの、友達ができなくて泣いていた子。どちらも、藍が少し手を差し伸べるだけで、すぐに縋ってきた。依存した。藍を必要とした。それを見るたびに、藍の中の何かが静かに満たされた。
尖崎灰次も、最初はそういう対象のひとつだった。
家庭環境が最悪で、いじめられていて、誰にも必要とされていない。条件が揃いすぎていた。図書室で声をかけたのは、半分は衝動で、半分は計算だった。あれだけ追い詰められた人間なら、少し優しくするだけで落ちる。そう思っていた。
実際、落ちた。
早かった。三週間も経たないうちに、灰次は藍を見る目が変わった。図書室で藍を見つけると、ほんの少し、表情が解ける。それだけで灰次の顔全体が違う顔になる。そのことを、灰次は自分では気づいていないだろう。
気づいていないところが、よかった。
ただ。
藍は最近、少し——ほんの少しだけ——計算の外のことを考えることがある。
灰次の話を聞いているとき。靴箱にカッターの刃が入っていたと、震えた声で言ったとき。藍の中で何かが、予定にない動き方をした。怒りに近い何かが。誰かに対する怒りが。
それは珍しいことだった。他者に対して怒りを感じるほど、藍が誰かを——
藍はそこで考えるのをやめた。
窓の外では雨が続いていた。
七月になった。
期末試験が終わって、クラスの空気が少し緩んだ。緩んだ分だけ、灰次への嫌がらせも少し激しくなった。暇になると、人間はそういうことをする。
ある日の昼休み、灰次は購買に行こうとして廊下で肩をぶつけられた。わざとだった。弾みで持っていたパンが床に落ちて、踏まれた。踏んだ女子は振り返らなかった。笑い声だけが廊下に残った。
灰次は踏まれたパンを拾って、ゴミ箱に捨てて、図書室に向かった。
今日は藍はいなかった。
窓際の席に座って、ひとりで外を見た。七月の空はもう梅雨が明けていて、まぶしいくらい青かった。その青さが、なんだか腹立たしかった。晴れていると損をした気分になる。曇っている方が、自分と釣り合っている気がして、楽だ。
スマートフォンに通知が来た。
藍からだった。
『今日、行けない。ごめん。でも明日は行く』
それだけだった。それだけの文章なのに、灰次は三回読んだ。
明日は行く。明日は行く。
返信を打とうとして、何を書けばいいかわからなくて、スマートフォンを伏せた。
窓の外では、蝉がうるさいくらいに鳴いていた。
翌日、藍は来た。
約束通り、図書室の窓際に座った。今日は文庫本を持っていなくて、ただ灰次の隣で外を見ていた。しばらく何も話さなかった。それでも居心地が悪くなかったのは、たぶん、沈黙に意味があったからだ。ただの沈黙じゃなくて、誰かと共有している沈黙。
「ねえ、灰次」と藍が言った。
「はい」
「他に、誰かいる?話せる人」
灰次は少し考えた。
「いないです」
「家族は?」
「……いないです」
藍はそれを聞いて、何も言わなかった。慰めなかった。かわいそうとも言わなかった。ただ少しだけ、灰次の方に向き直って、
「じゃあ私だけか」
と言った。
確認するような言い方だった。でもその声の奥に、何か別のものが混ざっていた気がした。灰次にはうまく読み取れなかった。
「……はい。藍だけです」
「そっか」
藍は小さく笑った。
「他はいらないでしょ、どうせ」
どうせ、というのは、どういう意味だろうと灰次は思った。慰めか。諦めか。それとも別の何かか。でも藍の顔を見ると、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「……はい」と灰次は言った。「いらないです」
藍はまた窓の外を見た。
その横顔を、灰次はこっそり見た。
きれいだと思った。
この人がいれば、という言葉が頭の中に浮かんで、灰次は急いでそれを打ち消した。いつからそんなことを考えるようになったのか、自分でもよくわからなかった。ただ、藍がいない昨日の図書室がひどく広くて、ひどく静かで、それに気づいたとき少し怖くなった。
その怖さの名前を、灰次はまだ知らない。
その夜、灰次は布団の中でスマートフォンを見た。
藍とのトーク履歴を、上まで遡って読んだ。最初のメッセージは藍から来た。図書室で連絡先を交換してから、二日後のことだった。
『今日、行く?』
それだけだった。それだけで、灰次は当時どれほど嬉しかったか。画面を前に三分くらい固まって、返信に十分かけた。
今読み返すと恥ずかしかった。
でも藍のメッセージはいつも短くて、素っ気ないのに、なぜか温かかった。不思議な人だと思う。完璧なのに、どこか掴めない。近いのに、どこかに霧みたいなものがかかっている。
灰次は画面を閉じて、天井を見た。
夏の夜は暑くて、隣の部屋では母親の立てる物音がしていた。焼酎の瓶をどこかに当てた音か、それとも眠りながら寝返りを打った音か。どちらでも変わらないと、灰次は思った。
変わらない毎日の中で、変わったことがひとつだけある。
それだけで、今は十分だと思った。
思ってしまった。
藍はその夜、自室で静かに考えていた。
窓を開けると、夏の虫の声がうるさいくらいに入ってくる。藍はそれを閉め直して、ベッドに寝転んで、天井を見た。
今日の図書室のことを考えた。
「他はいらないでしょ」と言ったとき、灰次が「はい」と言った。
あの「はい」は今まで集めてきた依存の言葉と同じはずだった。形の上では同じだ。自分だけを必要とするという宣言。それを引き出せたという達成感があるはずだった。
でも。
「はい」と言ったときの灰次の顔が、頭から離れない。
うつむいて、少し考えてから、それからゆっくり「はい」と言った。その声の震え方とか、目の伏せ方とか、そういうものが——
藍は天井に向かって、小さく息を吐いた。
これは計算の範囲内だ、と自分に言い聞かせた。ちゃんと予定通り進んでいる。灰次は藍に依存している。藍は灰次を手の中に置いている。それだけのことだ。
予定通り。
ただ、灰次の「はい」が。
あんなに小さくて、傷だらけで、それでもまっすぐで。
藍はもう一度、息を吐いた。
虫の声は壁越しに、まだ続いていた。
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くるぶしの骨
꒰ঌ面長ちゃん໒꒱
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