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夏の恵みを浴びて緑に輝く梯子山の北方には、丘多きミーチオン地方の中でも特に多くの丘陵が連なり、中でも最も名高き真円の丘を覆うようにして、ミーチオン都市群の盟主都市、都市国家ヘイヴィルがあった。
丘を囲む街は新市街と一言でまとめられるにはあまりにも多様な建物が連なっている。西方の国境付近の土地に見られるような鉛で葺かれた尖塔に、バイナ海沿岸では珍しくない琥珀杉の寺院、またコルボール山の麓に建てられるような円筒造の家も軒を連ねている。これはミーチオン各地からありとあらゆる民族が身を寄せた為に形作られたからだ。
新市街は共通性の欠いたまとまりのない歪な街ではあるが、平らな土地を全て建築物で覆ったあまりにも広大な都だ。
「凄い景色」
ユカリは誰にともなく溜息のように感想が出る。それにグリュエーが答える。
「うん。ユカリの故郷がいくつ入るんだろうね」
ユカリは少しだけ数え、馬鹿らしくなってやめる。
「途方もないよ。義母さんに伝説の都や幻の街の話を何度も聞いて沢山の想像をしたけど、実際に見るのとは違うんだね。全身でこの大都市を感じてるような気分」
丘の緩やかな斜面には旧市街と呼ばれる街がへばりついている。建国の時代から伝わる格調高い伝統に則って、並び立つ家々の白い屋根は緩やかな斜面と平行に協調的に建てられており、古き預言者の神託に従ってどの建物も必ず二棟を組み合わせた形になっている。またこの街の篤い信仰を示すように、坂や階段も含め、全ての道の始まりと終わりに女神像が安置されていた。
ヘイヴィルにたどり着いた時、新市街から旧市街を遠くに見、太陽の光を強く反射する白い丘は白大理石が剥き出しになっているのだろうと思った。まさか家々の屋根に覆われているとは夢にも思わなかった。その情景は故郷のオンギ村を囲む白雪草の丘をユカリに思い起こさせ、幼い頃の記憶と共に現れてユカリの頭を優しく撫でた。
「こんな街が無くたってきっとこの丘は美しかったよ」
グリュエーにそう言われ、しかしユカリは否定できなかった。丘を丸々覆ってしまっている旧市街は、それはもう弛まぬ人間の技になる優れて精妙な街には違いないが、神の造り給うた真円の丘を隠してしまうのはあまりにも深き業のようにも思えた。
うってかわって真円の丘の頂に築かれた聖市街と呼ばれる城郭はそれがそのまま神殿でもある。魔を退ける聖なる壁に、神々を称える柱、そして二柱の白大理石の体の女神。これがかの名高き預言者招く者の夢に見た都。古の王が真円の丘に築いた敬虔なる都。巨大神殿の街ヘイヴィルである。外縁の新市街を除けば、築造された古の頃よりミーチオンの千の丘陵と同じ齢を重ねてなお姿の変わらない驚異の街だった。
真円の丘の頂、聖市街の前で、未だかつて見たことのない巨大な扇状の街を見下ろして、ユカリは眩暈を起こしていた。景色さえ心の内に収められずにくらくらしている。また、この街に収まる数の人間がいることに得も言われぬ無力感を覚えた。自分という存在がいかにちっぽけか見せつけられているような感覚に陥る。
そして、その頂に並び立つ二柱の女神の存在にユカリは畏怖を感じ、その巨大さに遠近感が狂ってしまった。それでもユカリは灯に誘われた蛾のように新旧市街の様子にはほとんど目もくれず丘を登ってきたのだった。
しかし、こうして振り返り、改めて扇の如く広がる街並みを眺めると、感じるものも違うというわけだ。
新市街にはどこに目を向けても新たな発見がある。橋を重ねたような建物、塔を倒したような建物、大樹をひっくり返したような建物。
「いいけどさ。いつまで見てるの?」グリュエーがユカリのうなじから服の中に吹き込もうとする。
無風のはずの辺りで、ただ一人装束を風にはためかせるユカリはされるがまま、身じろぎもせずに答える。「分かってるってば」
飽きることのない景色から何とか目を引きはがし、ユカリは、聖市街と、堂々たる神殿と向かい合った。
確かにユカリは魔導書の気配を感じていた。だが、まるで気配が大きな流れとなって渦を巻いているようだ。おそらく複数の魔導書の気配だろうとユカリは想像していた。それも丘に近づくにつれ気配の渦は深まったため、神殿に魔導書が集まっているのではないか、とユカリは考えていた。
神殿は、邪悪な念や悪夢を退ける力を持つ真白き城壁に囲まれ、その向こうには神々を寿ぐさらに高い柱が並び立ち、その柱よりも高い位置に女神のご尊顔を拝めた。
神殿の唯一の門は誰を拒むこともなく開いている。そこに集まる人々は奇妙な面々だ。厳めしい表情で白い革の鎧を装った門番はともかく、子供たちが門の前に並んで順番を待っている。門番の兵士たちは聖市街に入る子供たち一人一人の所持品を検め、悪しき者を見破る魔術を行使している。
なぜ子供たちしか出入りしていないのかは分からないが、今所持品検査を受けるわけにはいかない。いったん出直そうと旧市街に戻ろうとすると、一人の兵士が大股に近づいてきて、ユカリを呼び止めた。
「失礼、そこのお嬢さん。少しいいだろうか?」
丁寧だが、決して逃がしはしないという意思を感じる物言いだった。兵士はいかにも屈強な鍛え上げられた体に剣を佩いている。さりとてユカリも兵士の言葉などそよと吹く風の如くなんでもないという様子で素直に応じる。
「はい。何の御用でしょう?」
余裕ぶって微笑みも見せる。
「旅の方だろうか? 申し訳ないが、所持品検査に応じていただきたい」
物腰柔らかだが有無を言わせぬ言葉だった。
「いえ」とユカリは言って、言うべき言葉を喉の奥に探す。「私は神殿の威容にいたく感激いたしましたし、女神さまのご尊顔を見えただけでもこの身に余る幸いですから、神殿への参詣はまた今度と考えておりまして、なので……」
「あいにくだが」門番の兵士はユカリの言葉を遮るように手を掲げ、聞き分けのない子供を叱る時のように二つの瞳を覗き見て、頑なに言った。「あの門の前の検査とは別に、預言者殿の託宣に従い、貴女のような外国の女性もまた所持品検査する必要がある」
合切袋を掴む手に力が入ってしまうが、兵士に悟られる前に緩める。
「何をお探しなのか聞いても?」
兵士は首を振る。「申し訳ない」
逃げるほかになさそうだ、とユカリが半歩足を引いた時、その細い肩が硬く大きな手に掴まれた。心臓を叩かれでもしたようにユカリは驚き、振り返る。
そこにいたのはユカリよりもさらに丈の高い女、かつては黒衣の野人とあだ名された魔法使いパディアだった。以前と違い、袖に細かな刺繍の施されたゆったりとした黒衣を纏っているが、その巨体に変わりはなかった。
兵士は怪物に対峙したかのようにのけぞり、目を見開いて言う。「パディアさん! いつお戻りになられたのですか?」
その声音には驚き以上に喜びの響きが含まれているようだった。
「つい先日ね。それより、この子は私の友人よ。邪険に扱わないで。子供は丁寧に扱うのが今のこの国の何より大事な法なんでしょ?」
パディアに軽々と引っ張られ、ユカリはその大きな背中に隠れるように引き下がる。
「子供ですか」と呟いて兵士は、巨体の横から少しだけ顔を覗かせるユカリを見、パディアを見上げる。「それはともかく、パディアさん。貴女がご無事でよかった。皆心配していたのです。良からぬ噂ばかりがこの街に届いておりました」兵士は喉につっかえた言葉を吐き出すように尋ねる。「それで、ビゼ殿にはお会いできましたか?」
パディアは眉間にしわを寄せて首を横に振る。「いいえ、残念ながら」
その嘘が自分の表情を通じてばれないように、ユカリは咄嗟にパディアの背中に顔を半分隠す。ビゼを見つけたことは知られない方が良いらしい。
「そうですか。それは私も残念です」兵士の表情にはあまり変化が無かった。元より魔導書探求の旅に対して期待は低かったのかもしれない。「しかし、ということは魔導書も手に入らなかった、そういうことですね。であれば、とても言いにくいことではありますが、もはやこの国に貴女の地位はありません。以前であれば国外逃亡者として拘束したところです」
予想していたことでもあったのだろう。パディアは微笑みまで浮かべて、腕を組み、首をかしげる。
「以前であれば、ね。今ならどうなの?」
「別に、どうもしません」と兵士は自嘲気味に答える。「この国は変わりましたから。政務議院も市民会も解散しました。今は古い預言の通りに、預言者と神々がこの街を治めています」
「預言者ね。神殿に籠って一体何をしているのかしら? 私の知っている議員たちは前と変わらず議論に勤しんでいる様子だったわ。まあ、少し議事堂は貧相になっていたけれど」
「パディアさん」と兵士が窘めるように言う。
兵士は困ったような表情でよそへ視線を向けていた。ユカリは人の気配を感じ、辺りを見回す。数人の子供たちが路地から、まるで作り物の偶像のように暗い瞳でこちらをじっと見つめていることに気づいた。
「いや、すみません」と兵士は暗い表情で俯く。「別に以前と比べてこの国が特別悪いわけではありません。失われたものに対して余りある偉大な力がこの国を守ってくれていますから」
「皮肉なものよね」パディアはユカリの手を握る。「それじゃあ、また今度ね」
ユカリはパディアの手に引かれ、旧市街の坂を下りていく。
子供たちはもういない。兵士は追って来ない。