ユカリはパディアの厚くて硬い戦士の手に手を引かれる。夏に雪の降りたる様に似たその白き街並みの美しさに反して行き交う人々の陰鬱な旧市街を通り抜け、連れて来られたのは雑多にして喧噪の大きな新市街だった。
この街に来たばかりの時は白い丘と神殿に惹きつけられていたために新市街をまるで見ていなかったことにユカリは気づく。
街を飛び交うユカリの耳慣れない言語に乗って、人々の熱気が渦巻いている。海辺に生きる者の風や波に掻き消されない言葉、今では余り話す者のいない丘と通ずることができるという言葉、夢幻の宮の方に謁見した際に使う格調高い言葉。それらが涎を誘うような芳ばしい香りや馬や驢馬の熱い吐息、乾いた砂の臭いとが織り成す街の空気を揺らして響いている。単に歪な寄せ集めではなく、雑多ゆえの力強さがこの街にはあった。
そして二人は場末の食堂に入る。温かで胃をくすぐるような馨しい香りがユカリの鼻と舌を誘う。
食堂はとても広く、屋根に設けられた幾つもの円い採光窓が斜めに照らし出している。夏の日差しと影の交差する中で、こじゃれた装いの老人や妙に逞しい僧侶、粗野ながら威勢の良い婦人など、多様な新市街を象徴するようなさまざまな人物が食事をし、しかし幸薄い街の暗い行く末を語り合っていた。
入った途端、人々の視線がパディアの巨体に注がれるこの感覚も久々で、ユカリは懐かしい気持ちになった。まるで幽霊でも見るような顔をしている者もいるが、行方不明だった有名人に対する態度としては少し落ち着きがあるくらいだ。
そこで赤毛で長髪の優男、魔導書探求の旅に出て己の鎧に閉じ込められた魔法使いビゼが待っていた。数人の老人たちと顔を寄せ合って、難しい顔で何かを話し合っている。
兵士に対してパディアは嘘までついたのに、ビゼの生存を隠す気はまるでないように見える。
こちらに気づくとビゼが立ち上がり、老人たちは別の机へと移動してまた難しそうな会話を始めた。ビゼは輝かしい笑顔を浮かべて両手をユカリに差し伸べる。ユカリがその手を掴むと引き千切られそうなほどに手を上下に振った。
「お久しぶりです、ビゼさん。再会できて嬉しいです」
「ああ、久しぶりだね、ユカリさん。僕こそ嬉しいよ」
ビゼが奥に引き、その隣にパディアが座り、その前にユカリが座った。ユカリは別れた後にあった出来事を話す。
ハルマイト、レンナ、霊薬のこと。ヒヌアラ、ケトラ、パピ、クチバシちゃん人形のこと。
「そうか。つらい思いをしたね。なにはともあれ、ユカリさん、君が無事でよかった。そして例のあれもまた」
「無事です」ユカリは膝の上に置いた合切袋を抱きしめる。
「良かった。あれから四つ見つけて、手に入れたのは、一つか。これで彼女らは六つ持っているということになる。でも君は四つに加えて、大いなる一つがあるんだ。気にすることはないさ。しかしとんでもない状況だ。かつてこの大陸のどこであれ、これほど例のあれが集まった状況はないだろう。恐ろしいことではあるが、魔法使いとしてこれほどの機会に巡り合えることは一生に二度とないはずだよ!」
パディアは初めから、ユカリはそろそろ冷たい眼差しをビゼに向け始めた。
「ああ、すまない。その、すまない」ビゼは咳払いし、気を取り直す。「取り組むべき問題はそれだけではないね。多くの問題が山積みになっているし、それを一息に解決してくれる魔法はない」
パディアが店員に次々と呪文のような名前の料理を注文している。
「ビゼさん。別に潜伏しているわけではなかったんですね」とユカリは不思議そうに呟く。
ビゼもまた不思議そうに尋ねる。「ん? 何の話だい? 特に身を隠す理由はないが」
ユカリは声を潜めて答える。「さっきこの国の兵士と話していた時にパディアさんがビゼさんは見つからなかったって」
「ああ、そういうことか。いや、隠したいのは僕じゃなくて例のあれだよ」
パディアが言葉を継ぐ。「この国の人間が私に対して、ビゼは見つかったのかと尋ねるとすれば、例のあれの所在についての含みがあるということだからね。下手に勘繰られる前に話題を断ち切っただけよ。こと例のあれに関しては有ると言っても無いと言っても、結局は勘繰られるでしょうから」
「そういうものなんですか?」ユカリはビゼののんびりした顔を覗き込む。「その、少なくともビゼさんは、探求の使命を国から申し渡されるなんて、それだけ信頼があるということでは?」
ビゼは神妙そうに何度か頷く。
「そうだとも言えるし、そうじゃないとも言える。政治的な駆け引きがあるんだ。手に入れられると思っていた者、思っていなかった者。僕が手に入れた時に政治的影響力が強まる者、弱まる者。僕を慕う者の中にも反対する者はいたし、僕に反感を持つ者の中にも支持する者はいたからね」
「はあ、何だか複雑なんですね」ユカリは気の利いた相槌を打てるほど理解できていなかった。
パディアが頬杖をつき、悪戯っぽい笑みを浮かべてユカリに問いかける。「ビゼ様が旅立った後、ビゼ様に可能性を感じていた者たちの一番の心配ごとはなんだと思う?」
ユカリは不思議そうな面持ちで思いつくままに答える。
「そりゃあ、ビゼさんの身の安全とか、探求そのものの成否では?」
パディアは首を振って否定する。「持ち逃げよ」
ビゼがビゼにしては大きな声で笑うが、ユカリには笑いごととは思えなかった。
「何だか私には嫌な出来事、嫌な国としか思えないんですけど」と言ってユカリは笑っている二人を睨む。
「それであってるよ」と笑みを浮かべながら、ビゼは言う。「それでも生まれ故郷のこの街が僕たちは大好きだけどね。ユカリはどう思った? ミーチオン都市群の盟主にして真円の丘の都市国家ヘイヴィル市に何か感想はあるかい?」
ユカリは嫌な気持を振り払おうと、この街で出会った素敵な種々を思い浮かべる。
「こんな大きな街は初めてです。本当に何もかもがあるんじゃないかと思えます。鳥と鳥籠と鳥の鳴き声を売っている店がありましたし、水売りたちが運んでいたあの水量! あれではまるで池売りです。それに信仰とは縁の無さそうな小さな物が堂々と屋根の上で戯れていました。何より、あの二柱の女神! あの女神はこの街以外でも何度か見かけたことがあります」
ユカリの心の箱に納まりきらなかった不思議が口から溢れ出た。
「ああ、呪いの乙女と祈りの乙女だね。ハルヴァンの娘たちとも呼ばれてる。僕たちがこの街から出立する日には彼女たちに探求の成功を祈願したものだ。帰ってきた時にはまた感謝の祈りを捧げるつもりだったんだけどね。聖市街が占領されているとは」
ユカリは城壁の外から眺めることしか出来なかったが、その大きさと精巧さのお陰で表情までよく見て取れた。天を仰ぎ叫びたてる女神と、手を組んで目を伏せる女神だ。
「ビゼさん、一体、この街で何が起きているんですか? 私がこの街を訪れるのは初めてですけど、それでも何かの歪みがあることは分かります。それもあの丘、神殿に近づくほど歪みは大きくなっているような」
「うん。その勘は正しい。僕も何から説明すべきか、と悩んでいたんだ。多くの問題が積み重なっている。まずユカリさんが最も気になっているのはユーアのことだろう?」ビゼは声を潜め、ユカリの表情を窺う。「今この街を支配しているのが、そのユーアだ。おおよそひと月と少し前、ワーズメーズから立ち去った彼女らは真っすぐにこの街へとやってきたらしい。そして瞬く間に神殿を、ひいてはヘイヴィルを乗っ取った」
「ネドマリアさんや巨人ケトラ、パピだけでこの街を?」
ビゼは神妙な顔で頷き、さらに声を小さくする。
「しかしユカリさんが想像しているような戦争ではないよ。戦争にすらならない。数人の魔法使いがやって来て、魔導書の強力な魔法で子供たちを連れ去る、なんてことは防ぎようがない。堅い魔法の守りのあっただろう貴族の子息まで例外はなく、ちゃちなまじないやお守りなどなすすべもない。そうして聖市街から全ての大人が追放された」
「そうして聖市街は子供だけの街になった」と、ユカリは意味深に呟く。
「ああ、もちろん、これまでに何度か現状の打開が試みられた。ユーアの暗殺、子供たちの解呪。全て失敗に終わっている。その後、何度か交渉の機会を持ち、彼女らは言うなれば元首という立場に収まったわけだ。預言者と呼ばれているが、もちろんほぼ全ての政は丸投げだ。結局のところ対外的には何も変わっていないのかもしれない」
ユカリは重苦しい気持ちで言葉を吐き出す。「でもこの街の人々は、常に子供たちを人質に取られているようなものなんですよね? 攫われた子供たちを助けたユーアが子供を盾にするはずもないけど、この街の市民にそんなこと知る由もない。常に不安に苛まれることになっている、と」
「その通り。ヘイヴィルの子供たちは一見とても自由にやっている。だけどいつでも彼女らによって操り人形になる状態だ。一方で彼女らは子供に関するいくつかの政策を指示してもいる。子供に対する犯罪の重罰化とか貧民層の子供の保護とか、ね。子供のための指令を、子供を人質にして従わせられて、意図が分からずヘイヴィル市民は混乱してるよ」
ユカリはちらりと合切袋の中のクチバシちゃん人形を見る。ぴくりとも動かない。
「それが幸せの国なのかもしれません」とユカリは呟く。
パディアは怪訝な面持ちでユカリの横顔を覗く。「幸せの国って、クチバシちゃんの幸せの国? 最後の目的地の」
それはクチバシちゃんの人形劇に語られる物語を通して目指し続ける目的地の名前だ。
「そうです。彼女らの一人が言っていました」ユカリは迷宮都市ワーズメーズでの騒動の夜を思い出す。「幸せの国のためだとか何とか。子供が幸せな国ってことなのかも」
そこへちょうどいくつかの皿が運ばれてきた。薄切り玉ねぎを散らした赤いスープ、山羊の乾酪の乗った豆の甘粥、葡萄葉包みの肉団子。どれもこれもユカリの食欲を刺激する香気を立ち昇らせていた。
スープに手を付けたユカリに構わずビゼは続ける。
「とはいえ人間不思議なもので、すぐに子供に害がなされないとなれば受け入れる者も出てきてはいる。新市街を見たなら分かるだろうけど、おおむね平和な営みが続いてはいる」
ユカリは怪訝そうに尋ねる。「このまま幸せの国が続いていくってことですか?」
「どうだろうね。少なくとも子供の事情に世界が付き合うことはないだろう。数人の魔法使いが、魔導書を所有する都市国家ヘイヴィルの中枢を骨抜きにしたんだ」
塩辛いスープに少し咳き込み、ユカリは確認する。
「そのことが既にほかの国々にまで伝わっているってことですね?」
「そう。当然そんな大それたことをする魔法使いたちは魔導書使いでもあるのだろう、と誰もが考えているはずだ。ミーチオン都市群の盟主都市がそんな状況では同盟内の国々も不安定になりかねない」
「ワーズメーズでも一部にそういう話が出てたわ」パディアは体の大きさの割に少しずつ甘粥を食べている。「魔導書を取り戻せ、なんて話がね」
「もちろん話はミーチオン都市群内の均衡だけに及ばない」ビゼが言葉を付け加える。「その他の都市国家同盟、『アルダニ同盟』や『洗い清められた土地代表院』なんかも動くかもしれない。ひいては十都市連盟全体に及びかねない。そして何より救済機構だ。ほぼ確実に焚書官が多数この街に入り込んでいる。元々布教活動に制限のない新市街には彼らの足掛かりがあるからね。総本山の判断次第でいつ行動を始めるか分からないよ」
「そういえば」とユカリは言って、肉団子に伸ばそうとした手を引っ込める。「さっき彼女らは六つ持っているって言っていましたよね?」
今ユカリが把握している限りでユーア達が持っているのは『迷わずの魔法』、『勇気を与奪する魔法』、『秘密を暴露させる魔法』、『物の大きさを変える魔法』、『白紙の魔導書』の計五つのはずだ。
「ああ、残り一つは元々この国が所有していた魔導書だよ。管理者でもあったこの国の元首、執政官もまた神殿から追放されたんだ。勿論魔導書は奪われた。そしてもう一つ、この国には……」
突然、獄吏が巡回を始めた牢獄のように食堂が一斉に静まり返り、ユカリたちも会話を中止した。
何事かと見回すといたいけな少女が一人、静かに微笑みを浮かべて入り口に立っている。ユーアと同じくらいの背丈だが、自信に満ち溢れた立ち姿だ。鼠色の長衣を青紫の腰帯で留めている。黄金色の髪は優雅に波打ち、濃緑の冷たい眼差しで食堂内を睥睨する。
「あぁ、いたいた。死にたくない奴は店を出てよ」
そう言うと同時に、少女は手近にあった分厚い天板の机を軽々と細腕の片手で持ち上げ、ユカリたちに向かって投げつけた。パディアが杖と呪文で飛んできた机を弾き飛ばす。食堂の客たちが悲鳴と共に窓や裏口の方へと、巣に火を放り込まれた鼠のように逃げ惑う。
「ご挨拶ね」パディアは杖を構え、少女に向ける。
「やめてよ。罪なき少女に暴力を振るう気なの?」少女は嫌な笑みを浮かべ、身を守るように自分の肩を抱きしめる。「僕は魔導書が欲しいだけなんだ。ああ、でも、その前に個人的にはユカリをぶっ殺しておきたいな」
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