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愛されががりかまちょ太宰可愛いよね
薄暗い探偵社の事務室に、タイプライターの打鍵音だけが不規則に響いている。窓の外は、もうすっかり夜の帳が降りていた。
太宰治は、自身のデスクに突っ伏して、所在なげに万年筆を弄んでいた。書類仕事は山積みだが、彼の意識はとうにそれらから逸脱している。
「ねぇ、中也」
不意に発せられたその声は、甘ったるく、どこか湿り気を帯びていた。
ソファで黙々と報告書を書き進めていた中原中也は、顔を上げることなく鼻を鳴らした。
「……仕事しろ、手前」
「仕事なんて面白くないよ。それより、私を見てくれないかな。さっきから一時間も放置されている。これは人道的な問題だよ」
「放置じゃねェ、放任だ。大体、手前が勝手に俺の仕事場に転がり込んできたんだろうが」
中也は呆れたように息をつき、ようやくペンを置いた。 ポートマフィアの幹部である中也が、武装探偵社の社員である太宰と、こうして平穏な(あるいは一方的に騒がしい)時間を過ごしていること自体、本来ならあり得ない話だ。だが、双龍の抗争を経て、彼らの関係はかつての「相棒」という言葉では括れない、歪で、それでいて強固な何かに変質していた。
太宰は椅子のキャスターを転がし、中也の座るソファのすぐ傍まで寄ってきた。
「中也は冷たいなぁ。私、今日はとっても頑張ったんだよ? 爆弾魔を一人捕まえたし、乱歩さんに褒められたんだ」
「そりゃ重畳だな。で、何が望みだ。酒か、それともまた変な入水スポットの紹介か?」
「違うよ。そんな世俗的なものじゃない」
太宰は中也の膝に、すとん、と頭を乗せた。上目遣いで中也を見つめるその瞳には、子供のような独占欲と、底の知れない執着が混ざり合っている。
「……重てェよ」
文句を言いながらも、中也の手は自然と太宰の柔らかな茶髪に向けられた。指先が包帯の巻かれていない項を掠める。太宰はその感触に満足そうに目を細めた。
「中也」
「あ?」
「呼んでよ」
「呼んでるだろうが」
「そうじゃない。いつもの呼び方じゃなくて、もっと特別な……そう、愛を感じるような呼び方がいいな」
中也は怪訝そうに眉を寄せた。
「愛を感じる……? 手前、また脳みそが腐ったようなこと言ってんのか」
「ひどい言い草だね。でも、今日はどうしても譲れないんだ。ねぇ、私を『名前』で呼んでみてよ」
一瞬、室内の空気が凍りついたように静まり返った。 中也の指がぴたりと止まる。彼は太宰の言葉を脳内で反芻し、その意味を理解した途端、顔面を真っ赤に染め上げた。
「……は、ぁ!? 手前、何言って……!」
「だって、私たち、もうそういう仲だろう? いつまでも名字で呼び合うなんて、なんだか距離がある気がして。ね、治、って呼んでよ」
「お、治……ッ、言えるかそんなもん!」
中也は弾かれたように身を乗り出し、膝の上の頭を退けようとした。しかし、太宰はがっしりと中也の腰に腕を回し、離れようとしない。
「嫌だ。呼んでくれるまで離さない。中也の不器用なところは好きだけど、こういう時くらい素直になってくれてもいいじゃないか」
「不器用とか関係ねェ! 気色が悪いんだよ、今更!」
「気色が悪い? ひどいなぁ。私はこんなに中也のことを愛しているのに」
太宰は中也の腹部に顔を埋め、ぐりぐりと押し付けた。その様子は、飼い主に甘える大型犬のようでもあり、あるいは執着心の塊のようでもあった。 太宰治という男は、世間的には冷徹で知略に長けた、得体の知れない存在として恐れられている。だが、中也の前にいる時の彼は、ただの「愛されたがり」でしかない。自分の存在を肯定してほしい、自分だけを見てほしいという渇望を、隠そうともせずぶつけてくる。
中也は深く、深いため息をついた。 この男に捕まったら最後、逃げ場はないのだ。昔からそうだった。
「……一回、一回だけだぞ」
「本当? 約束だよ、中也」
ぱっと顔を上げた太宰の瞳は、期待に満ちて輝いている。その無垢な表情を見せられると、中也はどうしても毒気を抜かれてしまう。
中也は咳払いをし、周囲に誰もいないことを(探偵社の鍵は閉まっているし、当然誰もいないのだが)入念に確認した。
「…………おさむ」
消え入りそうな声だった。 蚊の鳴くような、それでいて中也の誠実さが詰まった、震える声。
太宰は数秒間、瞬きもせずに中也を見つめていた。
「……もう一回」
「二度とは言わねェって言っただろうが!」
「聞こえなかったんだよ! 中也の声が小さすぎるから!」
「うるせェ! 恥ずか死にそうなんだよ察しろ!」
中也は顔を背け、耳まで赤くして憤慨している。その反応すらも太宰にとっては最高の蜜だ。
「ねぇ、おさむ、だよ。ほら、もう一度。今度は私の目を見て」
「……手前、調子に乗るんじゃねェぞ」
「乗るよ。中也が甘やかしてくれるなら、どこまでも乗る。ねぇ、おさむって、呼んで」
太宰の手が、中也の頬に伸びた。熱を帯びた指先が、中也の輪郭をなぞる。 中也は逃げることを諦めた。この男の「かまちょ」に付き合うのは、もはや日常のルーティンであり、自分自身の幸福でもあることを自覚してしまっているからだ。
中也は視線をゆっくりと戻し、太宰の暗い瞳を真っ向から見据えた。
「……治」
今度は、はっきりとした声だった。 太宰の胸の奥が、熱い何かで満たされる。それはかつて「生」への執着を持たなかった彼が、中也という劇薬によって植え付けられた、生存の理由そのものだった。
「…………満足か、この青鯖」
「うん。最高に幸せだよ」
太宰は満足げに微笑むと、今度は中也の首に腕を回し、その唇を塞いだ。 それは深い、深い沈黙を共有する儀式のような接吻だった。
しばらくして、唇が離れる。 太宰は中也の肩に額を預け、穏やかな声で囁いた。
「次は私のことを好きだって言ってよ、中也」
「……手前、強欲すぎやしねェか?」
「中也に対してだけは、一生強欲でいることに決めたんだ」
中也は呆れ果てた顔をしたが、その瞳には隠しきれない愛情が滲んでいた。
「……好きだよ。治。これで満足か」
「……あぁ、もう。中也は本当に不器用だね」
太宰は幸せそうに笑い、中也の胸の中に深く沈み込んだ。 夜はまだ長い。この静かな事務室で、二人の心臓が刻む鼓動だけが、確かにそこにある「生」を祝福していた。
「ねぇ、中也」
「今度はなんだよ」
「明日も呼んでくれる?」
「……考えとく」
「それ、絶対呼んでくれる時の返事だよね」
「うっせェ、寝ろ」
中也の手が、優しく太宰の背中を叩く。 そのリズムは心地よく、太宰は久しぶりに、悪夢を見ることなく眠りにつけるような予感がしていた。
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